第一話 夜の底で、わたしは
息が白い。
でも、あたたかくなんてない。その白さが、今の寒さを嫌というほど教えてくる。
ごとん、ごとんと馬車の車輪が石畳を叩くたび、床がぎしぎしと鳴る。わたしは板張りの床に小さく身体を丸め、できるだけ息を潜めていた。
毛布はない。背中に敷いているのは、古びた麻袋だけ。
指先は氷みたいに冷たくて、もう動かすことすらできなかった。身体はこわばって、重たくて、痛くて……だけど、もうそれすらも感じなくなってきていた。
どれだけ眠っていたのか。それとも、眠ってすらいなかったのか。
空腹はとっくに慣れている。けれど今日は、胃の底がじくじくと焼けるように痛む。そういえば昨日は何も食べていなかった。その前の日も、もらったパンはもっと小さな子に分けたっけ。
目を開けると、見えるのは幌の裏。汚れた布の内側、煤けた木の枠、かすかな光を通す小さな穴。そこから漏れる月明かりだけが、今夜も“夜”を知らせていた。
名前は――ない。
思い出せない、というよりは、最初からなかったのかもしれない。
あの人たちはわたしを呼ばない。「おい」とか「それ」とか、「荷物」としか言わなかった。だから、わたしは“それ”だった。
わたしは、物。
ここに乗せられているのは、客じゃない。売られる側。言葉も持たず、声も出さず、ただ運ばれていく“商品”。
いつからこうだったのかは分からない。
でも、世界はずっと暗くて、冷たくて、声も届かなくて、どこにも希望なんてなかった。
だから、わたしは考えるのをやめた。寒さも、痛みも、空腹も、感じてしまえば壊れてしまう。何も思わなければ、心はまだ保てる。
そう信じて、ずっと目を閉じていた。
そのときだった。
「なっ……襲撃か!?」「馬車を囲め!」
外から、男たちの怒鳴り声が聞こえた。
馬のいななき、刃がぶつかるような音、誰かの悲鳴。何かが倒れる音がして、馬車がぐらりと傾く。
わたしは息を止めた。目をぎゅっと閉じて、気配を殺す。
怖かった。でも、それ以上に、何かが変わる気がした。
いつもと、違う。
馬車の扉が、音を立てて開いた。
白い息が吸い込まれ、冷気が舞い込む。
そして、そこに――人影があった。
赤い軍服。金の刺繍。黒く光る長靴。真剣な目。鋭い輪郭。
そして、その人はわたしを見た。
暗闇の中でもはっきり分かった。わたしを、まっすぐに見ていた。
その目は、怖くなかった。鋭いのに、やさしかった。
「……こんな小さな子まで……」
低く呟いたその人は、ゆっくりと馬車に足を踏み入れ、わたしのそばに膝をついた。
大きな手が、そっと肩に触れる。
びくりと震えた。でも、その手は、驚くほど、あたたかかった。
「大丈夫だ。もう怖くない。君は、もう自由だ」
言葉の意味が、すぐには分からなかった。
でも、声が――やさしかった。
怒鳴られなかった。罵られなかった。乱暴に掴まれもしなかった。
ただ、包むように、わたしを抱き上げてくれた。
重たかったはずなのに、その腕はぶれなかった。
肩に、胸に、腕に伝わるぬくもり。鼓動。体温。香り。
こんなにも、あたたかいものだったんだ。
涙が出た。
気づいたら、ぽろぽろと、止まらなかった。
泣き声をあげたら怒られる。そう思って、いつも我慢していたのに。
今は、止められなかった。
「……泣いていい。君は、泣いていいんだ」
その人が、そう言ってくれた。
その声が、わたしの中の、凍った何かを溶かしていった。
胸の奥が、ぐしゃぐしゃになって、壊れて、でも……温かくて、苦しくて、嬉しくて。
わたしは、声を上げて泣いた。
助けて、なんて言ったことはない。
でも、ずっと――誰かに来てほしいって、心のどこかで、願っていたのかもしれない。
その夜、わたしは“それ”じゃなくなった。
“荷物”ではなくなった。
あの人――のちに“おとうさま”と呼ぶようになる人。
帝国騎士団総隊長、公爵家の当主、テオドール=フォン=アルノルト。
けれど、わたしにとっては、そんな肩書きなんてどうでもよくて。
ただ、わたしに触れてくれた。あたたかく、やさしく。
それだけで、わたしは、生まれ変わったような気がした。
初めて、光を見た気がした。
──この日から、わたしの人生が少しずつ、動き始めたのだった。




