第十一話 再び忍び寄る影
春の午後、庭の桜が花をつけ始め、屋敷の空気はどこか浮き立っていた。
わたしは兄たちと一緒に、芝生の上で小さなバドミントンのような遊びをしていた。
ジャンが羽根を打ち返して、ミシェルがそれを華麗に拾う。その隣でシリルが転びかけて、ギュスターヴに軽く小突かれていた。
みんなが笑っていて、わたしも笑っていた。
それは、ごくあたりまえの、平和な光景だった。
――けれど、その日の夕方。
何かが、すこしだけ狂いはじめた。
夕飯前、クラリスさんが落ち着いた様子でわたしの部屋にやってきた。
「お嬢様、今夜はお部屋から出ないようにお願いいたします」
「……どうしたの?」
「屋敷の外で、不審な動きがあったようなのです。お嬢様に直接関わるものではないかもしれませんが、念のため」
“不審な動き”。
わたしは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
いやな、感覚だった。
理由のない寒気が、肩から背中へとかけ上がってくる。
その夜、廊下の空気が違った。
侍女たちの動きも速く、廊下の窓はすべて閉められていた。
窓の外には、騎士団の人たちが見回りをしている姿がちらちらと見える。
おとうさまは屋敷の奥で、護衛たちと話し込んでいた。
「テオドール様、これが実際に“あの一味”であるとすれば、さすがに見逃せません」
「……あの一味?」
聞こえた声に、わたしの心臓が強く跳ねた。
その言葉、知ってる。
聞き覚えがある。
“人を売るやつら”。
かつて、わたしがいた場所。
名前のない子どもたちが詰め込まれ、運ばれ、どこかへ消えていった場所。
わたしは気づかないふりをしていた。
家族の中での幸福な時間を、穏やかな暮らしを、まるで前からそこにいたみたいに過ごしていた。
でも、本当は――わかっていた。
あの過去は、何も終わってなどいなかった。
わたしがここにいるということは、“あの人たち”にとっては“逃げた商品”でしかない。
クラリスさんがそっと部屋に戻ってきた。
「お嬢様、ご安心を。ご主人様もお兄様方も、すぐに動いてくださいます」
「……クラリスさん、あの人たち……ここに来るの?」
わたしの問いに、クラリスさんの表情がわずかに固まった。
「……可能性は、否定できません」
「……そっか」
わたしは、膝の上に手を置いた。
怖い。怖いよ。
でも、それよりも――
「みんなに、迷惑をかけたくない」
そう思ってしまう自分が、また悲しかった。
その夜、わたしは夢を見た。
暗い荷台。揺れる車輪。大人の怒鳴り声。誰も名前を呼んでくれなかったあの世界。
その中にいる自分を、今のわたしが必死で抱きしめようとしていた。
“だいじょうぶ”
“ここにいていい”
何度も繰り返しているのに、小さなわたしは震えながら遠ざかっていく。
目が覚めたとき、顔が濡れていた。
それでも、わたしは泣かずに起き上がった。
もう、逃げない。
今のわたしには――守りたい人たちがいる。
そして、守ってくれる人たちもいる。
朝、扉をノックする音がして、扉の外からおとうさまの声がした。
「シャルロッテ。少し、話そうか」
その声は、昨日より少しだけ硬かった。
でも、確かに“わたしの父”の声だった。
“闇”が近づいている。
けれど、それを越えるための“光”も、今ここにある。




