第三話 名前をくれた人
クラリスさんの言ったとおり、おとうさま――テオドール様は、午前中のうちにわたしの部屋へ来てくれた。
重たい扉がゆっくり開くと、赤い軍服をまとった彼が静かに現れた。
その姿を見た瞬間、胸の奥がきゅうっとなる。昨日、助けてくれた人。わたしを抱き上げて、あたたかい声で「もう大丈夫だ」と言ってくれた人。
でも――今はその人の前に立つのが、少しだけ怖かった。
この場所にいさせてもらえているのは、きっと一時的なこと。迷惑をかけてしまったら、すぐに追い出されるかもしれない。そう思うと、うれしいのに、涙が出そうになった。
「眠れたか?」
彼がしゃがんで、わたしの目の高さまで顔を下ろした。表情は穏やかで、目も口元もやさしかった。
こくんと、うなずく。
言葉にするのが怖かった。震える声を聞かれたら、嫌われるかもしれない。そう思って口をつぐんだまま、ただ頷くしかできなかった。
「寒くはなかったか? 朝ごはんは食べられたか?」
また、こくん。
でも――これじゃいけないって思った。わたしは、助けてもらったのに、きちんと返事もできない。
「……おかゆ、あたたかかった」
小さく言葉を絞り出すと、彼の顔がほんの少しほころんだ。
「そうか。それは良かった」
その一言が、どうしてこんなにも嬉しいんだろう。こんなに短い言葉なのに、胸の奥まで沁みてくる。
わたしは、ぎゅっと膝を抱えて、小さな声で聞いた。
「……わたし、ここに……いても、いいの……?」
彼は少し黙った。わたしをじっと見つめて、そして静かに答えた。
「君は、もう一人じゃない。ここにいていい――いや、いてほしい」
その言葉を聞いた瞬間、世界の色が変わったように感じた。
「いてほしい」なんて、誰かに言われたのは、生まれて初めてだった。
「……でも、わたし、名前も……ないの」
喉の奥が詰まって、声がかすれる。
名前。呼ばれることのなかったわたし。“それ”とか“荷物”とか、そんなふうにしか扱われなかったわたしには、“わたし自身”を示すものがなかった。
わたしをわたしとして、見てくれる人なんて、いなかった。
「名前、か……」
彼は少し考えるように視線を落とし、わたしの髪にふっと触れた。
「この髪の色、まるで陽だまりのようだ。やわらかな金色だ」
その指が、髪の房をそっとすくって撫でる。
怖くない。あたたかい。毛布のぬくもりと同じ、やさしさだった。
「“シャルロッテ”という名はどうだ?」
聞きなれない響きに、わたしは目を瞬かせた。
「シャル……ロッテ……?」
「そう。“陽だまり”や“自由”という意味もある。君にぴったりだと思った」
“陽だまり”――
その言葉が、あまりにもあたたかくて、まぶしくて、わたしの心をゆっくり溶かしていく。
「……それ、わたしの……名前?」
彼はまっすぐにうなずいた。
「そう。これからは“シャルロッテ”。君の名だ」
胸の奥に、小さな火がともるような感覚がした。
わたしは今、“名前”をもらったんだ。どこかの誰かではなく、“わたし”として呼ばれる存在になったんだ。
「……わたし……シャルロッテ……」
口に出してみたその名前は、どこか不思議で、でもとてもあたたかかった。世界が少しだけ広く、明るくなったような気がした。
「ありがとう……おとうさま」
言ってから、ハッとした。
おとうさま、と呼んでしまった。
許されないんじゃないかと思った。けれど、テオドール様は驚いたように目を見開き、それからほんの少し――今まででいちばん優しい笑顔を浮かべた。
「……ああ。シャルロッテ。ようこそ、我が家へ」
彼の両腕が、またわたしをやさしく抱きしめてくれた。
わたしは、その胸の中で静かに目を閉じた。
はじめての、名前。はじめての、“家族”。
この人が、わたしを見つけてくれた。
この人が、わたしを“わたし”にしてくれた。
この日、わたしは、ようやく生まれたのかもしれない。




