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恋のさや当て Ⅱ


 平沢の行為に、古庄は思わず体を硬くした。しかし、泣いている平沢を、無下に押し退けることもできない。

 真琴の視線を感じて身のすくむ思いだったが、そのままじっとして泣き止むのを待つしかなかった。


 真琴よりも苦い表情で睨んでいたのは、理子の方だ。理子は、どうにかして古庄を平沢から引き離そうと思いを巡らせていたけれど、平沢の方が一枚上手だった。


「あの時…、お祖父ちゃんがいてくれて、相談に乗ってくれてたら、あの人の心は離れていかなかったかもしれません……。お祖父ちゃんは、あたしの心の支えでした。……古庄先生は、あたしのお祖父ちゃんに似ています。……あたしの理想の男性です……」


 涙声で切々とそう語りながら、平沢はおもむろに古庄の首に腕を回した。そして――。



――……あっ……!!!



 周りで様子をうかがっていた一同は、息を呑んだ。

 平沢が古庄の首を引き寄せて、その唇にそっと口づけている。


 当の古庄が目を剥いて硬直しているのと同じように、真琴の体も心も固まってしまった。ただ汗ばむ手のひらで、無意識に膝のところのスカートを、ギュッと固く握りしめていた。


 今、真琴の目の前で起こってしまった出来事を、自分の中で処理するのには時間を要するかに思われた。

 しかし、その硬直は、思ってもみない形で破られる。


 理子が立ち上がったと同時に、平沢の肩を押して古庄から引き離し、


パッチ――――ン!!


と、平沢に一発平手打ちを見舞った。


「何やってんのよ!!この…ハレンチ女!アバズレ!色情魔!場所と立場を考えなさいよ!!あんたなんか…!」


 と言ったところで理子は、皆の注目が平沢ではなく、自分に集まっていることに気がついた。


 清楚で可憐な理子から発せられたとは思えない、この激しい言葉に、一同は唖然として黙り込む。カウンターに座っていた同僚たちも、驚いたように振り向いている。

 平沢は、叩かれた頬を手で押さえて、ますます涙を溢れさせた。


「…まぁ、一宮ちゃん。平沢先生もかなり酔ってるみたいだし、古庄くんだって大人でファーストキスってわけでもないんだから、大目に見てやったら?」


 石井にそう言われて、理子は自分がしでかした幼稚な行為に気がついて、顔に血が上った。


「……私……」


 理子は何を言いかけたのか、その後は言葉にならず、いたたまれなくなり、そのままその場から駆け出した。


 真琴は呆然と、理子の一連の動きをただ目で追っていたが、店のドアに付けられたベルが鳴り、理子が出て行ったことに気がついて、とっさに席を立った。残されていた理子のバッグと自分の物を抱えて、後を追う。


 まだ、遠くには行っていないはずだ。きっとどこかで泣いているに違いない。弱みにつけ込まれて、悪い男に絡まれたりしたら…と心配しながら、真琴は酔っ払いがそぞろ歩く、賑やかなネオンの街をあちこち見回して、理子を探した。



「賀川先生!」



 背後から声をかけられ、振り向くと、古庄が追いかけて来ていた。


 古庄の顔を見ると、先ほどの衝撃的な光景を思い出してしまうので、今は放っておいてほしかった。早く忘れ去るために、焼きついたあの像を網膜ごと削り取ってしまいたいくらいだった。



 真琴は返事もせず、顔を背けて、再び理子を探し始める。真琴のこの態度を、古庄は怒っていると思ったらしく、


「賀川先生!!」


近くまで来て、もう一度真琴を呼んだ。

 しかし、今度は至近距離にもかかわらず、真琴は振り向きもしなかった。古庄の眉間に、皺がよる。

 


「……真琴!!」



 そう呼ばれた瞬間、真琴の体が跳ね上がった。

 古庄のその一言は、真琴の心臓を撃ち抜いて痺れさせた。思わず立ち止まって、ゆっくりと振り返る。


「一宮先生を探さないと…」


 追いついて来た古庄に、真琴は顔を背けたまま、一言つぶやいた。


「一宮先生よりも、まず君だ。……説明させてくれ」


 真琴の側に立った古庄が、静かに懇願した。

 真琴の心をなだめようとしたその言葉を聞いた途端、逆に真琴の胸には言いようのない感情が渦巻いて、泣きたくないのに涙がこみ上げてきた。


 そもそも、自分の好きな人が、ましてや自分の夫が、他の女性とキスをしてしまったのだ。理子のように逆上することはなかったが、真琴がショックを受けているのには違いなかった。


「……目の前で一部始終を見てたんだから、私に説明する必要なんてありません」


 真琴は涙を食い止めるために、少し強い口調でそう言って、古庄を睨んでしまった。古庄も真琴の言葉と目つきに怯んでしまい、その後の言葉が続かない。


 結婚してから、まだ真琴とはキスもしていない。それなのに、その最愛の奥さんの目の前で、他の女とキスをしてしまうなんて、そんな間抜けなことをしでかす男は、そうそういないだろう。

 奥さんの逆鱗に触れても、申し開きの余地もない。


 ただ、あの行為に自分の意思は微塵も介在していなかったことを、古庄は真琴に解ってもらいたかった。そして、自分の唇に残る忌々しい感覚を、真琴の力で早く忘れさせてほしかった。


 けれども、こんな状況で弁解してもキスを求めても、真琴をもっと不愉快にさせるのがオチだ。


 古庄は、なす術もなくたたずんで真琴の様子をうかがった。そんな風に見つめられると、感情が乱されて、真琴はますます泣きたくなってくる。


 二人は現状をどうすることもできずに、ただ金曜日の賑やかな夜の中に立ち尽くした。


「うわっ!ちょっと、あの人見て!!」


「すごっ!!めちゃくちゃカッコいーじゃん!」


「えっ?!何、何?わっ!ホント!完璧…」


 真琴と同年代の女性の集団が、露骨に古庄を振り返って、まじまじと観察しながら、側を通り過ぎていった。


 こんな風に、いつもどこにいても、古庄は女性たちの注目を集める。そして、その女性たちは、平沢や理子のように自分の魅力を振りまきながら、古庄の周りに寄ってくる。古庄の気を引いて、少しでも自分に興味を持ってもらうために。


 それは、古庄にとって特別なことではなく、これまで生きてきた中でごく普通に何度もあったことなのだろう。古庄ほどの容貌の持ち主ならば、それは当然のことで、きっとこれからもその現象は変わることはない――。



「……私……、古庄先生とやっていける自信がない……」



 ポツリと、真琴がつぶやく……。

 古庄と一緒に生きていくには、彼の周りにたむろする女性たちの存在に耐え続けなければならない。もしくは、気にならないくらい鈍感になるかだ。


 どちらも自分には無理だと、真琴は思った。


 本当の思いを口にした途端、心が悲鳴を上げて、堪えていた涙がスッと一筋の線を引いて零れ落ちる。


 真琴の言葉と涙に、古庄は衝撃を受けて凍りついた。


――…どういう意味だろう……。


 まさか、真琴は結婚してしまったことを後悔しているのだろうか……。


 そう思うと不安と焦りが募って、真琴に問い質したくなったけれども、古庄は言葉をかけることさえ怖くなった。涙を流す真琴が、これ以上自分から離れていかないよう、祈るようにただ見守ることしかできなかった。



 手の甲で涙を拭って、真琴が顔をあげると、視界の端に理子を捉えた。往来の真ん中で、顔を両手で覆って立ちすくんでいる。

 真琴は古庄の脇を抜けて、理子のもとへ向かおうとした足を途中で止めた。


「一宮先生を送るので、先に帰ります。すみませんが、二次会のお金、立て替えておいて下さい」


 振り返りながら、古庄にそう言葉をかける。


「わかった……」


 真琴の方から言葉を発してくれたことにホッとしながらも、古庄は真琴の口調が他人行儀なことに気がついた。


 まだ、自分は真琴の夫に成り得ていないということだ――。


 真琴が理子に歩み寄り、肩を抱いてタクシーを止めるのを、古庄は遠目で見守った。

 自分の方が辛い状況にも関わらず、あんなふうに他人を労わることのできる真琴が、愛しくてたまらない。

 どうにもならない、もどかしい気持ちを抱えて、古庄は真琴の乗ったタクシーを見つめて唇を噛んだ。


 タクシーが見えなくなるまで見送ると、先ほどのスナックの方へと足を向ける。

 真琴を追いかけて一瞬で走ってきた数十メートルは、今の古庄の重い足取りでは、とてつもなく遠く感じられた。





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