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王の右腕は止まらない ~無表情整理官の心拍数は常に限界です~  作者: そらのことのは


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第4話「議会炎上(後編)」

 二日目の議会。


 前日の熱気が嘘のように、議場は静まり返っていた。


 嵐の前の静けさ。誰もがそれを理解している。


 私は書記官席で、手元の資料を最終確認する。

『商業税制変遷表および緊急時補填スキーム』。昨夜、念のため作成した切り札。



(使わずに済みますように。でも無理でしょうね。

ダルトン卿の笑顔が、獲物を狙う老狸そのものですから。毛玉でも吐いてください)


「アーロン・バルゼン政務統括官、入場」


 扉が開く。彼の足音が、やけに大きく響く。


(気負いすぎです。肩の力を抜いてください。私という保険がありますから)


「昨日の続きから始める」


 アーロンの声。いつもと変わらない——ように聞こえる。


 でも私には分かる。声の最後が0.1秒短い。緊張している。


(あなたの声のトーン変化、全部記憶していますよ。業務外の知識ですけど)


「商業税の段階的減税について、詳細を——」


「統括官」


 ゆっくりと、ダルトン卿が立ち上がった。


 商業派の重鎮。絹の衣服が擦れる音まで計算されていそうな、老獪な男だ。


(来ましたね。本日のメインディッシュ。狸鍋の時間です)


 議場の空気が、一変した。


「商人への減税、魅力的な話だ」


 ダルトン卿の声は穏やかだ。だが、その目は笑っていない。


「だが——それが『絵に描いた餅』でない保証は?」


(お約束の定型文。餅がお好きなら、レシピごと差し上げますよ)


「財源確保に失敗した場合、そのしわ寄せはどこへ行く?

まさか、我々商人に『やっぱり無理でした』とは言わないだろうな?」


 議場がざわつく。


 完璧な二段構えの罠。財源を問われて精神論なら『現実逃避』、具体案がなければ『準備不足』。


 アーロンの視線が、0.1秒だけ揺れた。演台を掴む手に、わずかに力が入る。


(だめ。その顔は『俺が責任を取る』って精神論で特攻する顔です。

商人が欲しいのは男気じゃありません。担保です。数字です。私の出番です)



 私の手が動いた。


 資料の山から一枚を抜き出す。まだインクの匂いが残っている。


 音もなく立ち上がり、アーロンの横へ。私の影が、彼の影に重なる。


「統括官」


 小声で呼びかけ、資料を差し出す。


「補足資料です」


 彼が受け取る。指先が触れる。熱い。


(……そんなに熱くなるまで、一人で抱え込んでいたんですか)


 一瞥。理解。即転換。


「ダルトン卿、良い質問だ」


 アーロンの声のトーンが変わった。確信に満ちた響き。


(素晴らしい。私の作った武器を、躊躇なく振るいますね)


「この表を見てほしい」


 資料が配られる。羊皮紙が擦れる音が、波のように広がる。


(さあ、私の子たち。全力で刺さってきなさい)


「過去十年、商業税増税のたびに廃業率は二割増加している。これは国家の損失だ」


 ダルトン卿が資料に目を落とす。


(計算してください。何度計算しても、損はしないはずです)


「そして——」


 アーロンがページをめくる。


「財源不足時の補填スキームも、ここに用意してある」


「王室儀典費の一時流用。特権税の前倒し徴収。そして——商業ギルドとの『協力金制度』」


「協力金?」


「将来の減税分を、今、一時金として受け取る選択肢だ。国家が正式な契約書を発行する」


 議場が、静まり返る。


 ダルトン卿が長考する。髭を撫でる仕草。


(ここです。ここで決まります)


「……つまり、減税の確約を今得るか、五年後の不確実な減税を待つか、どちらを選ぶかと?」


「そうだ」


 間。


 やがて、ダルトン卿の口元がわずかに緩んだ。


「面白い取引だ」


(落ちました。狸狩り、完了です)


「ギルドに諮るが——恐らく、賛成するだろう」


 議場がどよめく。


「採決を行う!」


「税制改革案に賛成の方は、挙手を!」


 手が上がる。波が広がる。


「賛成多数!税制改革案、第一次審議通過!」


 木槌が響く。


(終わった。第一関門、突破です)



 散会後の廊下。夕日が長く伸び、私たちの影法師を作る。


「……助かった」


 背中越しの声。


「あの資料がなければ、押し切られていた」


 心臓が跳ねる。


(その一言で、三週間の疲労が消えました。不公平です)


「職務です」


 声が、少しだけ震えた。


 数歩進み、彼が止まる。


「お前がいなければ、俺は潰れていた」


 振り向いた瞳に、ほんの僅かな疲労。夕日が彼の横顔を照らし、陰影を深くする。


 左足の着地が0.3秒遅い。右肩が2ミリ下がっている。


(……見せないでください。そんな、無防備な顔)


 いつもは鋼鉄の鎧を着ている男が、今だけ、武装解除している。


 私にだけ。


「……それでも職務です」


 わずかな揺れ。


「嘘つきだな」


 小さな笑み。それはすぐに消え、彼はまた前を向く。


(嘘つきは、あなたです。平気な顔をして、本当はギリギリだったくせに)


 追及しない。それが救いで、同時に残酷だ。


 執務室。窓の外は既に夜の帳が下りている。


 伝令が蒼白で待っていた。泥にまみれたブーツが、事態の切迫さを物語る。


「北部穀倉地帯で、大規模な不作が確認されました!」


 沈黙。時計の音が止まったような錯覚。


 私は計算を走らせる。脳内で数字が回転する。


 農民税据え置き——絶対条件。 不作による減収——避けられない現実。

 救済費用の計上——人道的義務。 商業減税の財源——消滅。


 ……不足。


 数字は容赦がない。インクの黒さが、絶望の色に見える。


(嘘でしょう?)


 何度計算しても、答えは同じ。真っ赤な、絶望的な赤字。


 前提が崩れる。私が積み上げた計算式が、ガラガラと音を立てて崩れていく。


 アーロンが私を見る。ほんの一瞬の迷い。琥珀色の瞳が、揺れる灯火のように不安定だ。


(また、一人で背負う気ですね)


「詳細な報告書を」


「こちらに」


 伝令が羊皮紙を差し出す。


 アーロンがそれを開く。読む。顔色が変わる。


「……予想収穫量、前年比四割減」


 私の手が、微かに震える。


「統括官」


「分かっている」


 彼は窓の外を見る。


「これで、改革案の前提が崩れた」


「はい」


「議会は、俺を嘘つきと呼ぶだろう」


「……はい」


 沈黙。


 やがて、彼が言った。


「最悪ケースで試算してくれ」


「承知しました」


 私は新しい紙を取り出す。


(あなたを、嘘つきにはさせません)


 心拍数が上がる。


(絶対に)

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