第八話 はじめての外庭
「今日は、お庭を歩いてみませんか?」
クラリスさんがそう提案してくれたのは、朝の紅茶を飲み終わったあとだった。
窓の外は雲ひとつなく晴れていて、やわらかい陽射しが差し込んでいた。
わたしは思わず、窓のほうを見た。
庭――
昨日、部屋に案内されたとき、窓から遠くに見えたあの広い緑の場所だ。
あのときは遠すぎて実感がなかったけど、今こうして「行ってみましょう」と言われると、急に胸がそわそわしてくる。
「……行ってもいいの?」
「もちろんです。お嬢様が歩きたいと思ったら、いつでもお連れしますよ」
クラリスさんの言葉に、こくりとうなずいた。
わたしはまだ、この世界のことを知らない。
だから――歩いてみたいと思った。
あの光の中に、わたしの知らない何かがある気がして。
*
日なたの匂いって、こういうものなんだ。
石畳を抜けて、庭に出たとき、最初に感じたのはそれだった。
土と草のにおい、太陽であたためられた空気。
草の間を風がすり抜けるたび、わたしのスカートがふわりと揺れる。
足元の小道には、小さな白い花が咲いていた。
「このお庭は、ご主人様……おとうさまが奥様のために造られたものなんですよ」
「かあさまの……?」
「はい。お花が好きな方でね。季節ごとに違う色の花が咲くように、庭師さんたちが工夫なさっているんです」
クラリスさんが微笑む。
わたしは、小さな白い花にそっと手を伸ばしてみた。
冷たくない。ふわふわしていて、少しだけくすぐったい。
「これは“すずな”といいます。控えめだけど、春先に真っ先に咲くんですよ」
「すずな……」
はじめて聞く名前だった。でも、なんだかその響きが好きだった。
庭には、低い柵に囲まれた花壇と、その奥に大きな木が一本そびえていた。
葉っぱの間から、鳥が飛び立つのが見えた。風に揺れる葉音がさらさらと心地よい。
「……すごいね」
「ええ、広いでしょう。あちらには池もありますし、バラのアーチもあるんですよ。もっと暖かくなったら、ピクニックにも出かけましょうね」
“ピクニック”。
本で読んだことはある。けれど、自分がするなんて、思ってもみなかった。
目の前にあるこの景色すべてが、夢の中みたいだった。
手を伸ばせば届く。でも、触れてもいいのか、わからなくなる。
「……ねぇ、クラリスさん」
「はい?」
「手、つないでくれる……?」
声に出すのは、少し勇気がいった。
だけど、わたしのお願いに、クラリスさんは驚いたように目を見開いて、それからにっこりと笑った。
「もちろんです」
そう言って、やわらかく手を取ってくれた。
手はあたたかくて、でも汗ばんでいなくて、ぴたりとわたしの手に合った。
ぎゅっとつかまれることはあっても、こうやって“つながれる”のは、初めてだった。
花の間を歩きながら、風にスカートがそよぐ。
時折、クラリスさんが「この花はね」「この石は昔からここにあるんですよ」と話してくれる。
そのたびに、知らなかった世界がひとつずつ、色を持って心に広がっていく。
こんな場所が、あったんだ。
こんな時間が、あるんだ。
そして、わたしにも――それを感じていい“権利”があるんだ。
池のそばに来たとき、小さなカエルがぴょんと跳ねた。
びっくりして飛びのいたわたしを見て、クラリスさんがくすっと笑った。
「カエルさんは、あちらが驚いてるかもしれませんね」
「……カエル、ほんもの、はじめて見た」
「そうですか。ではこれも、今日の“はじめて”ですね」
そう言われて、ふっと笑った。
今日の“はじめて”。
きっと、この先も、こうやって“知らなかったこと”に触れながら生きていくんだ。
そう思えたことが、うれしかった。
帰り道、もう一度花壇の前を通った。
今朝より、陽が少し傾いていた。
光が斜めになって、花びらに影を落としている。
なんだかその姿が――生きているみたいに思えた。
わたしも、生きている。
ちゃんと、地に足をつけて、ここにいる。
「ありがとう、クラリスさん」
「こちらこそ。お嬢様とご一緒できて、嬉しかったです」
また一つ、“好き”なものが増えた。
外の風。花の匂い。草の感触。つないだ手のあたたかさ。
ぜんぶ、ぜんぶ、わたしの“はじめて”。




