第七話 はじめての絵本
朝ごはんのあと、今日は特別な予定もなかったらしく、クラリスさんが「少しお部屋で休まれますか?」と声をかけてくれた。
わたしはこくんと頷いて、自分の部屋に戻った。
“自分の部屋”。
まだその響きが、胸の奥をふるわせる。
昨日、一晩この部屋で眠った。ふわふわの毛布に包まれて、ぬいぐるみを抱いたまま、目を閉じた。
あたたかくて、静かで――目を覚ましたとき、「怖い夢を見なかった」のが、何よりの驚きだった。
今日はその部屋の中を、少しだけ探検してみようと思った。
壁の本棚には、色とりどりの本が並んでいた。
大人が読むような厚い本もあったけれど、その中に、絵のついた薄い本が何冊か並んでいた。
絵本。
ページの隙間から、やわらかな色彩がのぞいている。
ひとつ手を伸ばして、白い装丁の絵本を取り出してみた。
表紙には、丸くてふわふわのウサギが描かれていた。背景は草原で、まわりには花や蝶々、青い空。
――こんなに、やさしい絵、見たことない。
わたしはそっと表紙をなでて、ベッドの上に座って、ページをめくった。
*
主人公は、名前のない小さなウサギだった。
一人ぼっちのウサギは、いつも花の陰に隠れて、空を見ていた。
でも、ある日。ふいに風が吹いて、花がひとつ、ウサギの頭にぽとりと落ちた。
「きみの名前は、“そよかぜ”にしよう」
ウサギは、空から聞こえた声にびっくりした。
名前をもらったウサギは、それから少しずつ変わっていく。
自分から花を見に出かけるようになり、虫たちに話しかけてみるようになり、やがて――
ページをめくるたび、胸の奥がふわっと広がっていくような感覚がした。
わたしも、あのウサギと同じだった。
名前がなかった。ずっとひとりぼっちだった。何も見ようとしなかったし、何かを求めることすらなかった。
でも――
「きみの名前は、“シャルロッテ”だ」
あの夜、あの言葉をくれた人がいた。
おとうさまが名前をくれたとき、わたしは生まれ変わったんだと思った。
あの時から、世界は変わって見えた。食べ物の味も、ぬくもりも、言葉の意味も、まるで違っていた。
そよかぜちゃんと同じ。
名前をもらって、わたしはわたしになった。
絵本の最後のページで、そよかぜちゃんは仲間たちと草原を駆けまわっていた。
「きみは、ひとりじゃない」
そんな言葉で、物語は終わっていた。
わたしは絵本をそっと閉じた。
心があたたかくて、でも少しだけ泣きたくなる。
今まで知らなかった。
本の中に、こんなにもやさしくてあたたかい世界があるなんて。
読んでいるあいだ、わたしはずっと――笑っていた。
自然と、頬が緩んでいた。
「……ありがとう、そよかぜちゃん」
ぽつりとつぶやいた声に、誰も返事はしない。
けれど、胸の奥に、たしかな何かが残っていた。
本ってすごい。
わたしは、今この瞬間、たしかに“世界とつながった”気がした。
その日の午後、クラリスさんが紅茶を持ってきてくれた。
「今日はゆったり過ごせましたか?」
「……うん。絵本、読んだ」
「まぁ、それは素敵。どの本を?」
「ウサギの子が……“そよかぜ”って名前をもらう話」
「それは、わたしのおすすめの一冊ですよ。あの子、かわいいですよね」
クラリスさんがやさしく笑う。
わたしはこくこくと頷いた。
「……この世界って、まだ知らないものがたくさんあるんだね」
「ええ。まだまだ、いっぱいありますよ。シャルロッテお嬢様の知らないもの、見たことのないもの。……これから一緒に、たくさん出会っていきましょうね」
その言葉が、どこまでも広がっていくようだった。
本のページの向こうにある世界。
自分だけの部屋。
名前。
家族。
全部、わたしの“はじめて”。
そして、きっと、まだまだ“はじめて”は増えていく。
そんな未来が、楽しみだと思った。
わたしは今日、「絵本」と出会った。
きっと、明日は――また、何かを。




