彼のルーツと温かい傷の舐め合い
「じゃあ、次は俺かな。といっても、明奈の話に比べたら、理解しづらい話になると思うぞ。なんといっても、お前と違ってこれといった明確な原因があるわけじゃないからな」
「何となくここに来たってこと?」
「いや、明確な意思はあったさ。現実から逃げたいって気持ちはあったけど、そこに至るまでの過程の中に決定打となる出来事はない、と思う」
「現時点で良く分からないんだけど……」
「だろうな、俺も言っててこんがらがってきた」
俺は一体何を言っているんだ、俺の意思と口が連動していないぞ。
タップして再接続する必要があるかもしれないな。
……どこをタップするんだ?
「まぁいいや、とりあえずお前に倣って過去から順を追って話すことにするよ」
「うん、そうしてくれた方が助かるかな。喋ってる内にまとまってくるかもしれないしね」
「そんな器用な頭だといいんだけどな」
さて、どこから話したものか。
とりあえず母さんの事から話した方が手っ取り早いかな。
「正確な時期は昔過ぎて忘れたけど、俺が物心ついた時には俺の母さんはちょっと心が不安定な人だったんだ」
「情緒不安定ってこと?」
「あー、そういうことだ。より詳しく的確に表すなら、母さんは躁鬱症を患ってたんだ」
「躁鬱症、ね。聞いた事があるかも。漢字は難しくて分からないけど」
どうだろう、俺も書ける気がしない。
何も見ないで鬱を書けるようになったのも最近だし。
「簡単にいうと、テンションが高い時と低い時に極端に差があるんだ。別人に見える位に。その上、これといって原因がないのに躁になったり鬱になったりするらしい。母さんが落ち着いてる時に聞いたことがある」
「それは……大変ね。自分が知らず知らずの内に別の自分が表に出てくるようなものじゃない。私だったら耐えられない」
「ま、二重人格とかではなかったけど。それに母さんが一番辛くて大変なのも間違いないけど、俺と親父だって決して楽とは言えなかった」
特に親父は、俺が生まれる前から母さんと付き合っている。きっと俺の何倍も色々あったことだろう。
それでもここまで共に歩んできた親父にはほとほと頭が下がる。
「鬱の時は、ずっと気分が沈んだままだった。話しかけても生返事、意識もどこなく上の空。家事の速さも普段とは比べ物にならない。幼い頃の俺が甘えても反応はなくて、悪いことをしても叱ってすらくれなかった」
まるで、感情のない人形のようだった。
「躁の時は、いつもより変に明るかったよ。すごくお喋りな人になって、自信に満ちているっていうのかな。目は爛々と輝いてて、逆に怖かった。当時は調子のいいときにエネルギーを使いすぎてるから大きく沈んだりするんだと思ってたな。あと、普段なら軽く注意するだけのことで滅茶苦茶叱られたりもしたよ」
まるで、酒に酔った人間のようだった。
子供ながら、その母さんの豹変ぶりに対して感じた恐怖心は、今でも心に残っている。
「そんな母さんと過ごしている内に、俺はいつのまにか、今母さんが躁なのか鬱なのかを話しかけなくても身振り手振りで判断できるようになってた。そうならざるを得なかったのかもな。それから、躁の時にたまにする嘘話も見抜けるようになった」
「え!?そんな、読心術みたいな……」
驚く明奈を指差して、俺は言い切る。
「そう、まさに読心術だ。まぁ調べてみたら、躁の時に吐く嘘は本人が本当だと確信してる場合が多いらしいが、多分母さんは心のどこかで分かってたんだな。不自然な挙動をする程には」
「いや、それはそうとしても……。じゃ、じゃあ賢人君は、今私が何を考えてるのかも分かるの?」
興味津々であることを隠そうともしない明奈に呆れてしまう。
俺達は今かなりシリアスな話をしていた筈なんだがな……。
「分からないな、せいぜい俺の読心術に興味があって仕方ないと心から思ってることぐらいだ」
「す、すごい……。当たってる」
こんなのは読心術なんてなくとも分かるに決まっているだろう。
「それに、専門家からみりゃこんなのは多分読心術とも呼べない。よくて人型嘘発見器だな」
「なんか格好いいじゃん!」
「機械でいくらでも代用出来る程度の能力だという自虐だっての」
喜び、悲しみ、怒り、憎しみ……そして無関心。
分かるのはそんな感情を持っているのか否かと、嘘をついているのかどうか。
それだけでも、人間を信じられなくなるには充分だったのだ。
「それから、小学校の周りの人にもそれが適用できる人がいることが分かった。感情の表し方、嘘の吐きかたは人それぞれのようであって、実はパターンに分ける事が出来た。まずは母さんと似たようなパターンの人の心、それから徐々に読める範囲が広がっていって、小学校の六年間をかけて俺の読心術もどきは進化していった」
あのときは、まだ楽しかった。
みんなの本当に思ってる事が分かって、 誰かが嘘をついていると分かっても笑い事ですませられる程度だった。
「それから、中学に上がって……。俺は自分の能力が、周りの人間が不意に恐ろしく見えたんだ」
「心が読めるから、なんだね。私だって怖いと思うよ。女子のドロドロした本心が、見たくもないのに見えちゃうなんて、そんなの、拷問みたい」
流石はそのグループの中で過ごしてきたことのある明奈だ、女子を語る言葉に重みがある。
重みがある上に、それは俺の心情も当てていた。
「そう、まさに拷問だ。女子同士の会話を聞いても、実は嫌いな奴を好きとか言ったり。男子でも、仲良くしてる奴に平気で嘘を吐いて、しかもすぐにバラさない。明らかに相手を騙そうとしてる嘘を吐く」
危うくそのままだらだらと愚痴を垂れ流しそうなので、話を止めて大きく息をして間を置く。
それから続けて、
「でも、俺だって分かってた。友達づきあいとか、世間体とか。そんなものの為に嘘を吐いたりするのは、処世術の一つなんだってことは。そういう俺も、生まれてこのかた他人に嘘を吐いてないなんてことはないんだからさ」
と、付け加えた。
明奈は、少し考え込むようにしていた。
「ねぇ、賢人君。その能力の事について、誰かに話したりしたことある?」
「まさか、言っても信じられないか、気持ち悪がられるだけだ。明奈が初めてだよ」
「あ、そうなの……。男同士の友情とか、そういうので相談したりしなかったんだ。女の私からみると、ああいう関係って凄く憧れるんだよね」
「俺も全く友人がいない訳でもないけどな。今のクラスにも二、三人はいるし」
「寂しいね」
だからもうちょい思った事をオブラートに包んだりしてくれないだろうか。
俺の少ない友人である白崎とか時谷は裏も表もない連中だし、しょうもない嘘を時々吐くが、すぐにバラす。
本当に、いい友達なのだが。
「その友達すらも、一定以上の関係からは進展出来なかった。どうしても心のどこかで、人間への不信感があった。だから親友はいない。勿論恋人も。クラスでもなんだかんだで孤立気味だったな」
手に入れるつもりのなかった読心術もどきで、知りたくもなかった人間の本心が読めるようになり、やがて人間が信じられなくなった。
「皆、俺の事を騙そうとしてるんじゃないか、裏切るんじゃないか。世の中あんなに平気で人を騙したり嘘を吐く人間だらけなんだから。そんな疑心暗鬼な心が、人間不信へと変わるのに、そう時間はかからなかった」
人間不信の塊が俺の中に住み着き、やがて俺はそのまま高校に進学した。
「高校に入っても大して変わりもしなかった。協調性がないやつと思われて攻撃されるのは嫌だったから、さりげなく周りに合わせながら、人を避けて毎日を過ごしていく。そんな日々に、突然嫌気が差した。どうして俺が孤立しなければならない、どうしてあんな醜くて恐ろしい本心が読めてしまうんだ。こんな能力なんていらない、こんな生活はもう嫌だ……てな」
今思えば、勝手に人間全てを見切った俺の自業自得ではある。
例えば目の前にいる彼女のように、互いに信頼しあって、辛い過去を語り合えるような人間だっている。
そしてそれは、彼女だけに限らない。
今まで避けてきた人達の中にも、心から信じ合える人だっていただろう。
それを逃してきたのは、決してこの能力のせいだけではない。
いつからか俺は、この能力を欠陥としてとらえていた。
読んではいけないものが中途半端に読めてしまうというバグのようなものだと。
本当に欠落していたのは、決して綺麗なだけではない人間の心を許容できない、俺の心の広さに他ならない。
俺も、心が弱かったのだ。
そんな俺に人間の心は、刺激が強すぎたのだろう。
「あとは明奈と同じだ、ネットで見つけて、駄目元で実践して……。ここに来た」
話終わったところで、どうやら無意識に身体に力が入っていたようだ。
深呼吸をして、緊張して速くなっていた心臓の鼓動を抑える。
「どうだ、何か質問はあるか?」
「えぇっと……。質問というか、確認なんだけど。賢人君は、人の醜い本心が中途半端に読めるから人間不信になって、人間のいない世界を望んでここに来たってことでいいんだよね?」
「そうだな、逃げて来たんだ」
「私の事は、平気なの?」
「平気……?あぁ、まぁ」
多分明奈は、自分が他の人間に比べて遥かに純粋であることに気付いていないのだろう。
そうでなければ、俺がこんなにペラペラ自分の過去や弱さを話す訳がなかろうに。
「明奈は自分じゃ気付いてないかもしれないが、凄く純粋で、真っ直ぐな女の子だからな。強くはないかもしれないけど、眩しいくらいに輝いてる。俺に対して、嘘も吐かないし、誤魔化そうともしない。信じるには充分な人間だよ」
我ながら歯の浮くような台詞だが、これが俺の本心なのだから仕方ない。
普段なら恥ずかしくてこんなことは言えない、そもそも言う相手がいない。
それでも、明奈には自分に自信を持って欲しかった。
明奈は本当に弱い人間ではないから、自分自身に勝って前に進めることが出来る人間だから。
ま、この世界で変わったって意味はないということは明奈の言う通りでもあるけれども。
「あ、ありがと……。そんなこと、お母さんにも言われたことないかも。上手く言えないけど、本当に、凄く嬉しい」
顔を真っ赤にして俯く明奈。
……どうしよう、今更ながらすっごい恥ずかしくなってきた。
頭を撫でたり、歯の浮くような台詞を言ったり、いつからこんなにホストみたいな男になったのだろう。
どうやら俺の言葉は届いたようだけど。
照れながら俯く明奈が可愛くて俺の理性が決壊しそうだ。
落ち着け、そもそも明奈が覚えていないだけで彼女の母親は似たような事を言ったはずだ。
初対面から数時間しか経っていない俺でも分かるのだから、彼女を女手一人で育ててくれた母親がその純粋さを褒めないはずがない。
だから、そう、決して俺が初めてじゃないはずだ。
思い上がってはいけない。
「あーっと、他に質問は?」
「ふぇっ!?あ、おお?」
「いや、おお?って言われましても」
女の子らしい反応から一気にチンピラみたいな反応になった。
俺の母さんでもこんな一瞬で豹変しないぞ。
「えぇっと、そうだね。特にはないかな。確かに明確な原因はなかったみたいだけど、小さなことの積み重ねでここに来たってことは分かったし。別に分かりにくいことはないから」
「そうか、そりゃ何より」
そこで会話が切れる。
双方、なんとなく気まずい沈黙が流れていく。
いや、気まずいと感じているのは、単に俺が眠気を感じているからかもしれない。
部屋の置時計を見ると、10時をまわっていた。
普段は11時頃には寝てしまう上、互いの『理由』を無事語り終えた安心で緊張の糸が切れたことで、睡魔が強く襲ってきた。
夜を徹して語り合うことも覚悟していたが、この調子では先が思いやられる。
「あのさ、ちょっと言いづらいんだけど……」
「どうした、言ってみろ」
「……眠くない?」
「うむ、かーなーり眠い」
顔を見合せ、ほぼ同時に吹き出した。
互いに懺悔しあっていた、どことなく暗くて沈んでいた雰囲気からは考えられないほど呑気な言葉だった。
直前とのギャップが可笑しくてたまらない。
「喋るだけ喋って眠くなったら寝るって、俺らは王様か?」
「こんな精神的に脆い女王じゃ、誰も従ってくれないんじゃない?」
「人間不信の王様なら、案外歴史の中にいる気がするけどな」
「何それ、自分だけずるい」
「いや、俺が王様になった訳じゃないしな」
いつの間にか、自分の過去を冗談に使う程に距離が縮まっている。
この明奈とのほどよい距離感が、関係が、とても心地が良い。
「それじゃあ、今日は寝ちゃおうか?一旦時間を置けば、また聞きたいこととか言いたいこととか出てくるかもしれないしね」
「そうだな……。時間は明日にも沢山あるし、そんな急ぐ必要もない」
何せ、俺達は死ぬまでの長い長い時間をこの世界で二人、生きていくのかもしれないのだ。
今日一日に無理矢理収める必要は、どこにもない。
「ねぇ、ちょっと布団の寝心地確かめてみたら?寒いとか暑いとかあるかもしれないし」
明奈の提案に従い、床に敷かれた布団に入ってみる。
「特に異状はないな、油断するとあっという間に夢の中だ」
「別に油断が許されない状況ではないんだけど……。じゃ、電気消すね?」
「あぁ、悪い」
ベッドから立ち上がり、明奈が部屋の電気を消した。
途端、目の前が真っ黒になる。
女の子と同じ部屋で寝るという、人生で初めての体験をしていることと、やはりいつもとは違う布団で眠ることに対する違和感で、目が冴えてしまう。
枕が変わると眠れないようなデリケートさは持ち合わせていないはずだが。
と、そこで明奈がなかなかベッドに戻らないことに気づいた。
音と気配から察するに、まだ電気のスイッチがある部屋の入口から動いていないだろう。
暗いから、俺を踏まないように帰ることに手間取っているのだろうか。
だとしたらなんとなく申し訳ない、俺が何もできないことが特に。
と、やがて明奈は動き出した。
目を閉じながら、よしよしと思ったのもつかの間、何やら動きがおかしい。
俺の枕元まで足音が近づいたかと思うと、掛け布団がひとりでに動きだした。
反射的に目を開けて右を見ると、暗闇の中で明奈がごそごそと俺の布団に入ってきている。
「え、いやお前何してん」
「むこう、向いて」
「は?いやちょっとホントに」
「いいから!」
「はい」
そこまで言われると従わざるをえない。
理不尽なものをかなり感じつつ、俺の聖域に侵入してきた明奈に背を向ける。
聖域といっても借り物の布団だし、その上二人寝るには掛け布団の面積が少々心許ない。
こいつ、ここで寝たりしないよな……?
俺が再び真意を尋ねようと口を開く前に
、首に温かいものがからみついてきた。
これは……明奈の腕、だな。
そのまま、俺の背中に柔らかいものが引っ付いてきた。
これは、明奈が俺に後ろから抱きついているということで間違いなさそうだ。
少なくともこのまま絞め落とそうというような意思は感じられない。
いや、だから何してんのこの人。
そんな事をされてもこっちにも覚悟というものがあってだな……。
左肩甲骨の下の辺りにくっついているとても柔らかく豊かなものの奥から速すぎる鼓動が僅かに伝わってくる。
俺の心臓も理性もいい加減に限界だが、この状態が温かくて、ひどく心地良い。
さっきまで布団で温まりつつあった身体の前が寂しく感じるほどだ。
「あのー、明奈さん?これは一体……」
なんでこんなに下手に出てしまうんだ。
「……お礼」
「お礼って、何の」
こんな最高級な感謝の表し方をされるほどのことはした覚えがない。
こんなサービスをされるほどのお金だってびた一文払ってないぞ。
「さっきの言葉とか、話を聞いてくれたこととか、ひっくるめて」
「ひっくるめたのか……」
「それと、言いたいことがあって。賢人君と違って、私はあんなこと面と向かって言えないから」
「いや、俺だって恥ずかしかったんだよ。決してあんな台詞言い慣れてる訳じゃないんだ」
思い出しただけでゴロゴロ部屋を転げ回りたい衝動に駆られる。
明奈が後ろにいなかったら遠慮なくやっていただろう。
「それ位、読心術がなくても分かるよ。そんなことより、さ。私は、君をすごい人だと思うよ」
「すごい?何がだよ」
「だって、例え孤立していても、学校にはしっかり行ってたんでしょ?」
「そりゃ、別に……。大したことじゃあ」
「その大したことのないことすら出来なかった私だから、分かるんだよ」
なるほど、そういうことか。
事情は違えど、同じ世界を望んだ俺達。
どちらも現実から逃げてきた事は同じでも、逃げた現実からさらにここに逃げてきた明奈からすれば、『学校』という現実に相手に曲がりなりともやってきた俺が強く見えたのかもしれない。
だけど。
「それでも、俺はここに来た。過程はどうあれ結果が同じなら、そこに差なんてない」
「それでも、もし元の世界に戻ったとしたら、君は前よりもっと上手く立ち回れると思う。人間不信を治して、人と信じ合って。今までより学校生活が楽しくなる、そう信じられるには充分だよ」
「そりゃまた、なんでさ」
「だって私、最初は君を殺そうとしたんだよ?それが今じゃこんなことが出来る関係になってる。それにね、私が誰にも話さないで、墓場まで持っていこうと決めてたこの傷と、傷の理由を話そうと思った人だもん。言っとくけど、仮に誰かと二人しかいない世界に来て、これの事を聞かれても、よっぽど信じるに値する人じゃなければ絶対話さないから」
「その気持ちは、よく分かるけどな」
俺だって、自分の生い立ちとか人間不信であることとか、明奈以外の人間だったら話していないだろう。
「そりゃ、世の中には汚い心の人だっているかもしれない。だけど、周りの人がみんなそうだとは限らないでしょ?この先、私以外にも君の過去を打ち明けられるような関係になれる人だって出てくるかもしれないし、もういるかもしれない。だからさ、自信持って欲しいの」
「そう、だな。何にせよ、まずは自分を信じることから始めないとな」
言ってみたものの、それが俺にとって容易なことではないだろう。
俺が周囲の人相手に作った壁は、高くて厚くて頑丈だ。
けれど明奈は、さっきの俺のこっぱずかしい台詞から、俺が込めた励ましの意図を汲んでくれたのだろう。
これは、そのお返しということだ。
なら、ありがたく頂戴しよう。
俺だってそんな台詞、親からも言われた覚えがないのだから。
「あとは、そうね。少しずつ他人も信じてみてよ。そうすれば、きっと変われると思うよ。時間はかかるけど、だからといって難しくもないんじゃないかな。ここまで言ってたおいてなんだけど、私は残念ながら賢人君じゃないから、詳しくは分からないけどね」
「俺だって悲しいことに明奈じゃないさ。だけど明奈だって変われると思う。オウム返しに聞こえるかもしれないけどな。その傷も、過去も、いずれ乗り越えられる。というか、現実的な話で悪いが、最悪高校なんて行かなくても大学いけるしな」
「え!?そうなの?」
「そうなのってお前……。具体的にどうするかも考えないまま勉強始めようとしたのか?」
「……正直、定時制のどっか適当な高校入りゃどうにでもなるかと思って……」
「そんなアバウトな進路設計があってたまるか!」
かくいう俺だって、今のところ明確な夢も進路も考えてはいないけど、それにしたってどっか適当にはないだろう。
「いや、でも大学受験するなら、予備校通うよりも途中からでも高校入った方が安くすむかもしれないじゃない?」
「ふーむ……。確かにそれはそうかもしれないな」
実際そんなことが出来るかどうかは別として、明奈の家庭環境の事を考えると金銭的には安い方にしたほうがいいだろう。
そもそも、明奈は元々通っていた天純高校が嫌なのであって、高校自体に行きたくないとは言っていない。
「聞いとくが、お前高卒認定って知ってるか?」
「こうそつ……にんてい……?」
あ、駄目だこりゃ知らない反応だ。
「俺も詳しくは知らないが、高卒認定試験ってのを受けて合格すれば、驚くなかれ何と高校に通わずして高校卒業の資格がもらえるのだよ。多分」
「最後の最後で信憑性がざっくり無くなったんだけど……」
「あぁ、俺も話に聞いただけだしな。でも、実際そういうシステムはある。明奈みたいな人達に社会に出るという選択肢の幅を広げる為の救済措置みたいなものじゃないか?」
俺の知り合いにそんな選択肢をとった人はいないので、どうしても曖昧な説明になってしまったが、どうやら伝わってくれたようだ。
「そんなものがあるんだ……、初めて知った」
「何から始めるにせよ、高認をとってからでも悪くないだろ?言っちゃあ何だが、この辺の公立の定時制はヤンキーみたいなのが多くてな。あんまり明奈には向いてないんじゃないかなとは思う。近くに日本一偏差値の高い定時制もあるにはあるが、私立で金が馬鹿にならないらしい」
「何か、結構真面目に私の進路考えてくれてるね。お母さんみたい」
確かに、こんなアドバイスは身内か、教師がするものだろう。
そう考えると、俺がしていることは只のお節介に過ぎないのだと改めて実感すり。
でも、事情を知って、励ましておしまいというのはやっぱり出来ない。
「さっきまではな、部外者が口を出すことじゃないと思ってたんだ。でも……」
「でも?」
「明奈は、俺の力になってくれた。もし突然元の世界に戻っても、これまでと同じように過ごそうと思ってた俺に、違う道に進むきっかけをくれた」
俺の未来を照らす光の源を、渡してくれた。
『他人を信じる』という、具体的な目標を俺に持たせてくれた。
あとは、俺が行動するのかどうかだ。
「そんな、大袈裟だよ。私は思ったことをそのまま言っただけで……」
照れているのか、俺の背中で明奈がもぞもぞとしている。
あぁ、そんなに身体をくっつけられた状態で動かれては、折角抑えた本能の雄叫びが……。
頼む、クローザー!どうにか火の付きそうなバッドをセーブしてくれ!
理性という名の投手が伝家の宝刀のフォークを投げる投球モーションに入ったところで、俺は話を続ける。
「まぁ、そんなこんなで。俺はなんとか借りを返したいと思った訳で。お節介でも、ありがた迷惑でも、明奈の力になれるような事を言おうと思ってな」
「全然、お節介じゃないよ。私も、やっと思い通りの進路に歩けそう。たっくさん迷惑かけたお母さんに、楽をさせることが出来るかもしれない。だから、その、繰り返しになるかもしれないけど……。ありがとう、凄く、参考になったよ」
「あぁ、どういたしまして」
なんだか、久しぶりに晴れやかな気持ちになった。
誰かの助けになるって、こんなに気持ちのいいものだったのか。
だけど、
「この世界じゃ、何の役にも立たないのは確かだな」
「あはっ、そうだよね」
お互いに笑ってしまう。
この世界じゃ、綺麗事も、前に進む決心すらも、なんの意味もない。
「もし、これで寝たら現実に戻って、夢だったって事になったらさ」
「意外とありそうな落ちだよな」
「私達がこの世界に、この夢に望んだことって、永遠の孤独みたいなものじゃなかったかもね」
「だな。多分、前に進むきっかけとか、信じられる人との出会いとか」
「溜まった愚痴の、吐き捨て先とか?」
「俺は道路の脇にある排水溝か?」
「なんでカウンセラーとかを想像しないのかな……」
こんなウジウジして、しかも聞いてもない進路を話し出すカウンセラーよりかは排水溝の方がマシだ。
人間じゃないし……、いやいやいかん、こういう卑屈っぽい考え方を変えねば。
「そろそろ、本当に寝よっかな。私もここで寝るほど貞操観念は低くないし」
「そうしてくれ、俺も自分の理性を信じられなくなる」
「それじゃ、これで」
やっと煩悩との延長戦が終わり、安心しきったところで。
右頬に、温かく湿った柔らかいものが触れる感触があった。
これは、もしかしてもしかしなくとも。
「ふふっ、おやすみなさい」
明奈は横になった俺を跨いで、ベッドに潜り込んだ。
最後にとんでもない一打が飛び出してきたもんだ、全く危ないところだった。
首位打者『ほっぺにチュー』を乗り越えて、俺の理性は辛勝した。
なかなか冷めなかった興奮が収まると同時に、俺の意識は眠りの底へと沈んでいった。