第1話「強行突破」
王国を半分敵に回す法案が、私の机に叩きつけられた。
なお、その半分には私も含まれている。
王立政務院第三会議室。
午後の陽光が、分厚いステンドグラスを通して虹色に床を染めている。
重厚なオーク材の机は書類の山で要塞と化し、
壁一面の法令集が百年分の重みで部屋の空気を圧迫していた。
「税制改革案、今出す」
厚手の羊皮紙が、書類の山の上で鈍い音を立てる。
表紙には殴り書きのような筆跡で『試案第七号(仮)』と記されていた。
王の右腕、政務統括官アーロン・バルゼンは迷いなく言った。
金髪を窓からの光が照らし、琥珀色の瞳が獲物を狙う猛獣のように細められている。
(今? 今と言いましたか? この"仮"の二文字が躍る紙束を?
完成度三割で戦場に出るとか、命がいくつあっても足りませんよ? 主に私の)
私は顔を上げる。インクの匂いと羊皮紙の乾いた匂いが鼻をつく。無表情は鉄壁だ。
「準備には最低三日必要です」
「ない」
即答。彼の背後の世界地図には無数のピンが刺さり、改革予定地を示している。
「三大公爵家が減税凍結に動いている。来季まで待てば王国が詰む」
(詰むのは財政だけではありません。議会が燃えます。
あなたが火種で、私は延焼防止壁です。頼むから一人で爆発しないでください)
廊下の向こうから、慌ただしい足音が石床を叩く音が近づいてくる。
革靴の硬質な音が、焦りを煽る。
「統括官! 公爵派が連名で反対声明を——」
扉を開け放った書記官の顔は蒼白だった。
「想定内だ」
アーロンは振り向きもしない。手元の地図に、新たなピンを刺している。
(想定内? あなたの脳内ではでしょう。私は今、胃の辺りが想定外です)
彼が私を見る。午後の光を受けて、その瞳が一層鋭さを増す。
「修正できるか」
できるか、ではない。やるか、だ。
「徹夜すれば」
「頼む」
(出た。万能呪文『頼む』。その一言で部下の睡眠と寿命を徴税するの、本当にやめてほしい)
それでも私は資料を引き寄せる。紙の冷たい感触が指先に伝わる。
止まらない人を止めるのではない。 止まらないまま、壊れないようにする。
それが、私の仕事だ。
深夜。政務院・整理局。
周囲のデスクは闇に沈み、私の手元のランプだけが小さな光の島を作っている。
インクの匂いと古紙の乾いた匂いが混ざり合う静寂な空間。
机の上に並ぶ条文と数字。 他人にはただの紙束。 私には設計図。
(ここ、甘い)
第十二条。『適正』という曖昧語。
曖昧語は敵の餌だ。議会の古狸たちは、こういう隙間を見つけては牙を突き立ててくる。
私は赤ペンを走らせる。ペン先が紙を擦る音が、静寂な部屋に響く。
『適正な課税』 → 『過去三年平均収益の百分の二十を上限とする課税』
一文字で国は傾く。 一つの数字で議会は黙る。
(これで公爵派は突けない)
条文の語尾を一つ変える。接続詞を入れ替える。例外規定を逆算で設計する。
窓から吹き込む夜風が、ランプの炎を揺らすたび、影が紙面の上を波のように滑っていく。
その波の上を、私は赤と黒の線で埋めていく。
(あなたは突破口を作る人。私は、その穴を鉄で塞ぐ人)
資料が積み上がる。ランプの油が減り、芯が小さく爆ぜる音。
疲労より先に、満足感が来る。
美しい。
論理が噛み合った瞬間、数字の羅列が完璧なパズルとなって組み上がる快感。
私は少しだけ笑いそうになる。
(完璧だ。これなら、あなたは刺されない)
ふと、窓ガラスに映る影に気づいた。
アーロンが立っていた。いつ入ってきたのか、足音もさせずに。
「まだ帰らないのですか」
「帰る理由がない」
彼は窓の外を見ている。王都の夜景は眠りについているが、王城の一角だけが明るい。
そして、少しだけ低く。
「……失敗すれば、王の信用も失う」
内心のツッコミが、止まる。夜風が窓を揺らす音だけが聞こえる。
(それを、あなた一人で背負うつもりですか)
「失敗しません」
声が思ったより強く出た。静寂な部屋に、私の声が反響する。
彼がこちらを見る。
「お前はいつも冷静だな」
「恐怖はあります」
口が勝手に動く。
「ですが、恐怖は計算できます」
沈黙。ランプの炎が揺れ、二人の影が壁で重なる。
彼が小さく息を吐く。
「それでいい」
(ずるい。そうやって安心した顔をするの、ずるい)
朝。鳥のさえずりが窓の外から聞こえてくる。
「修正統合案です」
分厚いファイルを机に置く。重みのある音がした。
「議会で戦えます。勝つかは別ですが、少なくとも即死はしません」
アーロンがページをめくる。紙をめくる音だけが、朝の執務室に響く。
「……ここ、例外規定を逆算したな」
気づいた。彼の指が、その一行で止まっている。
私は一瞬だけ視線を逸らす。窓の外の木立に止まった小鳥が、ちち、と鳴いた。
「当然です」
(気づくな。さらっと流してください)
彼が小さく笑う。朝日が彼の金髪を透かしている。
「お前のこういうところが好きだ」
沈黙。時計の秒針の音だけがうるさい。
(は?)
「……有能だという意味だ」
(今、余計な補足をしましたね。動揺しましたね)
「いいな。これでいく」
短い決断。
そして。
「エリス」
「はい」
「俺は止まらない」
知っている。彼は窓の外、議事堂のある方角を見据えている。
「俺が止まれば、王が矢面に立つ」
声は静かだ。だが、その背中は張り詰めている。
「だから止まらない」
(本当に、損な役回りばかり引き受ける人だ)
「だが——」
一拍。
「お前がいなければ、俺は潰れている」
心臓が跳ねる。嫌な跳ね方だ。業務外の跳ね方だ。
「王の右腕は俺だ」
視線が絡む。琥珀色の瞳に、私の無表情な顔が映っている。
「だが、俺の右腕はお前だ」
(それ、比喩ですよね? 比喩だと言ってください。
本気で言ってるなら困ります。非常に困ります)
「……職務です」
声がわずかに揺れる。
彼が一歩近づく。革の匂いと、微かな香水の匂い。距離が、近い。
「それだけか」
(詰めるのやめてください。理性が労働基準法違反を起こします)
逃げるべきだ。氷の整理官であるべきだ。
それでも。
「……あなたが倒れたら、政務は回りません」
言ってしまった。
彼の瞳が、初めて迷うように揺れた。
「……そうか」
それ以上は何も言わない。
でも、分かってしまった。
止まらない人の隣は、危険だ。振り回される。寝不足になる。寿命も縮む。
それでも。
無表情のまま、私は彼の隣に立つ。窓の外では、新しい一日が始まろうとしている。
本当に厄介な上司だ。
そして最悪なことに——
嫌いになれない。……本当に、最悪だ。




