微妙な関係
週明け、明るく澄んだ朝の空気の中、いつものように古庄は自分の机で新聞を広げていた。
「おはよう」
そう言いながら、ほのかに笑ってくれた古庄を見て、真琴は今更ながらに自覚する。
――この人のことが好き……。
自分でも制御ができないくらい、とても深く強く。その深い想いは、痛みを伴って真琴の胸に沁み渡り、体が震えた。
そう自覚するのは、この日に限ったことではない。出勤して、十数時間ぶりに古庄に会うたびに、真琴はこの想いを確認する。
毎朝、こうやって会えることが分っているから、自分のアパートで過ごす、会えない十数時間を一人でいられる。ずっと古庄に会えない時間が続いたら、真琴の心は凍えてしまって、きっと生きていけないだろう。
それほど、古庄は真琴にとってかけがえのない存在だった。
それなのに、真琴は古庄に、ひどい態度をとってしまった。『一緒にやっていける自信がない』と、言ってしまった。
古庄を失っては、生きていけないと思うのに。そもそも、古庄は自分には分不相応なほどの素晴らしい男性で、その人が想ってくれていることは身に余ることだと分っているのに。
「おはようございます」
古庄への想いがこみ上げてきて、その切なさと、古庄への申し訳なさに、真琴はまた泣きそうになった。
辛うじてあいさつをし、涙を抑えるために作り笑いを古庄に向けた。
古庄を気遣って作った真琴の健気な笑顔は、却って古庄の心をズキンと突き上げた。
真琴のどんな表情も知り尽くしている古庄にとって、真琴が無理をして笑っていることは、すぐに見破ることができた。
――愛しい人にあんな顔をさせてしまった……。
それは、泣き顔を見せられるよりも、古庄にとって辛いことだった。
この週末、真琴ときちんと話をしようと、何度も古庄は思った。あのスナックでの平沢とのことについて、そしてこれからの結婚生活のことについて。
けれども、日中は部活と文化祭の準備に追われて、なかなか時間を確保できなかった。夜になって帰宅した後も…、あんなに待ち望んだ一緒に過ごす夜だったけれども、結局古庄は真琴に連絡をしなかった。
それほど、あの真琴の〝一言〟が心に響いて……、怖くてどうにも動きが取れなかった。
一瞬で女性の心を虜にできる古庄も、心から惚れている真琴が相手では、ただの臆病な男にすぎなかった。
「……おはようございます」
真琴とは反対方向から、甘ったるい声で古庄に声がかけられる。
古庄が振り向くと、案の定平沢がそこに立っていた。
グロスでギラギラしている唇に、思わず目がいってしまう。あの唇が自分のそれに触れたかと思うと、古庄の身の毛がよだった。
「あの……、金曜日の夜は、あたし、古庄先生に失礼なことをしてしまって……」
何もなかったことにして振る舞ってくれればいいものを、敢えて持ち出してくるのは、思い出させて意識させようとしているとしか思えない。
――この人が、あんなことさえ、しでかさなきゃ……。
古庄は思わずそう考えてしまったが、真琴とギクシャクする原因はそれだけではない。
「いや、気にしてないから。もうその話は……」
普段ならば愛想笑いの一つでもしてあげるところだったが、この時ばかりは難しかった。
古庄の素っ気ない態度に、さすがの平沢も古庄の言葉にならない不快感を感じ取ったらしい。消沈してその場を離れる。
古庄は、早くあの出来事を忘れ去ってしまいたかった。自分の中からあの感覚を消すよりも、真琴の記憶からあの光景を抹消したいと思った。
そして、どうにかして真琴とのこの微妙な関係を修復したかった。
婚姻届を出す前、1年後を待つ日々。
それはただの同僚として接することしかできなかったが、お互いを気遣い合い、楽しく良好な関係だった。
――せめて、あの時に戻れたら……。
古庄は、もう一度真っ新なところから、1年後をやり直したいと思った。




