第八話
そよそよ、優しい風が部屋を揺らす。
足先が固まるくらいガンガンに冷えていた部屋は、俺の強い要望により、窓を開け放ち静かな扇風機が回っていた。
「まだ?」
「ちょっと待てって」
首を伸ばして、答えを見ようとするワカを制して、頭をかきむしる。
―何だこのクソ問題!
「もう15分経ちますけど…」
ワカは飽きたようにベッドにダイブした。大きく伸びでもしてるのか、気持ち良さそうな声が響く。動き回ると少し汗ばむが、それくらいの温度でこの小さい体にはちょうど良いようだった。
「ダメだ!何だこの旅人算って。ややこしい、xとかyで表せよ」
正直それでも解ける気はしないが…悲しい成人の精一杯の見栄だ。
「よしパパの言う通りだ…」
感嘆のため息が、痛々しく響いた。
俺は今、一度看病のために訪れたワカの部屋にいる。強引に引きずられ、夏休みの宿題を解く羽目になったのだ。
さすがに、分数程度だろと歯牙にもかけず鉛筆を持ったのだが…。簡単なようで難解な言い回しがまず理解できず、公式を見せられてもちんぷんかんぷんでお手上げだった。
「頼むから誰にも言わないで…」
弱々しく俺は泣き付いた。二十歳の心が折れそうだった。
昨日あの後、鳥居さんから“汚れても構わないが、気品を失わないパンツ”は用意がないと信じられないお達しを受けた。明日には用意すると言われ、ワカは日影に入って大人しく見ていた。
元々、作業車を興味津津に覗いていたくらいだ。種の種類や道具の名前をいちいち質問してきて、満足そうに頬杖をついていた。
今朝は、どこから掻き集めたのか光沢のある麻のパンツを何本も広げ、俺を待ち構えていた。
大きな帽子と軍手をはめてやると頬を紅潮させて喜んだ。
何を植えるかは特に決めていなかったから、ワカの好きな花を聞く。
「何のお花があるか良く知らない。でも青が好き」
好んでなのか、今日も緑がかったブルーのブラウスを着ている。なかなか難しい注文だったが、その色からハーブでも良く知られるタイムの一種、イブキジャコウソウを思い出した。
あれなら食用にもなるし、香りが強すぎるのが難点だが、頭上にあるピアノの部屋まで届くかもしれない。
そのことを伝えると、ワカは目を丸くして驚いていた。
「それならピアノの練習もはかどるかも!」
素直で、表情豊かなワカとの他愛もない会話は途切れることがなかった。
花が好きな母親に早く知らせたいと言うので、電話はできないのかと聞くと、
「…お仕事してるお母様の邪魔はしたくないもん」
と返ってきたので、言葉を失った。
大きく輝く瞳がほんの少し陰る。寂しくないのか、とか偉いな、とか口から出そうになる陳腐な言葉を飲み込む。この少女には分かり切ってる言葉だと思った。
「ワカ、植物園って行ったことあるか」
陰った瞳は、年齢に不相応な落ち着いた空気を作る。それがどうしても嫌だった俺は、何とかして話題を変えた。
「ううん、ない!」
ぱぁっと顔を綻ばせて、見上げてくる。
「植物園なら、これから植えるタイムもたくさん種類があるぞ」
「ほんと?青じゃないお花もあるの?」
「ああ、白とかピンクとか。あるよ」
「すごいなぁ。どんなお花なのかな」
それだけ言って口を噤んでしまった。当然行きたいと言われると思っていた俺は、思いっ切り肩透かしを食らった。
「…行きたくないの?」
「行きたいけど、一人でお出かけしたら迷惑かけるもの」
「誰に?」
「トリィとか、みんなに心配かける」
「俺が連れてくよ」
「ゼンが?」
長い睫毛に縁取られた、茶色がかった瞳がいっぱいに開く。
「迷惑じゃないよ。友達なんだろ?」
安心させるように言うと、何度か瞬きして呟き始めた。
「いいのかな?ほんとに?」
最初あれほど敬遠していた土を世話しなくいじり始める。その、何とも微笑ましい様子に、俺は吹き出すのを我慢した。
「でも、すぐじゃないぞ。この仕事が終わらなきゃ」
わざと厳しい声を出すと、グッと拳を握って、
「うん!頑張る!」
と勢い良く返事をされた。
やっと望んだ態度を拝んで機嫌良くした俺は、土を平たんにするための道具を作業車に取りに一旦その場を離れた。
「あれ?ないな」
朝はあったはずの背の高い道具が見当たらず、そのまま回ってスーさんの方に足を運ぶ。
「レーキなら榊兄さんが持ってたよ」
親父と入れ違いになったらしい。いつもなら舌打ちの一つも出るところだが、心に余裕があった俺は礼を言って、親父を探しに行く。
一心不乱に剪定している親父に、声をかけるのはなかなか勇気がいるものだ。仕方なく持ち場を探すとやっと見つけたので、裏庭に引き返す。
まだまだ厳しい日差しで、額から流れる汗を拭いながら、元の場所に戻ると、元気に土をいじっていたワカが―――――倒れていた。
「――おい!」
一気に血の気が引き、全て投げ捨てて駆け寄る。
髪についた土を払って抱えると顔が青白くなっていた。
「ワカ、どうした。大丈夫か」
揺さぶりたい衝動を必死に押さえて怒鳴る。
「貧血か?また?」
自分の背中が嫌な汗でぐっしょりぬれているのを感じた。
とにかく、安静にできる場所だ。
ついさっきまでいた部屋に俺はワカを抱えて走って行った。
2回目だが、なりふり構わず慌てていたからだろうか。足音に気付いた鳥居さんが、悲鳴を上げた。
「和華様!」
「鳥居さん、冷やすものとスポーツドリンク持ってきて!」
叫ぶように言い捨てて、階段を駈け登った。本当に驚くほど軽い。ちゃんと食べているのだろうか?
以前、鳥居さんがワカが食欲がないとぼやいていたのが頭を掠めた。
無事ベッドに寝かせると、少し涼しい風のおかげか、顔色が戻ってきた。熱中症だったのだろうか。帽子はかぶっていたものの、そこまで気を回せなかった自分に舌打ちした。
脇に氷嚢を挟み、甲斐甲斐しく世話する鳥居さんを黙って見守る。
無茶をさせすぎていたのか?
そうだとしても、たった一日で深層のお嬢様に戻らせるのは、どうしても我慢ならなくて、下唇を噛んだ。
「やっぱり…お外に出すべきじゃなかったんだわ」
うっすら涙を浮かべる鳥居さんを見て、カッと血が上った。
「それは違うだろ」
血が引いたり上ったり、俺もなかなか忙しい。
「まだ小学生なのに家に閉じ込めて、どうすんだよ。飯食ってるの?食欲ないって言ったよね。この真夏に水分も取ってなきゃ、倒れるさ。過保護なのもいいけど、今遊び回るのが一番必要な時期だぞ。これ以上悲しい顔させたいのかよ」
まくし立てながら、落ち着け、とセーブする頭の声が聞こえる。第三者が口を挟むことじゃない。分かっているはずなのに、先ほどの陰った瞳を思い出すと止まらなかった。
俺は真剣だった。
「朝…和華様、ジュースしか召し上がらなくて」
「ビタミン、ミネラル、鉄分!朝はジュースでもいいから酢を混ぜて、果物いれたヨーグルトくらいは絶対食わせる。飲み物持たせて、少しずつ口にいれさせないと脱水症状起こすよ」
「脱水症状…」
鳥居さんも真っ青になった。
「倒れたのは食事と水分不足だと思う。今日、外で動いたから夜は腹減るんじゃない?お嬢様の好物出したげてよ」
俺の言葉に思い当たることがあったのか、鳥居さんは神妙に頷いた。
ワカの落ち着いた顔を優しく見つめながら、言った。
「変ね。和華様のこと、昔から良く知ってたはずなのに。ずっと元気がなくって途方に暮れちゃって。昨日は久々にあんな笑顔見たの」
「うん。すげー頑張ってるよね」
両親がいなくて寂しいだろうに。どこにも遊びに行くこともなく退屈だろうに。文句でも吐き出せば楽になることを、ワカは知らずにグッと我慢してしまう。それは、相手のことを考えてのことだ。まだ年端もいかないうちから、自分を制する辛抱強さと、相手を思いやる心の広さを持っている。立派な淑女だと思った。
「ワカも鳥居さんに迷惑かけたくないって言ってたよ」
我が子のように心配するこの目は、ワカにとって救いだったと思う。それなら、もう少しくらい甘えたって構わないのだ。
鳥居さんの目が潤んで見えたので、俺は気付かない振りをして部屋を出た。
裏庭に戻ると、やけに広い気がしてならなかった。元々庭園と言ってもいいほどの広さなので当然なのだが、隣りにコロコロ表情を変えるワカがいないからか?と自嘲した。
あまり兄貴風情を出してもいけない。この仕事が終われば、会うこともないのだ。
日照りの眩しさに顔が歪んだ。
小一時間しただろうか、小さな足音が聞こえて、後ろを振り返った。
「ゼン!」
「―えっ?」
ワカが額に冷えピタシートを張ったまま、飛び付いてきたのだ。
「な、何してんだよ」
「どうして先に進めちゃうの?一緒にやってよ」
「ばか、お前倒れたんだぞ。もう少し寝とけよ」
「もう平気だもん」
ワカはそのまま俺の腰に抱き付いて、首をふって抵抗した。
「おい、落ち着け。立ちくらみ起こしたらどうするんだ」
細い肩を押さえて、日影に座らせた。ベッドからそのままでてきたのか帽子もかぶっていない。
どうやって宥めようか首を捻っていると、意志の強い目を向けられた。
「寝かせようとしたって無駄だもん」
口を尖らす顔は、随分色が戻っていた。
「そんなに土いじり気に入ったか」
「ゼンと一緒にいたい」
直球の言い方に俺は咳き込んだ。随分とまぁ、懐かれたものだ。
真直ぐ見てくる視線に耐えられなくて、俺はワカの頭を正面に戻し、スポーツドリンクを握らせた。
「ワカ、飯食ってないんだって」
「お腹減らないの」
「でも三食取らないと、一日のエネルギー取れないぞ。ちゃんと食べろ」
「食べたら手伝っていい?」
「うん」
そう言うと、小指を出してきた。
「指切りげんまん」
知らないの?と自慢気に言ってくる。小さい指を自分と合わせて約束のセリフを歌う。
この少女は、俺と別れるとき少しは寂しがるのだろうか。
嬉しさを微塵も隠さず、全面に表すワカを見て、そんなことを思った。
「ここの近くにひまわり畑があるんだよ」
「見たい!連れてって」
「おい、遠慮しねーのか」
甘えることを少しは覚えたのか、素直な反応に笑いが止まらない。
「行きたい!行きたい!」
「うるせーな、飯食えるようになったらな」
「はーい!」
何故、律義に手を上げるんだ。
空に真直ぐ伸びる腕に、心の中で突っ込んだ。