第二話 紅の屋敷、初めての朝
目を覚ましたとき、ふわふわとした何かに包まれていた。
肌に触れるのは、柔らかくて、あたたかくて……あまりにも心地よくて、最初は夢を見ているのかと思った。けれど、目を瞬かせて天井を見上げた瞬間、それが“本当のこと”だと気づいた。
白くて高い天井。金の縁取りがある、知らない部屋の天井。
壁は深紅と象牙色の織り柄が入った布張りで、窓から差し込む光はまぶしく、けれどどこかやさしかった。
「あ……」
わたしは、声を出していた。
自分の声がこんなにきれいに響く部屋なんて、初めてだった。
喉の奥がからからで少し痛むけれど、かすれずに声が出たことが、なぜかうれしかった。
起き上がろうとすると、ふわりと肩から毛布が落ちる。
わたしは反射的にそれをつかみ、胸に抱えた。柔らかくて、あたたかくて、いいにおいがする。
夢じゃないんだ、って思った。
あの人――テオドールさんに助けられて、わたしはこの場所に来た。
あのときの記憶はぼんやりしているけど、馬車から降ろされ、強くてやさしい腕で抱かれて、この屋敷に入ったことだけは、はっきりと覚えている。
扉の向こうから、コツ、コツ、と誰かの足音が近づいてきた。
びくりと肩が跳ねる。つい、布団に身を潜らせてしまう。けれど、その人の声は、とても静かで、落ち着いていて、やさしかった。
「お目覚めでしょうか?」
その声に、わたしはそっと顔を上げた。
現れたのは、淡い青のドレスを着た女の人。髪をすっきりまとめていて、腰には白いエプロン。きれいな人だと思った。けれど、それ以上に、怖くなかった。
「大丈夫ですよ。私はこの屋敷の侍女長、クラリスと申します」
クラリスさんはそう言いながら、静かにベッドのそばに膝をついた。
わたしと目の高さを合わせて、にこ、と笑う。
「お嬢様にご朝食をご用意しました。……といっても、まだ固いものは食べられませんでしょう? お粥と、やさしいスープを準備しております」
「……わたしに?」
声がかすれた。
疑うような気持ちがにじんだわけじゃない。ただ、それが信じられなかっただけ。
だって、誰かが“わたしのために”なにかをしてくれるなんて、今まで一度もなかったから。
「はい。お嬢様のために、です」
クラリスさんは、少し微笑んでくれた。
その目が、とてもやさしくて、まるで本当に、わたしを大切にしてくれているように感じられた。
「では、手を拭きましょうか。髪も少し整えて……あら、きれいな色ですね。金色のような、陽だまりのような」
そう言って、髪を指先でそっと撫でてくれた。
びくっとしたけど、痛くなかった。むしろ、くすぐったいくらいだった。
知らなかった。髪を撫でられるって、こんな感じなんだ。
ゆっくり立ち上がると、部屋の床は絨毯でふかふかしていて、足の裏が沈む。暖炉の火はまだ小さく揺れていて、空気まであたたかかった。
鏡の前に連れていかれて、椅子に座ると、クラリスさんがわたしの髪を優しく梳いてくれた。
ぬくもりに包まれながら、わたしは、ぽつりとつぶやいた。
「……ここは、どこ……?」
「アルノルト公爵家、第二の館です。今は冬季の離宮として使われております。お嬢様は、当主であるテオドール様に保護され、この館でお過ごしいただくことになりました」
アルノルト、という名前を聞いて、昨日の夜のことがまた少しだけ思い出された。
剣を持っていた。堂々としていて、でもやさしくて……わたしを抱き上げて、「泣いていい」と言ってくれた、あの人。
あの人が、わたしをここへ。
「……あの人に……また、会える?」
「もちろんですとも。朝食のあと、執務を終えたテオドール様がお見えになりますよ」
クラリスさんは、まるでそれが当然のように言ってくれた。
それだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
会えるんだ。また。
そう思っただけで、身体の芯がふわっとほどけた。
案内された食堂は広くて、壁には花の刺繍が飾られていて、窓からは雪の積もった庭が見えた。
小さな席に通され、スプーンを渡される。おそるおそる掬ったお粥は、ふわふわと湯気を立てていて、口に運ぶと――
あたたかくて、やさしい味がした。
こんなに、やさしいものが、この世にあったんだって思った。
わたしのために作られた、朝ごはん。
目の奥がまた熱くなって、でも今度は泣かなかった。
少しずつ、少しずつでいい。
わたしはきっと、この場所で、知らなかったことをたくさん知っていくんだ。
あたたかさも、やさしさも、笑い方も、名前の意味も。
この光の屋敷で、わたしの朝が、はじまった。




