文化祭の準備!? Ⅱ
その日の準備に区切りをつけ、生徒を帰した後、夜の7時ごろになって真琴は職員室へと戻ってきた。
理子と当番を入れ換わったので、これから校舎の見回りをするはずだ。
真琴と組むことになっている立花という教員を探した。机のところへ行ってみると、きちんと片付けられ、カバンもなくなっている。
――ウソ……!立花先生、見回り忘れて帰っちゃったの?!
一人で校内すべてを見回らねばならないのかと、真琴はめまいを感じた。
「ああ、賀川先生。そろそろ校内の見回りに行こうか」
その時、背後から声をかけられた。
真琴の胸を切なく痺れさせ、暖かさで包みこむこの声――。振り向くとそこには、愛しい人が立っていた。
「…どうして、古庄先生?立花先生のはずなんですけど」
古庄は、真琴が理子と換わったのを知らない上に、日にちを間違えているのだろうか。
「いや、立花先生と換わってもらった」
「換わってもらった?」
「せっかく俺が賀川先生とペアになるようにしているのに、一宮先生と入れ換わってるから、俺も入れ換わった」
古庄は真琴の側まできて、小声でそう言った。ニッコリと笑う無邪気な笑顔に、真琴は絶句する。
そう言えば、見回りの当番表を作ったのは、誰でもない古庄だ。30過ぎの大人の男が、そんな生徒みたいな工作をするなんて…。いろいろと画策をしているのは、理子だけではなかったらしい。
「こんなことでもしないと、一緒にいられないだろ?だから、去年は別々に回ったけど、今年は一緒に回ろう」
古庄の真意を知って、思わず真琴は赤面した。
言われてみれば、去年の見回りも古庄と一緒だった。けれども、静香への罪悪感と古庄への恋情との間で揺れ動いていた真琴は、古庄の傍にいるのが辛くて別々に回ることを提案した。
そしてその後、誰もいない暗い職員室で抱きしめられ、真琴は古庄の想いを受け入れた――。
そんなことを思い出すと、ただの見回りなのに、真琴は古庄の隣にいることを突然意識し始めた。
懐中電灯を片手に、暗くなった校舎を照らして確認していく古庄を、傍らで見守る。そんな何でもない古庄の仕草でさえも、凛々しく感じられて、真琴の胸はキュンと絞られた。
もう一度、一年前の夜のように、古庄の腕に抱きしめられたくなってくる…。
けれども、ここは学校だと自分に言い聞かせて、真琴はそんな自分の中の欲求を振り払った。
――それに、古庄先生も入れ換わったって知ったら、一宮先生ガッカリするだろうし……。
理子が見回りをする明日になって、理子はこの事実を知るのだろうか…。そのことを思うと、真琴の胸がチクンと痛んだ。
渡り廊下から中庭を見下ろすと、まだ居残っている生徒の姿が見えた。真琴は窓を開けて、生徒たちに向かって声をかける。
「おーい!もう7時を過ぎたから、早く下校して。でも、片づけはちゃんとやってねー!」
「はぁーい!」
生徒たちは声をそろえて返事をする。それを聞いた真琴は、ニコリと笑って窓を閉めた。
少し歩を進めた古庄は、黙って真琴が追い付いてくるのを見守っていた。真琴が傍らに来ると、古庄は柔らかく微笑む。
けれども、古庄はもうこれ以上待つのは嫌だった。何としても、真琴と甘い夜を過ごしたい。
今のこの世の中に、こんなにプラトニックな夫婦なんてあるだろうか…!
「それじゃあ、今晩はどうかな?この見回りが終わったら、もう帰るだけだし」
古庄の真琴を見つめる目に、熱がこもる。その熱意に押されて、真琴はうなずいた。
「いいですよ。行きましょう」
――……よっしゃー!!
古庄は心の中で、跳び上がってガッツポーズをした。
もうすでに、意識は食事の後の〝甘い夜〟ことへと向かっている。ゴクリと唾を呑み込んで、慎重に次の言葉を選んだ。
「それで…、食事が終わったら、賀川先生の……」
と言いかけて、不意に違うことが古庄の思考を過った。
「……そうだ。これからは、賀川先生のことを『真琴』って呼んでいいかな?」
突然そう言いだされたことに、真琴の思考が止まる。真琴のその沈黙を、古庄は真琴が考え込んでいると思ったらしく、説得のための言葉を続ける。
「もちろん学校以外で、というか、二人きりの時だけだ」
「どうぞ。そう呼んでください」
真琴がそう答えてくれたので、古庄は立ち止まって真琴の表情を覗き込んだ。自分の要求を、真琴に強要しているのではないことを確かめるために。
目が合うと、真琴は恥ずかしそうにニコリと笑った。その笑顔を見て、古庄の中の何かに火が付く。懐中電灯を消して、古庄はそっと真琴の手を取った。
真琴がその手の感覚に息を呑んで、薄暗闇の中の古庄を見上げる。……と同時に、真琴の視界の端に白い人影を捉えた。
古庄は手を繋ぐだけに止めようと思ったのだが、心の中の火はもう消しようがなく大きくなり、どうにも自分が抑えられなくなった。真琴の手を引いて、その腕の中へと真琴を抱え込んだ。
真琴も待ち望んでいた感覚――。
古庄の胸のあまりの暖かさに、真琴はその中へと溶け込んでしまいたくなる。
しかし、先ほどの人影のことを思い出した。こんなところを誰かに見られたら、大変なことになる……!
「誰か…、生徒がいます!!」
切迫した真琴の声に、古庄も弾かれたように抱擁を解き、その身を離した。
「まだ、残ってるヤツがいるのか?」
と呟きながら、古庄はその生徒の姿を探す。
真琴が指さした窓辺へと向かい、真琴と共に外を確認する。
前庭にある街灯の明かりの陰の、植えられているソテツの葉陰に、人影が動いているのが見える。
窓を開けて、二人の目に飛び込んできたのは……、生徒同士の熱烈なラブシーンだった。
真琴は驚きのあまり両手で口を押え、息を止めた。あまりの生々しさに声も出ず、体が硬直して鼓動が一気に早まった。
古庄も驚いているには違いなかったが、いつまでもそのラブシーンを眺めているわけにもいかないので、
「おい!!」
と、大声で呼んだ。
声をかけられて、生徒二人は跳び上がり、すぐに逃げ出そうとする。
「こらぁ!火野ぉ!逃げるな!!こっちに来い!!」
授業に行っているクラスの子だったのだろうか?古庄はその生徒の名前を知っていた。
名前を呼ばれたので、逃げてもしょうがないと思ったのだろう。火野というその男子生徒は、すごすごとこちらへと歩んできた。相手の女子生徒も逃げることはせず、火野の後についてきている。
「とんだ文化祭の準備だな」
と言いながら、古庄が窓から身を乗り出して、懐中電灯で二人を照らす。
その瞬間、真琴の目に映ったのは、女子生徒のはだけた制服とその下に着けているブラジャーだった。
「古庄先生!見ちゃダメです!!……早く、前閉めて!!」
真琴は腕に力を込めて、古庄を翻させた。しかし、古庄はチラリとそれを見てしまったらしい。後ろを向きながら、きまり悪そうに顔を赤らめさせた。
「……と、とにかく、7時には下校するように言われてるだろう?それも守らない上に、こんなところで何をやってるんだ。学校はそんなことをするのにふさわしい場所じゃないことくらい、分かっているだろう?」
古庄は、自分が今まさに〝そんなこと〟をしようとしていたことを、完璧に棚に上げている。火野とその彼女へのお説教を聞きながら、真琴は心の中で苦笑いをした。
「俺と賀川先生が見てしまったことを見過ごすわけにいかないから、これから生活指導の先生に言わなきゃならない。いろいろ訊かれて処分されるかもしれないけど、自分たちがやってしまったことだから、きちんと考えて受け入れるように」
と言ったところで、古庄は自分の腕時計に目を落とす。そういう何気ない仕草もとても絵になる古庄に、真琴は状況も忘れて見入ってしまった。
「もうすぐ7時半になって、管理棟が閉まってしまうから、とりあえず出よう。指導主任には、それから連絡だ」
それが自分に言われていることと分かるのに、真琴は一瞬を要したが、冷静に頷く。
「……ちょっと、そこで待ってろよ。逃げても同じことだからな」
生徒たちにそう言った後、古庄は真琴に目配せして歩き出した。真琴は職員室へ戻りながら、携行していたスマホで指導主任へと連絡を取った。
手早く荷物をまとめて管理棟から出ると、二人の生徒は言われた通り、さっきの窓辺でしょんぼりと並んで立っていた。指導主任がここへ到着するには、もうしばらくかかるはずだ。
「指導主任には俺が説明するから、賀川先生は今日は帰っていいよ」
と、古庄から心残りな視線を向けられて、真琴も少し寂しそうに視線を返す。これで、古庄が思い描いていた今夜の計画は、実行することなく崩れ去った。
――……くそぅ!お前らだけ、あんなチューをしやがって……!!俺なんか結婚してから、まだ初夜がないんだぞ!!
今の古庄にとって、あのラブシーンはものすごく目の毒だった。この二人さえいなかったら、古庄はあのまま真琴に、キスくらいはできていたかもしれない。
ずいぶん前に、真琴にキスをしたことを古庄は思い出した。しかし、初めて真琴に想いを告げたその時のことは、焦っていたのと興奮していたせいもあり、あまり思い出せない……。
恨めしそうに二人の生徒を見据え、それから愛しい真琴へと目を移す。
荷物を抱え歩いていく真琴が、校舎の陰に隠れるまで、古庄は切ない想いと共に見送った。