絶対絶命! Ⅰ
職員朝礼が始まって、その日が始まると、古庄はそんな心の中の渦巻くことに煩わされる余裕さえなくなった。目の前には、なすべきことが目まぐるしく移り変わって、押し寄せて来る。
今日は授業は午前中のみで、午後から文化祭の準備に当てられる。明日からの文化祭に向けて、短時間で一気に追い込みをかけ、学校は一瞬にして様変わりする。
9月とはいえ、まだまだ暑い中、生徒も先生たちも総出で、文化祭を盛り上げるため汗まみれになって働いた。
特に暑いのは、体育館だ。古庄は自分のクラスのことは生徒に任せきりで、自分はもっぱら実行委員たちと体育館のセッティングやオープニングやエンディングの打ち合わせ、ステージの最終調整に追われた。
同じ特別活動の担当でも、真琴は明日からの文化祭で監督や生徒誘導などがあるくらいで、今は自分のクラスの方にかかり切りだった。
真琴のクラスの展示は世界遺産なので、世界遺産の分類やそれぞれの一覧、特に日本にある物の詳しい説明などが、教室の壁中に貼られている。
室内の大部分を占めるのは、直径5メートルほどの実物大で作られた屋久島の縄文杉の模型。幹には、製材所に行って生徒たちが集めてきた杉の皮が貼り付けられている。
この模型は凝った作りになっていて、幹に開けられた4つの覗き窓からは、中国の万里の長城、エジプトのピラミッド、ローマのコロッセオ、ペルーのマチュピチュ、4つのジオラマを、それぞれ見ることができる。
特に、縄文杉の模型は、一気に作り上げなければならないので、クラスの生徒全員と真琴と副担任の高原とで大騒動だった。
真琴は時折、隣の古庄のクラスを覗いてみては、その進捗状況を確認した。真琴のクラスと同じような展示内容ということもあって、それぞれのクラスの生徒同士も協力し合っていたらしく、けっこう入り乱れて作業をしている。
「賀川先生!ウチのクラス、来てみて!!」
夕方になって準備も一通り終わり、帰り支度をし始めた頃、古庄のクラスの生徒たち数人が、真琴を呼びに来た。
手を引かれて隣の教室に入ると、そこは白と青の世界――。
絶景として有名なボリビアのウユニ塩湖の風景に包まれた。
床を白くし、ラップフィルムなどで光の反射などを上手く表現している。壁には模造紙を貼り、絵を描いただけなのに、よほど絵の上手い生徒がいるのだろう、本当に遠く地平線を見渡しているような気持ちになった。
そして、さらに誘われて一旦教室を出て、別の入り口から入ってみると、今度は赤茶の世界が広がる。
段ボールを使って表現された縞模様の波が折り重なったような空間。
「〝The Wave 〟っていう、アメリカにある一日に二十人しか行けない秘境なんです」
と言って、生徒の一人が素材となった写真を見せてくれた。
数時間でここまでのものを作り上げる、生徒たちの力量に、真琴は目を見張った。
「古庄先生がほとんど手伝えなかったのに、生徒たちだけでよく頑張ったねぇ」
真琴が感嘆と共にそう言うと、古庄のクラスの生徒たちは、口をそろえて言ってくれた。
「その代わり、賀川先生が手伝ってくれたじゃん!」
「実際、古庄先生より頼りになったし!」
と、笑い合いながらの言葉に、真琴は本当に嬉しくなってくる。
生徒自身にそう言ってもらえたことはもちろん、その生徒を介して、古庄の役に立てているように思われて、それだけで真琴の心は、温かいもので満たされてくるように感じられた。
「古庄先生は生徒会の方が忙しかったからね。私だって、うちのクラスとテーマが近かったから手伝えたのよ」
真琴がこう言うのは、古庄が決して非情だからクラスの方に来なかったわけではないことを、生徒たちに知っておいてほしかったからだ。
夏休み前から休日も返上して、この文化祭に向けて古庄が尽力してきたことを、真琴は誰よりも側で見ていた。
クラスの方へ顔も出さないところを見ると、きっと文化祭全体を取り仕切るのに大変なのだろう。
「隣同士のクラスでテーマが近かったのは、私たちも助かりました。お互いけっこう協力し合えたし。それに、先生。見て……」
古庄のクラスの女子が、指差しながら真琴の耳元へ口を寄せた。
「先生のクラスの加藤有紀ちゃんとウチのクラスの溝口くん。この文化祭の準備の間に急接近したんです。多分、付き合うと思います」
真琴が指し示された方へ目をやると、そこには入学したての頃、古庄に恋い焦がれていた有紀の姿があった。
「セロテープ取って」
「はい、どうぞ」
〝The Wave 〟の細かいところの修正に余念のない溝口という男子生徒の隣で、有紀は溝口の手足になるように甲斐甲斐しく手伝っている。
古庄が『結婚する』という噂を聞いたあの時、あんなに泣いていた有紀が新しい恋を見つけたことに、真琴の心は喜びでいっぱいになる。
有紀が感じているときめきと、真琴の感覚が同化する。始まったばかりの恋の光景を見て、真琴の胸はドキドキと大きな鼓動を打ち始めた。
真琴は、無性に古庄に会いたくなった。
この学校に着任した日、しだれ桜の下にたたずむ姿を見たときから、毎日会うたびに心にときめきをくれる、何よりも愛しく大事な人に――。
今、忙しく大変な思いをしている彼の傍に飛んで行って、その苦労を分かち合いたいと思った。何でもいいから、彼の役に立ちたいと思った。
真琴が、すぐにでも古庄を探しに行こうと思ったその矢先、それまで全く教室には姿を見せなかった古庄が、そこに現れた。
「賀川先生!大変なことになった!!助けてほしい!!」
古庄は血相を変えて、息を切らせている。尋常ではない様子に、真琴も今抱えていた感情の高まりを忘れて、非常時に対応する教師の顔になった。
だが、突然の古庄の登場に、古庄のクラスの生徒たちは沸いた。
「わっ!!古庄先生、見て!!私たちの力作!」
生徒たちは古庄の周りに群がり、自分たちの頑張りを誇らしげに語りかける。やはり、相変わらず女子生徒には絶大な人気があるようだ。
生徒たちからそう言われて、古庄は教室を見回して息を呑んだ。
「おお!これは、〝The Wave〟だな!すごいじゃないか!!」
さすがに地理教師で博識の古庄は、一目で教室内に再現された風景を言い当てた。
生徒たちの頑張りを労うように、古庄は生徒一人一人の頭や肩に手を置いて、自分の周りの人垣を解いてくれるように促した。そして、心配そうに側で待っている真琴に、ようやく向き直る。
「大変なことって?」
「うん。行きながら説明する。ちょっと俺も困ってしまって……」
と、古庄は真琴の問いに答えながら、その背中を押して教室を出た。
足速に歩きながら、古庄は事の顛末を真琴に話し始める。
「さっき例のモザイク画を特別教室棟の屋上から吊り下げてみたんだけど、その時に失敗してね。絵の4分の1が破れて落ちてしまった。しかも、下で書道部の子達が書道パフォーマンスの準備をしてて……」
「……書道部って、まさか……」
話を聞きながら、真琴は状況を想像して顔を青ざめさせた。
「落ちた部分は、墨汁がべっちょりだ……」
古庄も険しい顔をして、真琴の推測を裏付けた。
とにかく、現状を確認しなければならない。真琴は古庄と並んで、事件の現場へと急いだ。




