想定外…… Ⅱ
話をするといっても、今までのように職員室の中で気軽にできる話ではない。朝のように、ちょっと印刷室で……というわけにもいかない。
話をするには、仕事が終わった後に二人きりで会う必要があるのだが……、古庄はなかなかそれを真琴に切り出せずにいた。
真琴は普段通り仕事をしているが、古庄と目を合わせようとしない。古庄の驚異的な容姿に圧倒されて彼を避けていた、出会ったばかりの頃のように。
古庄が悶々としたまま、その日の授業も終わろうとしていた六時間目。この九月に、家庭科の教員の産休代替で赴任してきていた平沢という女性教師が、古庄へと近づいてきた。
「古庄先生」
声をかけられて振り向くと、平沢とのあまりの近さに驚いて、古庄は思わず一歩のけ反った。
「古庄先生、今日、何かいいことありました?」
そう問いかけてくる彼女の出で立ちは、大きな胸がいっそう強調されるぴったりとしたカットソーのノースリーブに、ミニスカート。全身から色気がにじみ出てくるようで、いくら若いからといっても教師には似つかわしくないものだった。
いきなり質問されて、古庄は無言で肩をすくめる。
「2時間目に先生が授業をした生徒たちが、今日の古庄先生はニヤニヤ顔が緩みっぱなしで気持ち悪かった…って、言ってたものだから」
そう言って古庄を見上げる目つきにも、色気がたっぷりだ。
「ああ、それは……」
古庄は平沢に目を置きながら、視界の端で隣に座っている真琴を捉えた。
二時間目は、婚姻届を出してきた直後で、真琴と結婚できた嬉しさで浮かれていたのだ。
「うん、いいことがあったんだ。すごくね」
そう言いながら、古庄は微笑する。しかし、真琴を想って浮かべた笑みは、平沢にとってはとても罪作りな表情だった。
途端に平沢の目つきに熱が帯びてくる。
「すごいイイことって、どんなことですか?聞きたい~♡」
この甘い声に、真琴が振り返って声の主を確かめる。
その表情が、出会った頃に真琴がよく見せていた仏頂面だったことに、古庄は敏感に反応した。
「いや、それはまた今度ね。ちょっと今は仕事があるから」
と、古庄は机へと向き直ってぎこちなく座り、用もないのに地理の教授用資料を本立てから取り出した。
平沢はそんな古庄を残念そうに見下ろし、肩をすくめてその場を去った。
古庄はゴクリとツバを飲み下して、真琴の様子をうかがう。この反応はもうすでに、怖い奥さんの尻に敷かれているダンナみたいだ。
真琴は古庄の方へは見向きもせず、クラスの一括徴収金のチェックをしている。その真琴に、古庄はメモを走り書きして渡した。
『今後のことをちゃんと話し合おう。今夜は空いてる?』
メモに気づいた真琴は、裏返して返事を書いている。
まるで授業中にこっそり手紙をやり取りしている生徒のような気がして、たったそれだけのことに古庄の胸はドキドキと鼓動を打った。
『今日は放課後、文化祭の準備で生徒を県立図書館まで連れて行くことになってて、帰りは何時になるか分かりません』
返ってきたつれない内容に、古庄の胸の高鳴りは一気に消沈する。けれども気を取り直して、再びメモを書いて渡す。
『明日の夜は、どう?』
明日は金曜日だ。もしかしたら、食事の後もそのまま一緒にいられるかもしれない…。
しかし、このメモを見て、真琴は申し訳ないような目をして古庄に直接声をかけた。
「明日は、前々から女子会をしようって言ってるんです」
「女子会?」
「そうなんです。内輪の会ですけど、仲のいい女の先生同士で」
「そうか……」
真琴もこの高校に赴任して一年が経ち、同僚の中には親しい友人も出来ていた。
しかし、古庄の淡い期待もその友人たちに阻まれて、一気に打ち砕かれてしまった。肩を落として、ため息を吐く。
「それに、古庄先生だって、放課後は文化祭の準備で忙しいでしょう?クラスの方も、生徒会の方も」
真琴の言う通り、今年古庄は特別活動の分掌の中で、生徒会を担当していた。
生徒会のご意見番となるこの担当は、逐一生徒会の指導に当たり、生徒会の発案した事を特活部や職員会議で報告しなければならず、多忙を極める。
特に、この文化祭前は、部活などはそっちのけで、つきっきりで一緒になって準備に駆け回っていた。
それでも、めげてはいられない古庄が、週末のことを訊こうと思った矢先、
「この土日も、私は祖父の七回忌で実家に帰らなければならないし、古庄先生だって部活があるでしょう?」
と、またもや真琴から現実を突き付けられた。
そうなのだ。もうラグビー部の花園予選まで1か月ちょっとしかない。貴重な週末は、練習試合に当てられていた。
古庄はがっかりしたが、真琴が自分の仕事の内容まで把握してくれていることに、少し救われた気がした。
それだけ、いつも真琴が自分を気遣ってくれているということだ。だからこそ、些細なことに困ったときでも、いつも真琴は助けてくれるのだ。
「お互い、今の生活はすぐには変えられませんから、しばらくは今までのままで…ということになると思います」
落胆している古庄に、真琴はそう言って、少し寂しく微笑んだ。それから、何か用事をするために席を立ち、職員室を出て行った。
『しばらく今までのままで…』ということは、今まで通り、抱きしめたいのに我慢を強いられる…そんな生活を送らねばならないということだろうか。
真琴の言ったことの意味を確かめて、古庄は欲求不満で爆発しそうになった。
目を閉じ、きつく腕組みして、真琴を愛しく想う感情の荒ぶりが収まるのをただ待った。
真琴を心置きなく抱きしめられるために…、真琴がどこへも逃げて行かないように…、結婚という形を選んだ。
それなのに、真琴はあんな顔をして涙をも流し、自分の腕の中に止まろうとさえしてくれない。
――……こんなはずじゃなかった……。
腕組みを解いて、気を紛らわせようと、脇に置いてあった新聞を開く。けれども、新聞のどんな記事も、古庄の目に映るばかりで頭には入ってこなかった。




