5話…さらば
人が死にます。R15指定しようか迷いましたが、結局はそのままで。
悲鳴を追ってとあるビルまで来た。とあるビルからは、絶叫のように金属音が不協和音を響かせて、問題が起きている場所を教えてくれる。
――そして、その絶叫ももう止んだ。
代わりに一際大きくがちゃんっ! と何か硬いものが壁か床にぶつかった音が響かせて、それきり音はなくなったのだ。
「(なんだ…?)」
悲鳴がしないと言うことは、もう終わったのだろうか。それならそれで別に良い。
心持ちペースを落ち着かせると、シンラは駆け足で音がしていた五階へと駆け込んだ。
「…あそこか?」
階段脇から覗くと、ふたつの部屋がその口を大きく開けていた。側には安っぽい回転椅子がカラカラと車輪を空回りさせて、無力感を曝け出している。
その光景に息をのみ、覚悟を決めたシンラは部屋の中へと攻め入った。
「はっ…」
息がつまる。
部屋に入って初めて覗いたのは、事務的な室内に散らばった整理のない論文たちではなく、今まさに細い少女に覆い被さっている大柄な暴漢でもなく、暴漢が今まさに破くように脱がしている少女の服の隙間から覗く、淡い肌色のカンバスだった。
「あ?」
暴漢がシンラに気づく。シンラはその事に気づかない。
目の前で起きている現実を受け入れられないでいた。
「はっは…!」
暴漢は動かないシンラを見て何を思ったのか、楽しそうに不敵に笑う。
そしてシンラなど居ないように少女に向き直った。
少女の顔は見えない。
だが、その手が小さく……もしかしたら錯覚なのではないかと思えるくらいに小さく――手を伸ばした。救いも助けも期待のできない現実で、それでも救いか助けを求めるように。
「…っ!」
気がつけばシンラは暴漢の肩を掴んでいた。
怪訝そうに振り向いた暴漢を、そのままグッと引き落とす。
病的なくらいに細く見える少女は、突然目の前から暴漢が消えたことに目を丸くしていた。
「え?」
旅の途中で自衛のためにいろいろ頑張っていたのがためになる。元々はマナが身に付けていたのを真似たのだ。
「ガッ…!」
暴漢は転がるように倒れたが、すぐに体を抱き起こす。その肩を掴みあげて腹へと一発拳をぶちこむ。鈍い衝撃と暗い興奮に顔をしかめていたことに、本人は気が付いていない。
理性は半分とんでいたが、幸い体は動いてくれた。
「ぐ…っ!」
「がは」
カウンターでシンラの脇腹に拳が刺さり、二人は一旦距離をとった。
暴漢は扉側の逃げられる位置に、シンラは少女を守れる位置に。
「く…くく、くはは…!」
暴漢は不敵に笑う。楽しそうに、嬉しそうに。
目を丸くしたシンラだが、何かを問う前には暴漢が迫り、その乱れた呼吸が届くようだった。
「っ…何でこんなことをしていやがる…っ!」
みぞおちへと伸ばされた腕を両腕で逸らして、体を使った体当たりを繰り出して叫ぶ。
暴漢はたたらを踏んで倒れかけたが、なんとか踏ん張った。
「っ…は!」
そこに容赦などなくシンラは畳み掛ける。胸部、顎、頬。流れるように拳を降らせ、ふらついた暴漢に蹴りを見舞う。足に力も入らず、今度こそ暴漢は浮かぶように倒れていった。
「がはっ…」
「っ…はぁ、はぁ…はぁ」
シンラは仰向けに倒れ込んだ暴漢を一瞥し、乱れた呼吸を整える。
いや、整えようとした。
「(なんでだなんでだなんでだなんでだなんでだなんでだ!!)」
理解できない行動と、それへの怒り。
理性を飛ばされた精神の操る肉体は、理性の奥で熟成された野性に支配される。
より攻撃的に。より直情的に。
土足で相手を踏み荒らすために。
「っ!てめえ何でこんなことしやがった!」
まただ。気がつけばシンラは暴漢の襟首を掴みあげて、その体を浮かせていた。
「ぐ…」
息がつまった暴漢が呻き声をあげるが、気遣うことなどない。同様に、体重差のある相手を掴みあげたことで腕が悲鳴を浴びていたが、熱に狂う理性で黙らせて掴みあげ続けた。
今大事なのは、この男の心理を問うことだった。
「ぐ…が…は、は、は…」
「あ?」
笑った……のだろうか? 何故か目には優しい光を湛えて、暴漢は笑った。
その視線の先は、先ほど襲った少女に向けられる。
「え?ワタシ?」
「は…」
気が付かなかったが、わりとすぐそばに少女は控えていたようだ。
数メートルの距離が驚くほどに近くに感じた。
「すまなかった…。ぐっ…」
最後の嗚咽は、謝るくらいなら……! と、シンラが力を込めた結果だ。それでも男は続けて。
「すまなかった…。罰が、ほしかった…。今までさんざん、人に迷惑を…かけた。俺なんかが楽にしぬ…なんて、ふざけた話だ…」
「…」
シンラの腕の力が少し緩んだ。それでも男は宙吊りで、滔々と懺悔を紡いだ。
「俺が…死ぬときは…。きっと、思い通りにならない時に死ぬべきなんだ…」
「…っ」
「人に襲われたり、天災に見舞わられたり、必死の抵抗に撃退されたり。そういった状況で、死にたかった…!」
すべてを言い切った様子で、暴漢は力を抜いた。
六十キロはゆうにある男の体重をすべて支える結果になり、痛みが貫く。
「そう、ですか…」
少女は納得したと言わんばかりに頷いて、まるで恨みなどないようだった。
シンラはそこまで達観できない。やりきれない思いは、言葉を聞くたびに募っていった。
「それが…っ! それで!」
「もちろん…そんなやり方で、誰かに許されるなんて、思っちゃ…いない。けど…」
「けど…?」
すっと息をも抜いて、暴漢は微笑むように力なく喋った。
「――それでも。このやり方でしか…俺は、俺を…許せなかった」
殺せ――そう呟いたのは誰だろう。
誰も言葉にしなかったが、確かにこの場所に、その願いが生まれていた。
目の前の暴漢の積年の祈りなのか、それともシンラの暴走した想いなのか、あるいは少女の慈悲なのか。
誰の気持ちでも変わらない。今この場所で、彼にとどめをさせるのは、シンラだけだった。
シンラはそっと、部屋の中の大きな窓を開けて、腕を外の世界へと暴漢ごと差し出した。
「なにか言い残すことはあるか…?」
「…そうだな。そっちの女の子の言葉を、最後に聞きたいな」
暴漢は窓の外に身を投げ出した状態を、抗うことなく受け入れて、少女の言葉を聞きたがった。
最後に聞くのは恨み節だろう。それこそがきっと、自分の末路に相応しい。
「ワタシですか?ううん…そうですね…。ワタシは特にあなたを恨んでいないです」
「はっ…?」
しかし、その目論みは外れた。ああ、所詮自分のような人間が、満足のいく死を得るのは不可能だったのかと、暴漢は納得する。
しかし、その納得もまた、覆されることとなる。
「ですが…ひとつ訂正を」
訂正? とシンラと暴漢が内心で首をかしげると。
「死んだあと人は楽園にいくです。ですが、人の魂は転生するのです。転生をする際に、魂は楽園を抜けて聖別を受けるのです。自我を滅して、ニュートラルな魂へと戻すために。…歪んだ魂をもつものほど、この時の苦痛は、想像を絶するものになるでしょう」
「…は」
「な…に…?」
突如少女が口にしたセリフに、二人はぽかんと口を開けた。
「な…なんで、そんなことが言えるんだ…?」
暴漢が、信じられない思いでそう訊ねていた。それに対する少女の言葉は明快なものだ。
「ワタシがそれを証明したから…という言葉では足りないですか?」
今度こそ二人は、開いた口が塞がらない。
そして、自分達が暴れた部屋に散らばる、難解という言葉では全く足りない、怪奇な図と式の羅列が描かれた紙を凝視して、息を呑んだ。
この目の前の少女が――イヴなのか!
「ふ、は…は、はは…ははは!」
暴漢はその事実を受け入れると、愉快そうに笑う。
「おい、小僧…最後の言葉を追加だ!」
獰猛に、力の緩んだシンラの腕をつかんで、力を込めた。
「なっ…!」
シンラの腕の力は痛みに散り散りになり。
「ああ、やっぱりこの世は、ままならねえ!」
嬉しそうなその言葉を最後に、五階の高さから自由落下していき、窓枠から姿を消した。
慌てて下を見たが、落下は首から。
体は潰れたカエルのようにひくひくと動いていたが、死んでいることは確かだった。