第7話「崩れかける右腕」
執務室に届いた正式報告書を、私は十回読み返した。羊皮紙の端が、手汗で少し湿っている。
数字は変わらない。何度見ても、黒いインクは同じ絶望的な数値を描いている。
「北部穀倉地帯、最終確定収穫量——前年比四割二分減」
(神様。あなた、私たちに個人的な恨みでもあるんですか?タイミングが完璧すぎます。悪い意味で)
窓の外では雨が降り始めていた。まるで天も一緒になって私たちを嘲笑っているかのような、容赦ない雨。
私は電卓を叩く。叩き直す。もう一度叩く。
答えは変わらない。
農民税据え置き——絶対条件。 不作による減収——三億ゴルド。 救済費用——二億ゴルド。 商業減税の財源——消滅。
合計不足額——五億ゴルド。
(錬金術師を雇っても足りません。魔法使いでも無理です。これは、完全に詰みです)
「エリス」
アーロンの声。低い。いつもの力強さがない。
「最悪ケースで試算してくれ」
「既に、完了しています」
私は試算表を差し出す。真っ赤な数字が踊る、絶望の設計図。
彼がそれを受け取る。読む。顔色が、見る間に蒼白になっていく。
「……これは」
「財源不足、三割。商業減税は完全凍結。貴族課税強化のみでは議会が離反。そして——」
一拍。
「改革案そのものが、破綻します」
(私が三週間かけて積み上げた計算式が、天災一つで木っ端微塵です)
「……俺が王に報告する」
「またですか」
声が冷たく落ちる。
「天災です。あなたの判断ミスではありません」
「強行したのは俺だ」
「資料を整えたのは私です。責任は共有です」
(学習能力ゼロですか?『俺が悪い』の自動音声、いい加減アップデートしてください)
「エリス——」
「統括官」
私は彼の言葉を遮る。
「あなた一人で責任を取るなら、私は辞職します」
彼の目が、大きく見開かれる。
「脅しではありません。本気です」
私は彼を見る。
「私は、あなたの盾になるために、ここにいます」
(あなたが一人で倒れるくらいなら、道連れの方がマシです)
翌日。空は鉛色だ。
新聞は踊った。街角の売店に並ぶ見出しが、目に刺さる。
『税制改革、早くも暗礁』 『統括官の見通しの甘さ露呈』 『バルゼン統括官、辞任か』
(ハイエナの宴ですね。死肉を見つける嗅覚だけは一流です。記事の質は三流以下ですが)
執務室に向かう廊下で、職員たちの視線が痛い。
同情と、軽蔑と、野次馬根性が混ざった目。
「統括官、もう終わりですね」 「あんな無茶な改革、最初から無理だったんだ」
聞こえよがしの囁き。
私は足を止めた。
振り返る。
「失礼ですが」
職員たちが、ぎくりと固まる。
「あなた方が定時で帰れるのは、誰の業務効率化改革のおかげでしたっけ?」
無表情のまま、静かに言う。
「記憶が曖昧でしたら、人事記録を確認いたしましょうか?残業時間の削減実績、詳細に記載されていますが」
沈黙。完全な沈黙。
(恩を仇で返すとはこのことです。でも、人間の本性なんてこんなものでしょう)
私は歩き続ける。
臨時議会。
昨日の静寂が嘘のような喧騒。議場は、既に戦場と化していた。
「アーロン・バルゼン政務統括官、入場」
扉が開く。
罵声が、即座に飛んだ。
「嘘つき!」「詐欺師!」「王を騙した罪人!」
アーロンは動かない。演台を掴む手が震えているのを、私は見てしまった。
「説明する機会を——」
「説明など不要!」
グレンヴィル伯爵が立ち上がる。
「貴様の改革は破綻した!潔く責任を取れ!」
「待ってください」
私が立ち上がる。
議場が、一瞬静まる。
「整理官が何の用だ」
「数字を、説明させてください」
「数字?もう数字など信用できん!」
紙束が飛ぶ。白い紙吹雪のように舞い、私の足元に落ちる。
さらに罵声が飛ぶ。
「女狐め!」「統括官の腰巾着が!」
プツン。
何かが切れる音がした。
私はゆっくりと、足元の紙束を拾い上げた。
「……今、女狐と仰いましたか?」
静かな声。でも、議場全体に響いた。
「腰巾着?」
私は顔を上げる。鉄壁の無表情。
「違います。私は政務整理官です。そして——」
一拍。
「あなた方の過去十年分の領地運営費を監査できる権限を持っています」
議場が凍りつく。
「私の記憶が正しければ、昨年度の『視察費』、使途不明金が二割ございましたね?今ここで詳細を公表いたしましょうか?」
完全な沈黙。
(静かになりましたね。最初からそうしていればいいんです。私の毒は、数字より効きますよ)
アーロンが私を見る。驚きと、わずかな安堵。
私は小さく頷く。
(盾になると言いました。物理攻撃は防げませんが、精神攻撃なら倍返しできます)
夜。執務室。暖炉の火が消えかけ、部屋は薄暗い。
人影は二つ。影が長く伸び、壁で交差している。
アーロンが机に手をつき、視線を落としている。いつも完璧に整えられた金髪が、少し乱れている。
見たくなかった姿だ。
「……エリス」
掠れた声。喉が渇いているような音。
「俺は間違えたか」
空気が止まる。雨だれが落ちる音だけが聞こえる。
「もっと時間をかけるべきだったか。妥協をして、根回しをして——」
その背中が、やけに小さく見えた。
私の頭の中で鳴り響いていた騒音が、ふっと消えた。
ツッコミも、計算も、皮肉も。全てが静まり返る。
残ったのは、透明な感情だけ。
(ああ、そうか。この人は、鋼鉄の英雄なんかじゃない)
「……あなたは、止まらないだけです」
口から、言葉がこぼれ落ちた。
アーロンが顔を上げる。目の下に隈がある。
「止まらない?」
「はい」
私は一歩、彼に近づく。床板が軋む。
「あなたは前しか見えない。止まることを知らない。だから——」
(なに言ってるんだろう、私。でも、もう止められない)
「後ろを確認するのは、私の仕事です」
アーロンの琥珀色の瞳が、私を見つめる。暖炉の残り火が、その瞳の中で揺れている。
「間違えてはいません。」
一拍。
「一人で背負いすぎです。」
彼が何かを言いかける。
遮る。
「共同責任です」
喉が一瞬だけ詰まる。
「誰が——」
(止まれない)
「誰が、私を必要としてくれるんですか」
沈黙。
「……あなたが、倒れたら」
言葉が詰まる。
「困ります」
やがて、彼の口元が、わずかに緩む。
「……厳しいな」
「整理官です。乱れは嫌いです」
私は隠しておいた資料を取り上げる。
「第三案を用意しています」
「……いつの間に」
「最悪を前提に考えるのが職務です」
(あなたが『俺が責任を取る』と言い出すこと、予測済みです)
「王室儀典費の追加流用。特権税の徴収前倒し。商業ギルドからの前払い協力金増額」
「それで、足りるのか」
「綱渡りです。」
一拍。
「……落ちたら、終わりです」
私は彼を見る。
「あなたが一人で頭を下げるのは、許しません」
彼が、笑う。
「勝てないな」
「勝ち負けではありません」
「頼む。背中を預ける」
心拍数が跳ねる。
「承知しました、アーロン」
初めて、名前で呼んだ。
彼の目が、揺れる。
「……ああ」
その声は、優しかった。
夜明け。雲の隙間から、光が差す。
「行くぞ、エリス」
「はい、アーロン」
彼が走る。
私は、後ろを見る。
二つの足音が、朝の廊下に力強く響いた。
(あなたを、嘘つきにはさせません)




