プロローグ
大陸の中心に位置する漆黒の深き森。その最奥に魔王城は存在する。暗黒より出でし亡者たちの王、魔王ガレフの居城だ。
大国ハルバレス王国はもはや魔王の手中にあるも同然だった。深き森から放たれる魔物たちに人間達は怯え、蹂躙される。村を焼き、街を滅ぼし、男を殺し女を犯し、子供は生きたまま喰らい、そしてすべての魂は魔王のもとへと集う。
魔王は「死」を操る。魔王が喰らった魂は魔王に無限の力を与え、怨念は魔王の忠実な兵士となる。人間を殺し、殺し尽くすことで魔王は無限に強くなり、兵士は無限に数を増す。魔王の軍勢は森を中心に勢力を広げていき、やがてハルバレス王国全てを内側から滅ぼし尽くす、はずだった。
――しかし「それ」は現れた。
まばゆい光とともに地上に舞い降り、魔物を蹴散らし怨念を浄化する、正義の体現者。
魔法少女だ。
怒涛の侵略を続ける魔王の軍勢を退けたのは年端もいかぬ少女だった。村を救い街を救う。昏く濁り、今にも掻き消えそうだった人間達の魂は、瞬く間に希望のきらめきを取り戻した。魔王軍の勢力は徐々に徐々に押し返され、ついにはこの魔王城にまで到達しようとしていた。
魔王ガレフは、禍々しい装飾が施された玉座に深く腰掛けた。目を閉じ、魂の気配を探る。城内の魔物や兵士たちは、もはやほとんど残っていない。獣の咆哮と、断末魔が響く。下僕達の黒き魂の最期の揺らめきが、魔王の魂に伝わってくる。
そして感じる。この暗黒の魔王城において、唯一白く、美しい輝きを放つ魂を。
魔王は震えた。恐怖にではない。人間共の最後の希望である魔法少女を、この手で葬る瞬間が近づいている喜びに震えている。一度掴んだ希望をもう一度打ち砕かれた時、人類の絶望は頂点に達するだろう。それは魔王にとって何にも代えがたい愉悦だ。
白い魂の気配が近づく。もう間もなく魔法少女は玉座の間にたどり着く。
さあ来い魔法少女よ。この魔王が直々に相手をしてやる。貴様を嬲り、犯し、絶望の子を孕ませてやろう。人間共に最大の絶望を与える存在は、貴様が産み落とすのだ!
「あの~……ちょっとよろしいですか……?」
突然、玉座の裏から声が聞こえた。物々しい雰囲気の魔王城において、およそ似つかわしくない間抜けな声は、若い少女のものだった。
魔王に魂の気配を感じさせず、音もなく突然そこに現れた少女は、おずおずと玉座の前に歩み出た。
魔王は動かない。いや、動けない。身体が杭で打ち付けられたようにピクリとも動かない。
「よかったぁ、お姿が以前と大分違ってらしたので、人違いだったらどうしようって思っちゃいましたよぉ。『ナカムラ』さん……ですよね?」
不安そうな目を向けていた少女は、魔王の胸の辺りに目をやり、若干明るい表情になって笑った。
……何故その名を知っている?
『ナカムラ』とは魔王ガレフの真の名だ。この世界にやってきて、魔王となった時に捨てたはずの、中村たけしという名を、なぜこの少女が。
顔立ちは美しい。セミロングの髪も、上品なブラウスも、短めのスカートも、羽織ったケープもブーツの紐に至るまで黒一色のこの少女に見覚えはない。
しかし、たけ……魔王はその声には聞き覚えがあった。あの日、魔王がこの世界に転生した日、永遠に続くかと思われた暗黒の中で聞こえたあの声。
――あなたに授けます、という声。
死と転生の女神、ピューラ。
「あ、覚えていてくださったんですね。そうですピューラです、女神です」
まだ半人前ですけど、と顔を赤らめて身をよじるピューラ。豊満なバストが揺れた。
「実はですね、その……今日は折り入ってご相談がございまして……」
一転、表情が暗くなる。これから大変申し上げにくいことを申し上げますという雰囲気がひしひしと伝わってくる。十数年前、たけ……魔王をこの世界へ連れてきた女神が今になってやってきて、申し上げにくいことを申し上げようとしている。嫌な予感しかしない。身体はピクリとも動かない。
「あの日、ナカムラさんにわたしの能力の一部を差し上げましたよね?最も基本的で、最も単純な能力だったんですけど……あれってどうやら、女神の力の根幹にあたるものだったらしいのですね」
確かにたけ……たけしがピューラからもらった能力はごく単純なものだった。それを育て、磨き、鍛え、今の魔王たるたけしがある。
「その根幹部分が欠けちゃったもんだから、わたしの女神としての能力がここ十数年伸び悩んでしまってまして……えへへ」
ぺろっと舌を出しこつんと自分の頭を小突く。えへへではない。いい加減この女神が何の目的でやってきたのか理解した。
「なのでその……ぶっちゃけ差し上げた能力を返していただきた」
「断る」
食い気味に答える。絶句するピューラ。数瞬の沈黙の後、下がった目じりを潤ませ、両手をぱたぱたと振り回して抗議する。
「えっ、えっ……でもでも……」
完全に涙目になっているが関係ない。
「ふざけるな、返すものか。我はまだ目的を果たしていない。」
そう。まだたけしにはやらねばならないことがある。人間共に恐怖を与え、ハルバレス王国を滅ぼし復讐するためには、この力が不可欠だ。
自らの魂を怒りの炎で燃やす。黒く燃え盛る魂は魔王の怒りを体現し、弱きものの心を焼き尽くすオーラを放った。人間ならば恐怖で発狂するか、その場でショック死する威力だ。ピューラは「あちっ」と小さく声をあげ身じろいだ。
熱いんだ、あれ……
魂の炎というのは比喩的に使っていた表現なので、実際に熱を持っているとは知らなかった。同時に、「あちっ」程度に済まされたことで、今度はたけしが絶句する。ピューラはとうとう完全に泣き出してしまった。
「うう……おねえちゃん……ザナおねえちゃぁん」
ぽろぽろと涙を流し何者かの名前を呼ぶ。全身を氷で刺したような悪寒が走った。血液が冷え、思考が停止する。魂の炎が急速に勢いを失う。
いつのまにか、ピューラの隣にもう一人の少女が俯いて立っている。見た目は十代半ばに見えるピューラに対して、その少女は十歳になるかならないかという幼さだった。腰まで伸びた髪、控えめにフリルやリボンのあしらわれたワンピース、右手に抱えたうさぎのぬいぐるみ。それらはやはり周囲の光と熱をすべて奪ってしまうかのような黒一色だ。
少女が僅かに顔を上げる。息を飲む。その顔立ちはあまりにも美しかった。ピューラも美しいがその比ではない。陶磁のような白い肌、血のように紅く濡れた唇。目も口も鼻も、全てのパーツが恐ろしく整っているが、恐ろしく無表情だ。
「……遅い」
空気に溶けてしまいそうなほどか細い声で少女がしゃべった。目はピューラもたけしも見てはいない。なにかもっと遠くの世界を見ているかのように虚ろで光が無い。
「だってだって、ナカムラしゃんがぁ……」
「……おやつ抜き」
能力を返さないと言われた時よりもさらに悲壮感ただよう表情のピューラを無視し、こちらにぬいぐるみを持っていない方の手を向けてくる。
「……死と転生の女神、ザナ」
名乗った。挨拶は大事だ。初対面なのでこちらも名乗っておく。
「我が名は魔王ガレフ。暗黒より出」
「……えい」
胸に強烈な痛みが走る。突き刺すような痛みと、身体の中をぐちゃぐちゃにかき回されるような感覚が全身を駆け抜ける。ザナの左腕が、たけしの胸に突き刺さっていた。
「……これ……これ……これかな……あ、違うか……ぽい……ぽい…………あった」
ザナが左手を引き抜く。手には光り輝く何かを持っていた。たけしの胸に外傷は無い。
「はい」
「わぁい、ありがとうお姉ちゃん」
きゃっきゃと喜ぶピューラと、無表情のザナ。たけしの全身を極度の脱力感と疲労感が襲った。
「き、貴様……何をした……!」
身体に力が入らない。オーラを放とうとするがそれもできない。力が失われている。
「それじゃ……お邪魔しました」
「お邪魔しましたぁ」
霧のように背景に溶けていく二人の女神。もう声も気配もない。玉座に繋ぎ止められていた身体は動くようになっていた。女神たちに魂ごと押さえつけられていたのだろう。しかし完全に脱力した身体は立ち上がることさえままならない。思考もうまく働かない。たけしはもはや魔王ではなくなっていた。
玉座の間の大扉が揺れた。そういえば魔法少女が来ていたんだっけ、と他人事のように考える。たけしの体の倍以上はあろうかという扉がぶち破られんばかりに何度も叩かれ、「ごめんください!ごめんください!」という声が聞こえる。
間もなく、魔王ガレフ、たけしは魔法少女に倒され、人類は平和を取り戻す。だがいまだ復讐の炎は消えてはいない。せめて一太刀あびせてやろうと力を振り絞る。
重々しい音が響き、ゆっくりと扉が開く。
そこには、真っ白に光り輝く、フリルとレースの塊のような少女が立っていた。
「愛と慈しみの魔法少女ミル・ミルファです!よろしくお願いします!」
大きな声でご挨拶し、手をそろえてぺこりとおじぎする。
とても礼儀正しい魔法少女だった。