運命の桜
その瞬間、真琴に鳥肌が立った。
五色に塗り分けられた小さな色の粒が集まり融合して描き出しているのは……、絢爛に咲き誇る校門脇のしだれ桜。
モザイク画の見事なまでの再現力に、真琴は圧倒されて声も出ず、ただ立ち尽くしていた。
すると、屋上にいる生徒たちから声がかかる。
「賀川先生ー。どうですかー?傾いてませんかー?」
我に返った真琴が、絵全体のバランスを確認して、屋上を見上げる。
「うん、大丈夫。バッチリよ!お疲れ様!」
真琴がそう言ったと同時に、生徒たちから声が上がった。
「終わった―――っ!!!」
「やった――――っ!!!」
歓喜の声と共に、真琴の顔にも笑みが灯った。こんな瞬間に立ち会える度に、いつも真琴は教師になれたことを心の底から感謝する。自分だけの到達や成功ではなく、生徒たちと共に成し遂げられることは、真琴の喜びをもっと大きなものにした。
これまでも、そういう経験は何度もしてきたけれども、このモザイク画はその中でも、真琴にとって特別なものだ。ただ生徒たちとだけではなく、誰でもない一番大切な人と一緒に、苦しい状況も乗り越えて完成させられた……。そんな、真琴の中のいろんな想いが詰まった作品だ。
その想いを噛みしめながら、真琴は改めてモザイク画に目を移した。
全校生徒のパワーが凝縮されたような、絵全体から放たれる迫力に、吸い込まれるような感じがする。同時に、桜の高潔で繊細な美しさが、真琴の胸を切なく突き上げた。
我を忘れてモザイク画に見入っていた真琴の瞳から、いつしか涙が溢れてくる。涙で視界が滲んできても、真琴はそこから目が離せなかった。
「……真琴……」
モザイク画に感動して敏感になっている真琴の心に、その声は沁み通っていく。真琴は涙を拭うことなく、声がした方に振り向いた。
古庄はその顔を見て少し目を見開いたが、涙の意味を理解すると、優しい微笑みをたたえた。
「この絵があんまりすごくて……。何度も文化祭は経験してるけど、これだけの大作は見たことありません」
「そう、大作だな……。ハプニングもあったけど、みんなよく頑張ったよ。あいつら……、疲れ果ててさっきの教室でひっくり返って寝てる」
古庄がそう言うのを聞いて、真琴はフッと笑いをもらしながら、手のひらで涙をぬぐった。
その仕草を見た古庄の喉元に、切ない痛みが通り過ぎる。唇を噛んでそれに耐えた後、自分の胸の中にある想いを真琴に告げるために、思い切って口を開いた。
「……この絵は、そこに桜を見上げる君が立って、完成するんだよ」
古庄の声色が変わったことに、真琴は気が付いて、黙ったままモザイク画から古庄へと視線を向けた。
「初めて君に出逢った時、君はそうやってこの桜を見上げていた……。あの時の光景が、ずっと俺の中にあって……」
そう話しながら、古庄も真琴を見つめ返す。
古庄の真剣な眼差しと言葉は、真琴の心を切なく震えさせる。その甘い痺れを感じながら、真琴はただ続きを待った。
「それ以来、俺にとってこの桜は、君そのものなんだ。……優し気で可憐で、それでいて凛々しくて……」
想いを言葉にしながら、古庄は声を詰まらせた。自分の中の想いが大きすぎて、それをどう表現すればいいのか分からない。
でも、今は言わねばならない。この絵の力を借りて、ずっと真琴に伝えたかったことを――。
「……だから、君のために……いや、寝ても覚めても君のことを想っている俺自身のために、どうしてもこの桜を絵にしたかったんだ。……そして、君にこの絵を見てもらいたかった」
その言葉を受けて、真琴は改めてモザイク画へと目を向けて、しっかりと見つめ直した。古庄の言葉が心に沁みて、再び涙が溢れてくる。
この絵から伝わってくる感動や、抱えきれないほどの古庄への想いを表現して応えたかったが、真琴は胸がいっぱいになって、何も言葉にはならなかった。
すると、古庄の方が再び口を開く。
「俺の個人的な願望のために、全校生徒を巻き込んでしまったし、君に見てもらう以前に、ずいぶん君に助けてもらった。きっと君がいなかったら、この絵は今日ここに掛かることはなかったよ……」
古庄もモザイク画を見ながら、肩をすくめて、恥ずかしそうに少し笑った。
「それに、俺のクラスの面倒もずいぶん見てくれてたのも、知ってるよ。……ありがとう……」
古庄の感謝の言葉を聞いて、真琴は弾かれたように、古庄を見上げる。
「……私は!」
突然、口を衝いて出てきた真琴の声に、隣にいた古庄も、驚いたように真琴に向き直った。
「……私は、あなたのために、あなたの力になれることが嬉しいし、そのためだったら、何だってするんです……!」
古庄が語ってくれるように甘く、真琴も想いを伝えたかったけれど、うまく表現できなかった。
だけど、今この胸にある想いを、大切な人に知っていてもらいたい……!ただ、それだけだった。
「……だって、私はあなたの奥さんだから……」
真琴のその一言は、古庄の心を一瞬で貫いた。
抑えようのない、とてつもない真琴への想いが溢れてくる。迷うことなく真琴の腕を引いて、懐深くに抱きしめた。
もう、誰に遠慮することも、我慢もしなくていい……。やっと想いのままに、真琴を抱きしめることができる……。
思いの丈を込めて古庄がその腕に力を込めると、真琴の華奢な体がキュッとしなった。
古庄の胸に体を預け、真琴は目を閉じた。切ない鼓動を伴いながら、自分の居場所はここなんだと悟る。
自分の命よりも大切で、誰よりも愛しい人の腕の中――。
「ああ…、もっと早くこうやって、あなたに抱きしめてもらえばよかった……」
こんなにも、二人が同じ想いを共有していると確信することができる。二人の間の想いが同じものなら、それ以上に大事なものなどないはずだ。そうすれば、あんなに余計なことを考えて、惑うことなどなかったはずだ。
ポツリとつぶやかれた真琴の言葉に、古庄は抱擁を解いて真琴の頭を両手で抱え、じっとその顔を見つめる。真琴は涙が残る顔で、花のように微笑んだ。
もう、想いは何も言葉にならず、言葉の代わりに古庄はそっと唇を重ねた。
触れるだけで離された唇は、お互いが同じ意志を持っていたかのように、一瞬後にはもう一度重ねられていた。狂おしいキスを交わしながら、古庄は再び真琴の肩を抱えこむ。真琴もキスが深まっていくにつれて、古庄の背中に回した手できつくシャツを握りしめた。




