第8話「右腕の右腕」
王立政務院、深夜。静まり返った廊下とは対照的に、私の頭の中は高速回転している。
机の上に最終修正版がある。インクがまだ乾ききっていない箇所がある。
五日。仮眠三回。修正二十四回。
誤差ゼロ。
「王室儀典費追加流用、年間予算の一割二分。特権税前倒し徴収の拡大。商業ギルド前払い制度の増額交渉——」
私は最後の桁を確認する。数字の羅列が、美しい幾何学模様に見える。
(完璧です。私の子供たち、よく育ちました。あとは敵陣で暴れ回るだけです)
「エリス」
アーロンが資料を閉じる。パサリ、という乾いた音。
「本当に、これで通るか」
「通します」
「自信があるのか」
「ありません」
彼が目を丸くする。
「でも、やります」
私は彼を見る。
「あなたが諦めない限り、私も諦めません」
彼が、笑う。
「……お前と出会えて、本当に良かった」
心臓が、大きく跳ねる。
(その言葉、最終決戦前に言わないでください。フラグが立ちます。縁起でもない)
王立議会大会議場。最終審議。
空気は張り詰めている。真空状態のような息苦しさ。
「アーロン・バルゼン政務統括官、入場」
扉が開く。
今度は、罵声はなかった。代わりに、冷たい視線が彼を刺す。
(静かすぎます。これは諦めの静けさか、それとも——)
「最終修正版を説明する」
アーロンの声は揺れない。
「北部不作による財源不足に対し、三つの追加策で対応する」
資料が配られる。私の血と汗と涙と睡眠時間の結晶。
「第一、王室儀典費の追加流用」
ざわめきが起きる。
「陛下の追加勅書だ」
アーロンが羊皮紙を掲げる。
「『国のためなら、朕の宝飾品も惜しくない』——陛下の御言葉だ」
王の署名が、金色に輝く。
(チェックメイト。王様カードは何度使っても最強——のはず)
「統括官」
不意に、議場の最後列から声が響いた。
財務卿ヴァンデル。王室会計の最高責任者。今まで黙っていた男。
(まずい。この人が動くと厄介です。数字のプロ中のプロ)
「王室資産を担保とする、と仰いましたな」
「その通りだ」
「では質問します。王室資産の正確な評価額、ご存知ですか?」
アーロンの動きが、0.1秒止まる。
(来ました。専門外攻撃。でも——準備済みです)
私が立ち上がる。
「財務卿」
ヴァンデルの視線が、私に向く。
「王室資産評価額、直近の監査報告書によれば八億七千万ゴルドです」
「……ほう。よく調べておられる」
「当然です。担保価値の算定は、私の職務ですから」
(あなたが出てくることも、想定済みです。昨夜の徹夜は、あなたのためです)
「では、その資産の流動性は?」
「三割が即時換金可能。残りは六ヶ月以内に市場化可能です」
「リスク係数は?」
「市場変動を考慮し、安全率を二割設定しています」
(私の計算に、疑義がおありですか?過去五年の私の試算、誤差率は0.01%以下です。あなたの予算管理より、遥かに優秀ですが)
ヴァンデルが資料を凝視する。電卓を叩く音が聞こえてきそうだ。
長い沈黙。
「……完璧だな」
ヴァンデルが座る。
(落ちました。財務のプロを数字で黙らせました。私の勝ちです)
「第二、特権税前倒し徴収の拡大」
バートン子爵が資料を凝視する。
「投資効果の試算は?」
「資料七ページです」
私が該当ページを示す。
「三年以内に、領地価値は平均二割上昇します」
「数字に嘘はありません」
(電卓人間には、精度の違いを見せつければ黙ります)
子爵が頷く。
「第三、商業ギルド前払い制度の増額」
ダルトン卿が立つ。
「統括官。あなたは、本気で国を変える気だな」
「当然です」
「分かった。ギルドは、協力する」
議場が、沸いた。
(全員、私の掌の上です)
「最終採決を行う!」
議長の声が響く。
「賛成多数——」
一瞬、間。
その沈黙が、やけに長い。
「……ただし、王室資産担保条項に一部修正を加える」
議場がざわめく。
(修正?)
喉が乾く。
(想定外? どこを削られる?)
「儀典費流用は三年限定とする」
一瞬で計算が走る。
三年。
回収率。
再投資効率。
税収増加曲線。
(……耐えられる)
むしろ——
(王室の反発も抑えられる。政治的には最適解)
私は小さく息を吐く。
「以上の条件付きで——可決!」
木槌が響く。
カーン、カーン、カーン。
今度こそ、議場が爆発した。
(終わった。本当に、終わりました)
執務室。夕日が窓から長く差し込み、部屋を茜色に染めている。
アーロンが窓辺に立つ。
「勝ったな」
「戦術的勝利です。戦略はこれからです」
(素直に喜べないのが、私の悪い癖です)
彼が振り向く。
「お前は本当に、冷たいな」
「感情で国は回りません」
「それでいい」
一歩、距離が縮む。
「エリス」
「はい」
「王の右腕は俺だ」
「承知しています」
「だが今日で、確信した」
彼の視線は真っ直ぐだ。琥珀色の瞳が、夕日よりも熱く私を射抜く。
「お前がいなければ、俺はとっくに止まっていた」
「止まることも、必要です」
「俺は止まれない。だから——」
間。心臓の音が、時計の針の音をかき消す。
「俺の右腕は、お前だ」
沈黙。
胸が鳴る。
(業務外反応。もう、隠せません)
「役職としてではない」
それは宣言だった。命令ではない。選択だ。
私は答える。喉が少し乾いている。
「責任範囲を明確にしてください」
(何を言ってるんですか私は。こんな時に契約交渉ですか)
彼が笑う。子供のような、無邪気な笑顔。
「一生分だ」
「長期契約ですね」
「解除不可だ」
「罰則規定は?」
「俺が全て引き受ける」
少しだけ、呼吸が乱れる。夕日のせいか、顔が熱い。
「……合理的ではありません」
「合理性で、お前は隣に立っているのか」
言葉が詰まる。数秒。
私は視線を上げる。彼の瞳の中に、私がいる。
「いいえ」
それが答えだった。
彼が一歩、近づく。
「なら、なぜ?」
喉が、焼ける。
論理が崩壊する。計算が役に立たない。
「……計算外なんです」
「何が?」
「あなたという変数が、私の人生に入り込んだことが」
彼が目を丸くする。
「計算外?」
「はい。制御不能で、予測不可能で、非合理的です」
私は彼を見る。
「でも——その変数がなければ、今の私は成立しません」
「それは……」
「好きだということです。鈍感な暴走機関車さん」
言ってしまった。最高の毒と、最高のデレを混ぜて。
彼が、笑う。
そして、私の手を取った。
「俺もだ。計算高い整理官さん」
心臓が、止まりそうになる。
「最初から、ずっと」
「……ずるいです」
「何が?」
「先に言わせるなんて」
(卑怯です。でも——嬉しいです)
彼の手が、私の頬に触れる。
「もう、怖くないだろう」
「……はい」
私は、初めて彼の前で、計算のない笑顔を見せた。
廊下を並んで歩く。
何も変わっていない。書類の山も、迫り来る期限も、うるさい議会も。
だが、変わっている。
「エリス」
「はい」
「背中は預けた」
「落としません」
それで十分だ。
走るのは彼。設計するのは私。
(計算外の未来が、少しだけ楽しみです)
『王の右腕は止まらない』あとがき
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
エリスの毒舌と、アーロンの暴走。
「職務です」と言い張りながら、気づいたら互いの右腕になっていた二人の物語でした。
「計算外の変数」という告白は、数字で生きてきた彼女にしか言えない言葉だったと思います。
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