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一年後の朝



 朝早い9月の職員室は、独特の爽やかさが感じられる。


 日中の喧騒が嘘のような静けさと、澄んだ空気の中。

 そこには、この世のものとは思えないほどの存在がある。



 ――それが、真琴の愛しい人だ。



「ちょっと、こっちに来てくれる?」


 真琴は出勤するなり、その愛しい存在、古庄から声をかけられた。

 いつもかなり早く出勤する古庄は、もう一仕事終えたところらしく、いつものように「日本経済新聞」を広げている。


 毎朝お弁当を作っている真琴は、古庄のような余裕はないのだが、この日は朝のうちにしなければならないことがあって、幾分早い出勤だった。



 窓から入ってくる朝のひんやりした風を感じながら、まだ人もまばらな静かな職員室の中を、古庄は隣接する印刷室の方へと向かい始めた。


 一緒に働き始めて、もうすぐ1年と半年が過ぎる。

 昨年度と同様、学年も分掌(学校内の係分担)も、当然教科も、全部一緒の真琴と古庄だったので、お互いが今何の仕事をしているのかは大体把握していた。


 あの日、誰もいない暗い職員室で抱きしめられて、想いが通じ合わせてから……、付き合ったりもしていないし、「好き」という意志の再確認もしていない。お互い〝ただの同僚〟という関係だったが、お互いが思っていることは自然と分かり合うことが出来ていた。


けれども、この日は、どうして古庄が自分を呼ぶのか分からなかった。

何か、急ぎの印刷物があって手伝ってほしいのだろうか?それにしては、さっきは余裕ありげに新聞を読んでいた……。


 本当は自分の仕事がしたいところだったが、古庄から頼まれることは断れない。古庄のためなら、ほんの些細なことでも役に立ちたい…。

 それは、真琴のいじらしい恋心だった。


 とはいっても、現実は自分の仕事の方も切迫しているので、何とか早く古庄の方の用事を済ませてしまいたい。これも、真琴の本音だ。


「古庄先生。印刷物ですか?すぐ終わります?そういえば、昨日生徒会の子が、文化祭のエンディングのことで、古庄先生に相談したいことがあるって言ってましたよ」


 前を歩く古庄の背中に、そんな風に声をかけながら、真琴は後を追いかけた。

 しかし、印刷室に入っても、古庄は何をし始めるわけでもなく、真琴へと意味ありげな視線を投げかけている。

 この時ばかりは彼の意図がくみ取れなかった真琴は、思い切って切り出した。


「あの私、今日の1時間目の授業の準備をしてないから、急いで準備しないといけないんです。用があるなら手短にお願いします」


 真琴にそう言われて、古庄もうなずく。


「…わかった。じゃあ、手短に済まそう」


 と言って、胸のポケットに差してあった茶封筒の中から、一枚の紙を取り出して、印刷機の上に置いた。


「これに、必要事項を書いてもらえるかな?」


 真琴は印刷機に歩み寄り、それを覗き込む。


 ペラペラの紙に、焦茶色の印字……。


 

「……!!?」



 真琴は目を丸くして、古庄を見上げた。

 口を開けて何か言おうとしているが、パクパクするばかりで言葉にならない。



「……こっ、こっ、こっ、これっ!……こここ、こ、婚姻届じゃないですか!!」



 やっと反応を示した真琴を、古庄は愛おしそうにじっと見つめてから、ニッコリと笑いかけた。


「ニワトリみたいな賀川先生も可愛いなぁ…」


 その古庄の得も言われぬ笑顔と、突飛な言動に、真琴は目の前の現実を一瞬忘れてしまう。


「…に、ニワトリ…?」


と、戸惑いながら眉を寄せて、言葉の意味を考える。そして、驚きのあまりどもってしまったことだと解って、真琴は顔を赤くした。


「いや、ニワトリは関係ないんだ。ごめん。急いでるんなら、そこに名前と住所、それに下に署名してくれたら、あとは俺がやるから。…ああ、ハンコもいるんだったな?出勤簿のハンコでいいよ。いつものところに置いてあるだろ?俺、取ってくるから、それ書いてて」


と、古庄は胸のポケットに差してあったポールペンを取り出して、婚姻届の隣に置いた。そして、軽快に印刷室を飛び出したかと思うと、真琴の机の所から真琴の印鑑を持って戻ってくる。

 真琴は、その一連の動きをただ見つめるばかりだ。


「ん?書いた?」


 古庄は、そう言いながら印鑑を渡してくれた。まるで、出張届けを書くかのような物言いに、真琴は何と言って答えたらいいか分からないどころか、開いた口が塞がらない。


「……ん?」


 働きかけても真琴が無反応なので、古庄は腰をかがめて真琴を覗き込んだ。


「……!!」


 その端整な顔を間近に見てしまい、真琴の心臓が跳ね上がる。とっさに目を逸らして、手元にある婚姻届に視線を落とした。


 すでに、古庄の名前と住所、署名は書かれており、しっかりと捺印されている。丁寧に書かれたその字から、古庄の真剣な想いをくみ取って、真琴の胸がキュンと高鳴った。

 婚姻届を見つめたまま黙ってしまった真琴に、古庄が囁きかける。



「……今日で、1年経っただろ?この日を待ってたんだ……」



 真琴は顔をあげて、古庄を見つめた。

 1年前、想いを確認し合った夜のことを思い出した。


 親友の心を思いやって、1年間待つことにした約束を、古庄は律儀に守って待ってくれた。あれから、古庄は一度も「好きだ」と言ったり抱きしめたりはしてくれなかったが、その間ずっと想ってくれていた――。

 毎日会う古庄に、真琴がずっと心の中で想いを語りかけていたように……。


 胸が切なく絞られて、真琴の瞳が潤んだ。そんな真琴の顔を、古庄も優しい表情で見つめ返す。しばし、甘いひと時が流れていく…。


 …けれども、古庄は肝心の目的は忘れていなかった。


「さあ!だから、これ、書いて!」


 その一言に、真琴も現実に引き戻されて、再び目が点になる。


「いや、でも。いきなりコレ?!まずは、普通に付き合ったりしてから……」


 婚姻届を出すということは、結婚するということだ。そんな大事なことを、こんなに簡単に決めてしまっていいはずがない。

 そもそも、一年前には『それからのことは、また考える』と言っていただけで、結婚する約束をしていたわけではなかった。


「普通に付き合った後は、結婚するんだろ?それとも、別れるのか?」


「わ、別れたりはしないけど……」


 古庄の危惧を、即座に真琴は否定した。側に古庄がいない生活なんて、もはや真琴には考えられなかった。


「だったら、今結婚しても結果は同じだろ?」


「そうだけど……」


 これに署名してしまう前に、いろいろと考えなければならないことがあるはずだ。結婚とは、そういうものだ。


「それに、俺はもうこれ以上待つのはイヤなんだ!」


 古庄の断言したその声は、思いの外響き渡り、印刷室の外へと漏れたのだろう。人が増えてきた職員室の数人が、印刷室の方へと顔を向けた。古庄と真琴は二人して、肩をすくめて挨拶をするように頭を下げる。


 確かに1年前の今日、『1年待つ』と約束を交わしていた。それから1年間、つい昨日まで、お互い他の同僚と同様の態度で接し、全く普通の同僚として生活をしてきた。真琴はそんな忙しい毎日に紛れて、すっかり『その日』を忘れていたのだが、古庄は指折り数えて待ってくれていたということだ。


……それだけ、真剣に深く、真琴のことを求めてくれているということだ…。


 そこまで思い至って、真琴の鼓動が俄かに乱れてくる。優しく見つめられているだけなのに、抱き締められているような感覚になる。


「早くしないと、1時間目の準備をする時間が無くなるよ」


 声を潜めて、古庄はそう真琴へと畳み掛ける。


「早くしないと…って」


 確かに、時間は刻々と過ぎていっている。準備をせずに授業をするわけにはいかない。早くすることを済ませて、自分の仕事に取り掛からねばならない。


 急いでいたけれども、真琴は少し考えたいと思った。……でも、考えて結論は変わるだろうか?多分、目的地は古庄と同じところを目指している。古庄の言うように、今決断しても、考えてから決断しても、結果は変わらない。

 今これを書いたとしても、すぐに提出するわけではないだろうから、その間にいろんなことを考えればいい。

 それに……、古庄に頼まれたことならば、どんな些細なことでも聞いてあげたい…。自分も、ちゃんと真剣に古庄のことを想っていることを、目に見える形で示したい…。


 真琴は、覚悟を決めて息を吐き、ボールペンを取った。印刷機の上の平らなところで、必要事項を書き込む。真琴がハンコを手に取ると、押しやすいように、古庄が甲斐甲斐しくミスプリントの紙を数枚重ねて下に挟んでくれた。


 くっきりと押された「賀川」という印影を確かめて、


「よし!」


と、古庄は小さくガッツポーズをした。まるで、顧問をするラグビー部の試合で、生徒が逆転トライを取ったときみたいに。


「あとは、保証人だな」


 そう言いながら、婚姻届を折りたたんで再び茶封筒の中へ入れた。そして、


「時間取らせて、悪かったね」


と、ニッコリ笑ったかと思うと、印刷室を走り出て、一陣の風のように姿を消した。



 真琴はそれから、自分の机にとって返し、我を忘れて授業の準備をした。二年生の理系クラスの世界史は、文系クラスより授業時間が少ないにも関わらず、進度は同じなので、1回の授業の内容がものすごく濃いのだ。


 ようやく授業の見通しがたった時、職員朝礼の前の学年の連絡が始まった。どこかに行っていた古庄は、滑り込むように席に戻ってきた。そして、何もなかったかのように、手帳を開いて胸のポケットからペンを取り、連絡事項を書き留めている。


 その胸のポケットには、あの茶封筒が差し込まれたままだ。

 あの中身を誰かに見られでもしたら、大騒ぎになる…。


 第一、原則的に、公立高校の教員同士の夫婦は同じ学校には勤務しない。古庄は、どういうふうに考えてるのだろうか…。


 ――……ま、役所に提出しなければ、結婚は成立しないわけだし……。


 真琴はそう思って、少し気を楽にした。約束の1年が経って、お互いの意思の確認をしたようなものだと思うことにして、仕事に専念するために心のざわめきを収めた。



 職員朝礼が済むと、クラス担任たちは席を立ち、自分のホームルームへと朝礼に向かう。

 一時間目の授業が入っている時は、朝礼から戻ってきて間髪入れずに、再び授業をする教室へと向かわねばならない。その間、真琴も古庄も、お互いの存在を気にするような余裕はない。真琴も自分の机に戻ってくるなり、用意していた授業道具と出席簿を抱えて職員室を後にした。


 一時間目に普通よりも速い進度で行う授業は、かなり負荷が重い。通常ならば、授業内容が確認できるように黒板一面に書いて消したりしない板書も、この授業では消して、また新たに書き足さねばならない。一時間中しゃべりっぱなしなので、口もカクカクしてくる。


 授業が終わった時には、まだ朝一番目だというのに、どっと疲れを感じてしまう。さらに、この曜日は二時間目に今度は文系クラスの授業が入っていて、真琴は座る間もなく、再び授業へ向かうのだ。


 なりたくてなった教師という職業だけれど、こんな時は自分が何をしているのかさえ分からなくなってしまう。でも、目の前にあるするべきことを、一つ一つこなしていくしかない……。

 そう思いながら、一時間目の授業を終えた真琴が、二時間目の授業の準備をしていた時、不意に古庄がやって来て、真琴に耳打ちした。



「さっき書いてもらったアレ。今役所に出してきたから」



 疲れていて思考停止状態の真琴は、何のことを言っているのか分からなかった。

 しかし、一瞬後には目を丸くして叫んでいた。



「出してきたぁ…?!!」



 真琴の声が職員室に響き渡る。職員室中の注目を浴びてしまったので、とっさに口を押えて会釈をした。


「出してきたって…!だって保証人は……!?」


 世界史の教科書を握りしめて、授業の準備をするふりをしながら、ヒソヒソと古庄に話しかける。


「保証人は校長と教頭になってもらった。それから一時間目が空いてたから、自転車でひとっ走り、市役所まで行ってきたんだ」


 そう言う古庄は、まだ帰ってきて間もないのだろう。少し息を荒げていた。


「次の時間はお互い一・二組の分割授業だろ?三時間目空いてるよな?この後のことについて校長と話をすることになってるから、一緒に校長室に行こう」


 つらつらと事情を説明する古庄に対して、真琴は開いた口が塞がらない。この驚愕は、さっき婚姻届を目にした時の比ではない。


「……ということは……」


 真琴がゴクリと唾を飲んで、ようやくそうつぶやくと、古庄は幸せそうに、極上の笑みで再び耳元で囁く。



「これで、賀川先生は俺の奥さんになったってことだな」



 古庄は真琴の肩をポンポンと叩いてから、授業道具を携えて出入口へと向かう。そして、出入口のところに立てられている大きな地図の軸のうちの一本を肩に担いで、足取り軽く職員室を出ていった。

 そんな古庄を、真琴は呆気にとられて見守っていたが、チャイムが鳴って我に返り、急いで授業道具を抱えて駆け出した。


 いつも通りに授業を始めたのはいいが、隣の教室から、授業をする古庄の声が聞こえてくる。地歴科の分割授業をそれぞれ担当しているので、隣合った教室で授業をするのは日常的なことなのに、この日の真琴はただそれだけで動転してしまって授業に集中できなかった。


 ……当然、この授業は支離滅裂……。生徒には申し訳なく思ったが、散々なものになってしまった…。





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