第6話「嵐の前の静寂」
最終修正案の作成は、佳境に入っていた。
深夜二時。政務院・整理局執務室。
周囲のデスクは闇に沈み、私の手元のランプだけが小さな光の島を作っている。書類の山が要塞のように積み上がり、インクと羊皮紙の匂いが充満している。
(あと十ページ。でも、これで本当に終わるんでしょうか。嫌な予感しかしません)
窓の外は真っ暗だ。王都の灯りはほとんど消え、月明かりだけが石畳を照らしている。
静かすぎる。
「エリス」
不意に、背後から声がかかる。
振り向くと、アーロンが立っていた。両手にマグカップを二つ。湯気が立ち上っている。
「……統括官。まだ帰っていなかったんですか」
「お前もな」
彼が私の机に、カップを一つ置く。
王立薬草院特製の覚醒茶。苦い香りが鼻をつく。
「少し休め」
「時間がありません」
「効率が落ちている」
(正論です。悔しいですが、手が震えています。疲労か、それとも——)
私はカップを受け取る。温かい。手が冷えていたことに、今気づいた。
一口飲む。苦い。でも、頭がはっきりする。
「……ありがとうございます」
アーロンが隣の椅子を引き寄せ、座る。
(近い。でも、今夜は距離が気になりません。それより——)
二人で窓の外を見る。王都の夜景。ほとんどの建物は暗いが、王城の一角だけが明るい。
「……静かですね」
「ああ」
「静かすぎます」
(嵐の前の静けさ、という言葉が頭から離れません)
「お前は心配性だな」
「心配性で生き延びてきました」
私はカップを両手で包む。
「数字は嘘をつきませんが、現実は数字通りにはいきません」
「……俺は逆だ」
彼が窓ガラスに映る自分を見つめる。
「変えたかった。全部壊して、作り変えたかった」
その横顔に、いつもの強さと——今夜は、わずかな影が見える。
(あなたも、感じているんですね。この違和感を)
「……あなたは前しか見えませんから」
「悪いか」
「いいえ。後ろは私が見ますから」
自然と口から出た言葉。
彼がこちらを見る。琥珀色の瞳に、ランプの炎が揺れている。
「明日、失敗したら……」
アーロンの声が低くなる。
「お前を巻き込んだことを後悔する」
(また、それですか。でも——今夜は、その言葉が重く響きます)
私はカップを置いた。カチャリ、と硬い音が響く。
「後悔するなら、最初から私を使わないでください」
私は椅子を回転させ、彼と正対する。膝が触れる距離。
「私は、あなたに巻き込まれたのではありません。自分で選んで、ここに立っています」
距離が近い。呼吸が聞こえそうなほど近い。
「私は、あなたと失敗する方が——」
喉が、詰まる。
「一人で成功するよりマシです」
言ってしまった。
(この言葉、もしかして呪いになるんじゃないでしょうか。本当に失敗したら——)
アーロンが私を見つめる。その瞳が、優しく細められる。
「嘘つきだな」
彼の手が伸びる。
私の髪に少しだけ触れ——すぐに手を引いた。
温かい手。でも、わずかに震えている。
(あなたも、怖いんですね)
「朝まで、あと少しだ。頼むぞ、右腕」
「……はい」
彼が自分の机に戻る。
私も自分の席に戻り、ペンを取る。
夜明けまで、二人は並んで作業を続けた。
言葉は少なかった。
孤独ではない。
——だが、安心もしていない。
ゴーン。
遠くで、王城の鐘がひとつ鳴った。
アーロンのペン先が、一瞬だけ止まる。
インクが、紙に滲む。
私は何も聞かなかった。聞けなかった。
(明日、何かが起きる)
予感が、背筋を走る。
窓の外で、王城の灯りが一つ消えた。
また一つ。
静かに、夜が明けていく。
私はペンを走らせる。
触れられた場所が、まだ熱い。
(……覚悟は、できています。たぶん)




