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少女の傷と、温かい涙の理由。

「それじゃ、クッションか何か……。いらない?床に直でいいの?あ、そう。でもどっちにしろ、寝るときは何かしら使うでしょ?……え、当たり前でしょ?ここで寝てよ、怖いじゃない」

「いやいや、お前自分の言ってる事分かってんのか?年頃の男子と同じ部屋で、他の人は一人もいない中で寝るって言ってるんだぞ?」

「他の人も、お母さんもいないからこそ寂しいし、怖いの。暗闇の中一人ぼっちなんて、不安でしょうがないもの」

「いや、だからさ。不安ていうなら俺と一緒に寝るというリスクも考えてくれよ。俺は俺の自制心だって信じられないんだからよ」

「そこは……、頑張って?」

「頑張ってどうにかなるもんじゃないんだかな……。はぁ、分かったよ」

なんで俺は最近流行りのやれやれ系主人公みたいな事を言わなければならないのか。

正直に言えば、さっきから明奈のパジャマ姿が可愛くて、その上風呂から上がった後のなんともいえない女子特有の色っぽさがあって、俺の息子がなかなかヤバい。

ただでさえ女子の部屋なんて初めてで刺激が強いのに……。

胡座をかいてどうにか誤魔化さなければ、追い出されてしまいかねない。

しかし……見れば見るほど私服姿では見れなかった身体のラインがよく見えてたまらん。

線が細い割には立派な山を二つ持ってらっしゃるようだ。

こんなことで明奈の話を最後まで聞けるのだろうか。

とりあえず俺の分の布団を和室から取ってきて、仕切り直してから明奈は意を決したように大きく深呼吸してから

「えぇっと、それじゃあ……、賢人君。

私は今から、とっても大事な話を、君にします」

「あぁ、分かった」

「私も、私と君がお風呂に入ってる間に筋道立てて、分かりやすくこの世界に来た経緯とか『理由』とかを説明しようと思ったんだけど、もしかしたら……。ううん、きっと途中で詰まったり、グダグダになるかもしれないけど、最後まで聞いてほしい」

「大丈夫だ、俺だってこの後話すけど、分かってもらえるか自信がない」

それよりその言い方だと俺と明奈が一緒に入浴してたみたいに聞こえる。

駄目だ、想像してしまう、それどころじゃないのに。

「それで、私なりに考えたんだけど。私の話がどれだけのものなのか、最初に確かめてもらおうと思ったんだ。自分で言うのもなんだけど、私の弱さは、きっと君が思ってる以上だと思うから」

「弱さ、か」

やはり、彼女の心には、人並み外れた弱さがあったんだ。

そうでなければ、こんな世界は本気では望まない。

「いい?覚悟してね、今から君に見せるのは、凄く気持ち悪いものなんだ、色んな意味でね。その代わり、これを見れば大体想像がつくかもしれない。私のこれまでの人生が。今は全て聞くって言ってくれた君でも、これからの話が嫌になるかもしれない。それでも―――、見る?」

きっとそれは、彼女なりの最後の警告なんだろう。

彼女の目が、俺に告げている。

怖かったら、逃げていい。

まだ、引き返せる。

彼女の右腕に添えられた手から、声からも、最後の迷いが見てとれる。

でも、ここまでだ。

逃げる所もないし、逃げるつもりもない。

自分との戦いは、とうの昔から始まっていて―――俺達は、ようやく勝てるかもしれないのだから。

「見るよ。今さらなかった事にするつもりはないさ」

「…………うん、分かった」

そういって明奈は、左手で右腕の長袖を捲った。

そこには、包帯が巻かれていた。

白い包帯が、手首から肘に向かって、ぐるぐると。

今まで隠していたようだ。

普通、気付いてもよさそうなものだが。

明奈の行動の隅々を観察していたようで、案外俺も間抜けだな。

言われてみれば、右腕を気にしているような仕草もないではなかったけど……。

しかし、それはてっきり他の人と同じで自己防衛本能が強い人が無意識にする癖だと思っていた。

身体を閉じるように片腕を触る癖のある人は、自分の物に対する執着心が高かったりする傾向がある。

明奈もその一人かと思って片付けたような気がするが、怪我していたとは。

「これはね、怪我じゃないんだ。見た目は怪我だけど、そうじゃない。ただの傷だよ――、私が、私につけた」

明奈がその包帯をゆっくりほどきながら、ぽつりぽつりと話す。

「こういうのってさ、最近流行ってるみたいだけど……。そういうのじゃないんだ、これは。悲劇のヒロインアピールとかじゃない、もっとどうしようもないものなんだ。自分でも手のつけられない、いや、手はつけちゃったのかな?自分でも良く分からない……。何にも分からなくなる、怖くなる、それでまた繰り返して、後悔して……、それで、私の右腕はこうなった」

包帯が完全にほどけて、見えたのは。

横に切られた、無数の赤黒く変色した切り傷。

いくつか、縦に切られているのも見られる。

包帯で隠れていた範囲は、まんべんなく傷つけられている。

深く、多く、赤く、黒く、下にある白い肌の面積の方が小さいほどだ。

それほど迄に、明奈の右腕は残酷で、無残で、惨憺たるものとなっていた。

よく、普通に利き腕を使えるものだ。

反射的に吐き気が襲うが、運良く軽い程度だったのでやり過ごす。

「……どう?ひどいでしょ?」

「まぁ、普通ではないな」

明奈の声は震えている。

多少、後悔しているのかもしれない。

「それでも、生半可な気持ちでやった訳じゃないのは分かるさ。お前は……、そんなにも、自分が許せなかったんだな」

「…………」

無言で、彼女は頷いた。

「その辛さは、きっと誰にも分からないだろうし、明奈だって、勝手に分かられたくないと思う」

思った事を、そのまま口に出す。

「そこまですれば、何回かは死にそうになったんじゃないか?」

「…………一回だけ、血が止まらなくて。倒れちゃって、病院に……。精神科にも、連れてかれた……」

明奈の声は、小さくて、か細くなっている。

多分、縦にある五センチ程度の傷をつけた時だろう。

狙ったのか、たまたまなのか、どちらにせよ動脈を切ってしまったのだろう、特別深く傷が残っている。

なんて、言えばいいのだろう。

さっきまですらすらと出てきた言葉が、急に止まってしまった。

ここで抱き締めてやれれば格好いいが、果たして意味はあるのか?

そんなことは彼女の母親が、とっくにやっているだろう。

なら、母親に言えなくて、俺が言える言葉は。

「……お疲れさま、今まで良く生き延びたな」

恐らくこの言葉は、この世界にいる俺にしか言えない。

ここは死以外で現実から逃れられる、恐らく唯一の場所だ。

だから、こう続けられる。

「苦しいのもここまでだ。もう、自分を傷つける必要なんてない」

そう、言い終わると、明奈は顔を上げた。

明奈の目には、涙が浮かんでいた。

大粒の涙が、彼女の頬を伝う。

「わ、わたし……。わたしは、もう、自分を責めなくても、苦しい思いをしなくても、いいの……?」

涙声で、すがるように確認してくる。

きっと、彼女はそれぐらい分かっていただろうけれど。

他の人から改めて言われて、もう自分は苦しまなくていい、自分を責めなくていいと知ったら。

思わず、言葉と涙がこみ上げて来ただろう。

その気持ちは分かる。

さっきの言葉は、俺自身にも言い聞かせた言葉だったから。

胸のあたりから上ってくる熱いものをのみ込んで、俺は。

「あぁ……、もう、大丈夫だ……!」

明奈の目を見て、力強く、頷いた。

明奈は俺の言葉を聞いて、ずっと張っていた線が切れたのだろう。

静かに、喜びを噛み締めるように、泣き出した。

俺も、自分の事でいっぱいいっぱいだったが、それでもかろうじて腕を伸ばし、明奈の頭を撫でた。

流水のようにさらさらな髪の感触を右手に感じる。

これも、彼女の母親がたくさんしてきた事の一つに変わりないだろうし、明奈は悲しくて泣いている訳じゃないのだから慰めとしての意味もないけれど。

同じ喜びを味わっている者同士の、これまでの苦労を労るように、俺は彼女の頭を撫で続けた。












10分ぐらい経っただろうか、明奈は泣き止んだ。

呼吸を整え、ぐずついた鼻をかんで、目元を拭ってから、

「……ありがとう、その、撫でてくれて。

すごく、安心した」

「そうか、それはなにより」

俺の方はというと、後悔と羞恥の念で明奈の顔が見られなかった。

なんであんなことを……。

明奈の声からして心にもないことを言った訳でもなく、心から感謝してくれているのであろうことが救いだ。

女子の頭を撫でるなんて、一度もしたことがないのに、勢いでとんでもないことをしてしまった。

どんな顔でこいつとこれから話せばいいのか分からない。

「そういえば、私まだこれを見せただけで、『理由』の方は詳しく話してなかったね」

右腕の傷を示しながら、明奈は続きを話そうとする。

「お、おうちょっと待ってくれ。あ、いや、待たなくていいのか、あーっと」

いかん、どうにか顔が赤いのを誤魔化さなければ。

こちらが変に意識してるだけ、とかだったらもっと恥ずかしい。

「何よ、今さら聞かないとか言うつもりじゃないでしょうね」

「いや、そういう訳じゃない。大丈夫、最後まで聞くよ、話してくれ」

いつまでも照れている場合じゃない。

まさかあんな、人間ドラマみたいな展開になるとは思っていなかったけれども。

ここからも似たような場面が続くかもしれないのだし、腹を決めなければ。

割られたり据えられたり決められたり、今日の俺の腹は大変だな。

「それじゃ、いくよ?」

「おう、どんとこい」

「―――始まりは、私が中学三年生の時だった。ちょうど梅雨の時期だったかな。他の中学校の人は受験で忙しかっただろうけど、私達の八割はそんな忙しさとは無縁だったから、それまでと同じく、和気藹々と学校生活を送ってた」

「受験勉強と無縁ってことは、中高一貫ってことか」

「そういうこと。私は小学生の時に中学受験して、都内の中高一貫の天純中学に合格したの。結構大変だったんだよ?」

「ほう、凄いな」

天純高校は聞いた事がある、というか俺が高校受験の時に滑り止めで受けた私立高校だった。

一番上のコースは偏差値が70近くあったはずだが、そういえばあそこは中高一貫だったか。

「私が生まれた時にはもうお父さんがいなくて、お母さんしかいなかったから学費が大変だろうと思ったんだけど。『出来るところまで頑張りなさい。お金の事は気にしなくていいから』って言われて入学したんだ」

「そりゃいいお母さんじゃないか。それで?」

「えぇっと、そうだ。梅雨の時期だったっけ。クラスの中で一番強い……というか、なんというか、人気がある女子がいて……」

「女子集団の常に上位にいる、女王みたいなやつだろ? いるよな、どこの学校のどこのクラスにも」

「女王っていうか、確かその女の子は男子からは『帝王』って呼ばれてたかな」

「て、『帝王』……?」

女子なのに帝王ときたか。

もはやどれぐらいのレベルでクラスを掌握してたのか想像もつかない。

「でもその子、別に悪い子じゃないんだよ?我が儘な所もあるけど、そんなの女子ならみんな普通だし、誰かを下僕みたいに扱ってもなかった。でも、気に入らない子は自分のグループからハブろうとしてた、男子女子関わらずね」

「おぉ……。恐ろしいな」

「それで、その子には彼氏がいたの。一年間は続いてたと思うよ。顔の良い男子とは誰彼構わず仲良くするようなところもあったけど、なんだかんだで一途な子だった。可愛かったから彼氏がいると分かってても告白する男子がけど、もちろん玉砕してた」

「男好きだけど一途か……、なかなかいないよな」

大体そういう女子はあらゆる男ととっかえひっかえ付き合うものだが、例外もいるらしい。

「でも、その二人は突然別れた。原因は彼氏が、他に好きな子が出来たから別れて欲しいってその子に言って、そのまま……。その時の詳しいことは、分からないけど」

「……あー、はいはい、分かってきた。大体見えてきたぞ」

「え、もう?」

意外そうな顔の明奈が俺を見てきた。

そこまで来れば、後の展開は誰でも読めてくるだろうに。

明奈が、その話をしてきたという事は、必ずどこかに明奈が関わるはずだ。

ここまでの話から、一番関わって話がこじれることになる立場の人間は、一人しかいない。

「その彼氏が好きになったのが、明奈なんだろ?告白してきて、しかも振ったりしたんじゃないか?」

「当たりだけどさ……。賢人君、なんというか、その辺もう少しオブラートに包むとかしないの?なんか私が悪女みたいに聞こえるんだけど」

睨まれた、怖い。

「すまん、考えたことそのまんま口に出しちまった」

「まぁいいけどね……。事実であることには変わりないし。それで、私は『帝王』に徹底的に嫌われて、憎まれて、色々された……。女子グループからハブられるのは勿論、ありもしない噂を流されて、クラスから孤立していった。友達もいなくなっていった」

そう語る彼女の表情に、恨みや憎しみといった感情は見られない。

明奈はそういう人間なのだろう。

自分が酷い目にあっても、他人よりも自分に非があると思い、我慢してしまう。

今までこんな女の子は見たことがない、こんな、根っからの善人には。

そんな彼女に、その試練は理不尽過ぎたのだ。

「それでも、気にせず接してくれる友達はいたけど……。何より辛かったのは、その友達も、私と同じ目に遭うことだった。それだけは、耐えられなかったし、許せなかった」

初めて彼女の目に怒りの色が見えた。

この子はどこまで、本当にどこまで優しい女の子なのだろう。

自分の傷より他人の傷。

そんな人間は、フィクションの中や歴史の教科書でしか見たことがない。

恐ろしいのは、そんな彼女を初対面の人に対して問答無用で殺意を抱くような人間に変えてしまうこの世界だ。

善良なだけの人間はいない。

そんなことは、俺が良く知っている事。

「そのうちに私は、学校に行けなくなった。私がいれば、何も悪いことをしてない大切な友達が傷つく。それに、やっぱり誰とも話せない、避けられながら過ごす学校生活が、しんどかったんだ」

「……やりきれないな」

思わず正直な感想が出てしまった。

悪人がいそうでいないのが、この一連の流れで救いがない所だろう。

『帝王』と呼ばれた一途な女の子は、彼氏に裏切られた恨みを、自慢の彼氏を振った明奈にぶつけた。

もしかすると、その女の子も分かっていたのかもしれない。

好きでもない男子から告白されて、振っただけの明奈に非がないことが。

それでも、負の感情をぶつけずにはいられなかった。

持ち物を滅茶苦茶にしたり、暴力をふるったりはしなかった所に、その葛藤が表れているような気がする。

単に証拠が残るからやらなかっただけの線も大いにあるが。

ありもしない噂を流すのはどうかと思うが、それぐらいしないと気が済まなかったのだろうし。

そしてその彼氏だって、中学生の色恋沙汰とはいえ一年間続けてきた関係をあっさり捨てた女たらしに思えなくもないが、単に自分に嘘が吐けなかっただけの普通の思春期の男子中学生だ。

心に弱い部分を持った中学生が、二つの失恋により、事態は誰にも止められないまま、悪い方向に転がり続けて―――。

そのうち、最も純粋な女の子の心に限界が来た。

やりきれない、そして悲しい。

どこかでどうにかならなかったのかと、話を聞いてて思わざるを得ない。

俺が仮にその場にいたとして、多分何も出来ないだろうけど。

そんな自分を棚に上げても、やるせなさを感じてしまう。

「そのあとは何もなかった。夏休みが終わっても私は不登校のままで。お母さんや先生に相談しても、解決はしなかった。いじめにしても証拠はない。事情を説明しても、それが本当に原因かは分からない。先生もどうにも手を打てなかったみたいだし。何より、久しぶりに登校したときの、クラスメイトからの視線が痛くて、怖くて、また逃げて……」

「そのまま、今に至るって訳か?」

俺が聞くと、彼女は首を振って。

「もう少し、あるかな。結局私は最後まで学校に行かないままだったけど、中学を卒業出来た。高校からは頑張ろうと思ったけど、中高一貫じゃない?高校から入ってくる人もいたけど、やっぱり半分くらいは同じ中学だった人で。また同じ目に遭うかもしれない、まだあの子は私を憎んでるかもしれない。そう考えると、顔を合わせるのが怖くてしょうがなかった」

この辺が、私のどうしようもない弱さなんだ、と明奈は自嘲気味に笑った。

もちろん俺は笑えなかった。

そんな、青春じゃよくある失恋で、まともな学生生活を送れなくなったなんて。

そんなの、酷すぎる。

「でもね、まるで私が被害者みたいな言い方をしといてなんだけど。単純に勉強

もせず、家で一日自分の好きな事に時間を使えるっていう、ニートみたいな生活に慣れて、ずるずるとここまで燻ってただけなんだよ、私は。ニートみたいなじゃなくて、まんまニートだね。お母さんは、好きな時にまた勉強は始めればいいって言ってくれて、私もまだ時間はたっぷりあるって思って、一年があっという間に経ってた」

「そりゃあ、なんとも……。まぁ、俺もそうなるだろうけど」

高校に入って、一念発起して、再び学校生活を送ること。

なるほどそれはさほど難しくもないのかもしれない、半分は同じ中学の人間なら、半分は新しく入った人間なのだから、また新しく人間関係を築くことも明奈なら出来るだろう。

『帝王』と呼ばれた女の子が同じクラスであれば話は別だろうが、一般的な高校のクラス数を考えると、その可能性はかなり低い。

そんな中、明奈はぬるま湯のような生活に慣れ、抜け出せなくなった。

原因はなんであれ、その結果はよろしくない。

「私はある日突然、このままじゃ駄目だって、どうして今までこんな事をしていたんだって、物凄く後悔した。今まで私が無駄にしてきた時間が、もう取り戻せない時間がすごくもったいなく思えて。こんな生活から抜け出そうとしない自分に嫌気が差して、責めて。ニートの私を叱る事なく女手一つで養ってくれてるお母さんに申し訳なくなって。自分を許せなくなった」

そこで彼女は、自分の右腕の傷を見た。

何度も何度も、向き合ってきた、自分の傷と。

現実と向き合おうとして、失敗した分だけ、その傷はある。

「それから、私はリストカットをするようになった。最初はもう死んでもいいって思って、カッターナイフで手首を切った。もうどこが最初の傷か分からないけど」

再び、自嘲の笑み。

やはり、俺には何も言えない。

俺には代われないから、何も出来やしないから。

話を黙って聞くしか、出来ないのだから。

「血がそこそこ出て、その痛みと流れてくる赤い血を見て、あぁ、私は生きてるんだ、まだ死んでないんだって思った。痕が残るだけで、死ぬことはない。それが分かってから、私はますますリストカットをするようになった。たまに絶望が波のように押し寄せてくると、もう頭で考える前に手首を切ってる。何も考えられなくなる。切った後に後悔する。こんなことしたってなんの意味もないって。もうやめようって思う。それでもまた繰り返す、後悔する、繰り返す……」

明奈の声が、表情が、暗く沈んだものになる。

話しているうちに、その時の気分を思い出しているのだろう。

あるいは、思い出すまでもなく、常に思っているのか。

「一度、倒れて、それまで何とか隠していたこの傷がお母さんに見つかった時、すごく怒られた。今までに見たことがない怒られた、泣きながら私を叱るお母さんを見て、私も泣いちゃって。私が自分を傷つけて、こんなに怒ったり、悲しんだりしてくれる人がいるなら、もう二度と自分を傷つけないようにしよう。そう思った」

そこで終われば、明奈はこの世界には来なかっただろう。

ようやく心を決めて、勉強を始めて、大学なりなんなりに進学しようと努力しているに違いない。

けれど、そうはならなかった。

「でも、勉強を始めようとして、高校の教科書を開いた時に、目の前が真っ暗になった。全然分からなかった。何から始めればいいのか、それすらも。勉強する習慣が完全になくなるには、二年間は充分過ぎる時間だった。それでまた無為に過ごした時の重さを感じて、また自分を責めた。でももう自分を傷つけちゃいけない、傷つける訳にはいかない。そのまま気持ちだけが溜まっていって、もう消えたいとまで思った。どこか遠くに行きたいって願った。そこでネットで見つけたのが―――」

「異世界行きエレベーター、か」

「うん。なんか嘘くさいけど、試すだけならタダだし。元々そういうオカルト系の話は好きだったから」

「それで、ここに来たんだな」

「そ、あとは話した通り……。これぐらいかな、私の話、私の過去、私の『理由』は」

「そうか……」

感想か何か言おうとしたが、出てきた言葉はただの相槌だった。

「ごめんね、時間はあるのに最後急ぎ足になっちゃった。分かりづらかった?」

「いや、むしろ分かりやすかった。池上彰も脱帽だろうな」

「流石にあそこまではまとめてないと思うけどね……」

最初から最後まで、よくまとまっていた、それは確かだ。

だからといって、彼女の辛さが理解出来たわけでもない。

彼女の話は、愚痴でもなく、相談でもなく、ましてや悲劇のヒロインアピールでもない。

自分の弱さを並べ立てた、懺悔に他ならない。

ここで神父よろしく悔い改めよなんて言えれば、どんなに楽か。

誰よりも自分を悔い、これからを改めたいと願っていたのは明奈本人だ。

なら、ここで言うべきは、同情の言葉でも、説教でもない。

ここで何も言わないのも何となく気が引けるので、ここは質疑応答の時間とさせてもらおう。

「あのさ、今の話に関係あるのか分からないんだが……。俺が最初にオリアで話を聞こうとしたとき、何か言ってたよな?

積極的になれば、前に進めるって。あれ、どんな意味なんだ?」

うむ、勢いに任せて喋ったら訳分からん質問が飛び出たぞ。

呼ばれてもないのに飛び出るのはくしゃみだけで充分だ。

確かに気になってはいた、彼女はいわば永遠に近い停滞を望んでこの世界に来たのだから。

それは今の話と、明奈の涙で証明されているはずだ。

それでもあのとき、彼女が『前に進みたい』という理由で腹を割って話すトップバッターを志願したのも事実。

この矛盾に、何か意味はあるのか?

そんな疑問が話を聞いている間ずっと頭のどこかにあったといえばあったが、別にここで聞かなくともよかろうに。

多分明奈も『えー……。今の話聞いての質問がそれ?』と思っただろう。

予想通り、怪訝な顔をする明奈だったが、どうやら疑問を持ったのは自分の言葉による矛盾に対してのようだ。

「うー、ん……?そう、だったっけ。いや、確かに言ったよ。うん、言ったはずではあるんだけど……。なんであんなこと言ったんだろう。もうこの世界に来たのならずっと私はこのままでいいし、誰にも迷惑なんてかけなくなるのに」

「あぁ、だから今の話を聞いて不思議に思ってさ。質問してはみたんだが、なんか特に意味はない感じか?」

「もしかして、その時の私はまだ元の世界に未練があったのかな。もし元の世界に戻れたとしたら、そりゃ前に進むべきではあるね」

元の世界の事か、言われてみれば戻ることなんて最初しか考えてなかった。

戻れないだけで、その内戻らされる可能性だってある。

「実は同じ夢を見ているだけでしたー、みたいなオチだったりするかもな」

「なにそれ、何かあり得そうで怖い。というか、なんで元の世界だと全く面識のない賢人君と同じ夢をみなきゃいけないのよ」

「運命の赤いコードってやつじゃね?」

「そんな物騒な物で君と繋がってるとしたら、やっぱり元の世界は恐ろしいものなんだね……」

ともあれ、俺の感じた違和感の答えは、明奈があのときまだ元の世界のことが頭のどこかにあっての発言であって、今は特にそういう事はないということでよさそうだ。

明奈が、他に質問は?と目で問いかけてくる。

俺は特にないというように首を振った。

さて、次は約束通り俺のターンだ。

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