恋のさや当て Ⅰ
その店は、どこにでもある田舎のスナックで、カウンターだけでなく大きなテーブルのボックス席もあり、スナックというには少し大きな店だ。でも、ホステスなどはいないので、女性がいても気兼ねせずに行くことができる。
こういう時はいつも、古庄は真琴の隣を狙って座っていたのだが、今は真琴を刺激して意識させてもいけないので、カウンター席の学年主任の横に座ろうとした。
「古庄先生、こちらにどうぞ!」
だが、平沢から声をかけられて、無視するわけにはいかず、しょうがなくボックス席へと腰を下ろした。平沢も抜かりなく、古庄の隣の席をキープする。
真琴も石井や他の教員たちと一緒に、ちょうど古庄の向かい側に座った。
2次会はさらに堅苦しさもなく、親しいもの同士で打ち解けて、和やかな感じで始まった。それと同時に、古庄のことを待っていた平沢の怒涛の攻めも始まった。
周りに誰もいないかのように、平沢は古庄と二人だけの世界を作り上げようとしている。古庄だけに話しかけ、甲斐甲斐しく古庄の世話を焼き、まるで古庄専属のホステスのようだった。
しかも、1次会でずいぶん飲んだみたいで、少し呂律が回っていない。その舌足らずな口ぶりが、ますます媚びているように感じられる。
周りにいる10人ほどの同僚一同、この平沢の露骨な行動に唖然とした。こういうことに鈍感な古庄でも、さすがにこれは普通じゃないと感じ取る。
ほぼ正面にいる真琴の様子をうかがうと、じっと平沢の行動を観察していた。興味津々の他の教員の顔つきとは違い、真琴の表情からは何の感情も読み取れず、当然のことながらその顔は笑っていない。
その顔を見た途端、古庄の背中に冷たいものが滑り落ちた。
古庄は平沢の隣から逃れようとしたが、平沢に腕をしっかりと握られていて、立ち上がることもできない。平沢の一方的な話を聞きながら、まんじりと目の前に出された水割りを、握られていない方の手で口に運ぶことしかできなかった。
周りの教員たちは、しばらくすると古庄と平沢には興味を示さなくなり、二人のことは放っておいて、自分たちの会話を楽しみ始めた。
「こんばんは……」
細い声のあいさつが聞こえ、そこで姿を現したのは理子だ。細部まで計算されたフェミニンな服に身を包み、ハッとするほど可愛らしさで、理子はそこに立っていた。
一年部の理子が二年部の飲み会に駆けつけて来るのは、いささか不自然なのだが、誰かに場所を教えてもらったのだろう。
一同、特に男性教員は、若く可愛らしい理子の登場に沸いた。理子のためにソファーの場所を空けて、嬉々として迎え入れる。
けれども、理子がここへ来た目的は、古庄に少しでも近づくために他ならない。
放課後の校内の見回りを、古庄と二人でできなかったことの埋め合わせだろうか。それとも、平沢に出し抜かれたくないと焦っているのだろうか。
いずれにしても、育ちがよく清楚で大人しい様相の理子も、恋愛に関してはかなり大胆で積極的みたいだ。
理子の視線の先はしっかりと古庄を捉えていたが、他の人間を押し退けて古庄の隣に座ることもできず、とりあえず空けてもらった席に落ち着いた。
平沢のみならず理子まで登場して、真琴も些か心穏やかではなくなった。これまでこんなふうに、目の前で古庄が生徒以外の女性に迫られているところなんて見たことがなかったから。
古庄の心を疑うわけではないが、目の前の現象に捉われて、それが見えなくなってくる。
真琴でなくとも、自分の好きな男性が他の女性と必要以上に密着していれば、ヤキモキするものだ。
当然理子も、平沢が古庄にベッタリくっついている様子を横目でチラチラと確認して、気が気ではないみたいだ。
それでなくとも、今日の平沢の露出は、目に余るものがある。平沢が古庄にしなだれかかる度に、平沢の豊かな胸が古庄の腕に押し付けられているのを見て、真琴の表情も険しくなった。
盗み聞きするつもりはないが、真琴の耳は向かいに座る古庄と平沢の話に傾いてしまう。
と言っても、話をしているのは平沢ばかりで、古庄はそれをたまに相づちを打ちながら聞いているだけだ。
平沢は自分のことを知ってもらおうと一生懸命なのだろう。自分の身の上話を、呂律の回らない口で寸暇を惜しんで続けている。
時折、古庄が「困ったな…」という感じの視線を真琴に投げかけてきていたが、真琴も口を挟むこともできず、黙って二人のことを見守るしかなかった。
その時、古庄を挟んで平沢と反対側に座っていた戸部の携帯電話が鳴り、戸部は席を立った。
古庄は空いたスペースに体をずらして、平沢から少し離れようとした。しかし、古庄の隣という貴重な場所に、すかさず滑り込んで来たのは理子だった。
理子のあまりの素早さに、真琴は息を呑んだ。その抜かりなさには石井も驚いたらしく、そっと真琴に耳打ちする。
「一宮ちゃんもけっこう頑張るよね。これから古庄くんを巡ってのバトルが始まるよ」
笑いを含む石井の口調は、ありありと面白がっていた。真琴は面白がるどころか、古庄がそんな見せ物の一部にされていることに、悲しくなってくる。
平沢と理子とが古庄を挟んで、それぞれが彼の気を引こうと躍起になっているのを目の当たりにして、真琴は身につまされるような思いだった。
理子は古庄の隣を確保したはいいが、完全に平沢が自分の世界を作っているので、その会話に入り込む隙を見つけられない。
何とか古庄の気を引こうと、水割りの残り少なくなった古庄のグラスに、新たに水割りを作って、古庄に手渡す。
「…あ、ありがとう」
古庄が理子の方を見て礼を言うと、途端に平沢の顔付きが変わった。そして、平沢は誘惑のギアを切り替える。
「あたし、実はすごいお祖父ちゃん子だったんです。お祖父ちゃんは、古庄先生みたいに優しくてカッコいい人でした。すごくあたしを可愛がってくれて、あたし、お祖父ちゃんみたいな人と結婚したいなぁって思ってました」
「はぁ…」
また始まってしまった平沢の、あまりにもつまらなさそうな身の上話に、古庄はうんざりして適当に生返事をする。
「あたしが困った時は、いつも助けてくれて、例えばあたしが彼氏と喧嘩したりした時とかも、何でもお祖父ちゃんは相談に乗ってくれてたんですけど……。昨年そのお祖父ちゃんは亡くなってしまいました……」
と、いきなり平沢はしんみりした話をし始めたので、古庄も神妙な顔つきになり、聞き流すわけにはいかなくなった。
「…それは、お気の毒だったね…」
古庄は相づちを打ち、理子に作ってもらった水割りを一口含み、グラスを掲げてその濃さを確かめる。
平沢は古庄が反応を示してくれたことに、気を良くしたらしい。
「お祖父ちゃんが亡くなって少ししてから、今度は母が病気で倒れて、あたしは看病に追われることになりました……」
「お母様は何のご病気だったのですか?」
平沢の話が少し嘘くさいと感じた理子が、口を挟む。平沢はチラリと理子を一瞥したが、古庄の方を見て続けた。
「母は子宮がんだったんですが、発見が早かったから、手術をして何とかがんの方は落ち着いています」
「よかったね…」
と言って、古庄はもう一度水割りを口にしようとしたが、グラスの代わりに水差しを手に取り、自分のグラスに注いだ。
「母の闘病中は看病はもちろん、あたしがすべて家のことや父の食事のことなどしなければならなくなって、本当に忙しい毎日でした。…だから、その時お付き合いしていた人と全然会えなくなって……」
酔っぱらっているからか、平沢の話がまた違う方向に行き始めたので、古庄も理子も黙って様子をうかがう。
向かいにいる真琴も石井も、話の成り行きにじっと耳を澄ませるしかない。
平沢は膝に置いていたハンカチを、スッと鼻へと押しあてた。
「……その人に、浮気されてしまったんです。本当に心から好きな人だったんですけど、気持ちがすれ違って別れてしまいました……。でも……、いくら彼氏に捨てられても、母の病気さえ良くなってくれれば……。あたしを育ててくれた両親のために、あたしが役に立てたのなら、それで良かったんですよね……」
言葉をとぎれとぎれに発しながら、平沢は涙をぽろぽろと零し始めた。背中を震わせて、嗚咽も加わってくる。そして、スッと古庄の肩へと頭を預けて、慰められる体勢を作った。




