差し入れ
「……あれで、間に合うんでしょうか……?」
職員の昇降口で、理子がポツリと漏らした。真琴が靴から理子へと視線を移して口を開こうとした時、階段を平沢が降りてきた。
「お疲れ様でした」
本当に疲れた感じで、平沢が声をかけてくる。
「お疲れ様でした。平沢先生は特活部じゃないのに手伝ってくれて、本当に助かりました」
真琴がそう言って労うと、平沢も肩をすくめる。
「いえいえ、古庄先生がいるって知ってたら、もっと早く行ってたんですけど♡」
この言葉に、真琴は思わず絶句する。金曜日の夜、あれだけことをしておいて、堂々とこんなことを言える平沢の神経に恐れ入った。
それとも、平沢は酔っぱらっていたので、あの時のことはあまり覚えていないのかもしれない。いずれにしても、まだ古庄のことを諦めている感じではない。
理子の方は、極まりが悪いのだろう。何の反応も示さず、平沢の方から目を逸らして黙っている。それぞれの思惑を抱えながら、3人はそろって職員の駐車場まで歩いた。
「一宮先生、さっきの話だけど。間に合うとか、そういうことは問題じゃなくて。生徒に『やれるだけのことはやりつくした』って思わせることが大切なんじゃないかな?あれだけ頑張ってた生徒たちの中に、文化祭を後悔の思い出として残したくないじゃない」
真面目な理子は、真琴の言葉を真摯に受け止めて、じっと真琴へ視線を投げかけた。
「でも、やっぱり。あれは全校生徒が手掛けている物だから、間に合わないで展示できないっていうのもマズくないですか?」
横から口を出してきて、話の腰を折ったのは平沢だ。街灯の灯る通路を歩きながら、真琴は頷いて続けた。
「確かに、そのことは生徒自身も言ってた。期限内に何かを仕上げる…っていうのも、信頼を大事にしたり責任感を果たしたり、生徒にそういう感覚を育てるのにすごく大事よね。だけど、大丈夫。古庄先生はちゃんと間に合うようにやりとげるから。そうでしょ?」
言葉の最後は、敢えて明るく真琴はそう言い放った。理子と平沢の目に映り、彼女たちが熱を上げている古庄は、ただ容姿が完璧すぎるだけの男ではないと、真琴は信じたかった。
その反面、真琴が断言したので理子と平沢は面食らったようだった。作業をする現場を離れた時、モザイク画の修復の終わる見通しは少しも立たっておらず、何を根拠に真琴が確信しているのか見当もつかないようだ。
「それじゃ、お疲れ様でした」
駐車場に着いて、3人はそれぞれ自分の車へと散っていった。
真琴は2人の車が夜の深い影に消えて行ったあと、滑らせるように駐車場から車を出した。帰宅するのならば、右に曲がる。けれども、真琴は迷うことなく左のウインカーを出した。
皆が帰ってしまって、教室内は一気に閑散としてしまった。残っているのは、男子生徒が六人ほどだ。
この日までは、細かい作業の多いモザイク画はどちらかというと女子の実行委員が中心になってやっていたのだが、今ここにその女子はいない。
誰も口には出さないが、「これだけの人数でやり遂げられるのか…」という不安を、誰もが抱えていた。というより、絶望感さえ漂い始める。
「ここで男を上げようぜ。明日の朝までに、これを校舎に吊るして、全校生徒を驚かせてやろうじゃないか」
古庄がそう鼓舞すると、男子生徒たちは消極的な笑みを見せた。
――こんな状態では、本当に間に合わないかもしれない……。
古庄は居ても立ってもいられなくなり、自分も油性ペンを取って色塗り作業を始めた。
何としても完成させようと躍起になっているのは、自分だけかもしれない……。
自分の個人的な感情に、生徒たちを巻き込んでいるだけかもしれない……。
そんな思いが古庄の中に漂ってきたが、それを振り払うように作業に没頭し始めた。
古庄は、何としてもこのモザイク画を完成させたかった。もちろん、これの作成に夏休み前から準備してきた生徒たちのために、そして――。
コンコンコン……
その時、教室の窓を叩く音が聞こえた。生徒たちと古庄の視線が、一斉に窓の方へと向く。
そこには、帰ったとばかり思っていた真琴が、ひょっこりと顔を出していた。古庄は席を立って、窓を開けに行く。
「廊下の方の出入口を開けてもらえますか?」
窓越しに真琴からそう言われて、古庄は廊下の突き当たりの出入口へと向かった。特別教室棟は、管理棟と違ってセキュリティーが入っていないので、オートロックにはなっておらず、中から鍵を開けると出入りが出来る。
古庄が古い校舎の重い引き戸を開けると、真琴は大きなレジ袋を両手にぶら下げて立っていた。
「お弁当を買ってきました。お腹が空いたでしょう?」
時計を見るとすでに8時を回っている。古庄自身は神経が高ぶっているのか、空腹を感じなかったが、育ち盛りの生徒たちは相当ひもじい思いをしているに違いなかった。
予想通り、生徒たちは真琴の登場に、真琴よりも弁当の到着に大喜びした。真琴はもう一度車との間を往復して、飲み物や作業の間に摘まむお菓子の類を運び込んだ。
「……ありがとう」
真琴の気遣いに、古庄は心の底から感謝した。自分一人だったならば、生徒たちの空腹に気づくのが、ずいぶん遅くなっただろう。
古庄の言葉を聞いても、真琴はいつものように、ほのかに笑っただけだった。
見返りを求めず、感謝の言葉さえも遠慮するような真琴の態度に、古庄の中の真琴への愛しさが募って、体中の血が逆巻き震えが走った。




