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prologue

 閑静なマンションの一室で彼はパソコンを打ち続けていた。

 短く切られている以外にはまったく手入れをされておらず痛んだボサボサな髪に、三十代半ばを過ぎてもなお補助のいらない細く鋭い眼はどこか疲れたように濁っている。それは、これまでの人生の大半をあきらめて過ごしてきた彼を象徴するにはふさわしいものだろう。その下にある隈がそれをより印象深くしている。

 仕事が一段落ついたのだろう、突如として彼は椅子から立ち上がり大きく伸びをした。

「ん……はぁ」

 長い間座りっぱなしだったので体のいたるところからポキ、ポキと小気味良い音が聞こえた。

 そんな彼のもとにタイミングを見計らったかのようにケータイの着信音が部屋に鳴り響いた。

「誰だ、こんな夜中に……」

今の時間は草木も眠る丑三つ時。不吉な出来事を報せるには丁度良い時間だ。

 彼は片手でケータイを開き、電話をかけてきた相手を確認すると同時に顔をしかめた。

 何故なら、相手は自分をこんな人間にした大半の理由を占める忌々しい親の片われだったからだ。

 奴等から彼が得たものがあるとすれば、高校卒業までにかかった費用、そして、人間離れした気配察知力と反射神経だけだろう。

 確認から一拍開け、彼は大きく深呼吸をし、執筆で軽くトランス状態にあった精神を完全に覚醒させる。そうでもしなければ開口一番に恨み言を吐いてしまいそうだからだ。

「……あ、拓斗」

 電話に出た母親の声は震えていた。どうやら泣いているようだった。

 これまでの一生で彼は親達が泣くところを二度程見ている。それは各々の親が死んだ時だった。

 そこから彼が導き出した答え、それはもう一方の片割れが死んだのではないかという希望にも似た答えだった。

 そんな淡い期待を持った彼は、口を滑らせないよう、努めて冷静に口を開いた。

「こんな夜中に、しかも泣いているときた。 いったい何事だ?」

「じ、実は……」

 だが、彼の儚い希望はすぐさま砕け散った。

 「人の夢って書くから儚いんだっけ」、と三十八歳になって今更考える彼の脳内には嗚咽混じりの母親の声が響く。


「ちょっと、聞いてる!?」

「あ、ああ、聞いている」

 すぐに気持ちを切り替え神妙な顔つきになる。

「ん、ん……分かった。この時間では電車は止まってるから明日の始発で……え? 車? そんな物持ってたらすぐ向かうに決まってるだろう!」

 母親の「何故、車を使って今すぐ来ないのか」という嫌味を含んだ質問に対し、彼は大人気なく感情を爆発させてしまった。

「はぁ、はぁ……とにかく明日だ。今日は行けない」

 そう言って、彼は一方的に電話を切った。

 これ以上、母親の不愉快な声を聞いていたら何の罪もないケータイを傷付けてしまいそうだったからだ。

「はぁ、なんで……」

 良い奴程早く逝く。それは戦場の中だけの話ではなく、世の理のようなものらしい。

 今日はもう寝よう。

 そう決めた彼は、保存し忘れていたこれまでの仕事をしっかりと保存し、パソコンをシャットダウンしてからゆっくりと床に就いた。

 ――何で、よりによって何であいつなんだ。

「何で死んじまうんだよ……優!」

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