夢の中の彼女
私の人生には何も特別なことはなかった。大学を卒業し、平凡な会社に就職して一年。朝は満員電車に揺られ、定時までパソコンに向き合う。夜はコンビニで買った弁当を一人で食べ、スマホを眺める。そんな日々の繰り返しだった。趣味と呼べるものもなく、誰かと深く語り合うこともない。まるで、透明なフィルムに包まれたような、ぼんやりとした毎日。私は、自分の人生がこのまま、何の刺激もなく終わっていくのだと思っていた。
そんな日常に、小さな風穴を開けたのが、SNSの動画だった。寝る前にベッドで何気なくタイムラインをスクロールしていると、おすすめ動画に、陸上競技の動画が流れてきた。それはオリンピックの予選の映像で、あるハードル選手の姿が目に飛び込んできた。彼は、トップの選手に大きく遅れをとり、明らかに敗退するだろうという状況だった。それでも、彼は最後まで諦めず、たった一人で走り続けた。最後のハードルを越えた後、彼は息を切らしながら、どこか悔しそうな、でもやり切ったような顔でゴールラインを越えた。彼の名も、顔も知らなかった。けれど、そのひたむきな姿が、私の胸を強く揺さぶった。
彼の名前を調べ、SNSでアカウントを見つけると、何万人ものフォロワーがいることに驚いた。「私が知らないだけで、彼は有名な選手だったんだ」と少し驚いた。たくさんのいいねや応援コメントが並ぶ中、私はごく普通の、ありきたりな労いの言葉をDMで送った。返信なんて来るはずがない。そう頭ではわかっていた。何万ものフォロワーがいるのだから、DMの数も膨大だろう。それでも、私はスマホの画面を何度も見てしまった。淡い期待を抱きながら。
そして、数日後の夜。スマホの着信音で目が覚めた。画面を確認すると、DMに通知が来ている。一瞬、心臓が跳ね上がった。彼からのメッセージだった。
「応援のコメントありがとうございます。遅れてすみません。」
嬉しすぎて、なんて返信すればいいか迷った。ようやく
「返信いただけて嬉しいです。次の世界陸上でのご活躍を祈っています」
と送り、すると、彼はありがとうのスタンプだけ返してきた。私はここで悟った。ああ、これで終わりだ。長年SNSを続けてきた経験から、これ以上関わりたくない人や、会話を終わらせたい人はスタンプを送る、という傾向がある。だから私は、そこでメッセージを続けるのをやめることにした。幸せは一瞬で過ぎ去ってしまった。私はスマホの画面を暗くして、もう一度眠りにつこうとした。その時、再び通知音が鳴った。
「編み物されるんですね。バッグ素敵です」
突然のメッセージに、私は飛び上がるほど驚いた。もうやり取りはないだろうと思っていたのに。彼のメッセージを読み、自分の投稿を遡った。趣味と呼べるものがない私でも、唯一続いているのが編み物だった。数ヶ月前に完成した、毛糸のバッグ。その投稿に、彼は「いいね」をくれていた。そこから、私たち二人のやり取りは始まった。
それはまるで、長年の友人とのやり取りのようだった。些細な日常の出来事を、当たり前のように話し合った。それは、今まで私が誰とも交わしたことがないような、不思議な時間だった。私は、夢中になって彼とメッセージを重ねた。そして、やり取りを重ねるうちに、私はあることに気づく。彼は、現実のSNSで見せるクールな姿とは少し違った。
ある時、彼はぽつりと弱音を漏らした。
「オリンピックの時、実はすごく怖かったんだ。周りの期待に応えなきゃって思うんだけど、それがプレッシャーで…」
画面に表示された、私だけが知る彼の秘密。私は胸が締め付けられるように熱くなった。
「そんなことないです。私には、あなたの走りがどれほど素晴らしいか、言葉では言い表せないくらい感動的でした。今まで陸上に興味を持たなかった私が、あなたの走りを見て、初めて心から応援したいと思いました。それくらい、あなたの走りは私にとって特別でした。」
彼は少し間を置いてから、返信をくれた。
「そう言ってもらえるて、嬉しいです。ありがとう。」
彼の言葉は、私にとって、ただのメッセージ以上の重みを持っていた。私は、彼を支えたいと心から思った。そして、彼は続けてこう言った。
「そういえば、マフラーとかも編めるんですか?」
唐突な質問に驚きながらも、私は
「はい、簡単なものなら」
と答えた。
すると彼は、少しだけ間を置いて、こう続けた。
「じゃあ、もし世界陸上でメダルを取ったら、マフラーを作ってくれませんか? 僕、冷え性なんです。それから、あなたの投稿を見てたら、なんだかすごく興味が湧いて。そのために頑張りますので!」
私は迷うことなく
「はい」
と答えた。スマホの画面の中で笑う彼の顔が、私にはっきりと見えた気がした。
その瞬間、身体が何かに吸い込まれるような感覚に襲われた。強い浮遊感。嫌だ、そう思った。この心地よい時間を、まだ終わらせたくない。でも、その感覚は抗うことのできない力で、私を現実へと引き戻した。
目が覚めると、見慣れた自室の天井が視界に入った。ぼんやりとした頭でスマホを探し、ロック画面を解除する。SNSのDMを開くが、彼からのメッセージはどこにもない。DMのリクエスト一覧にも彼の名前はなかった。
「……なんだ、夢か」
声に出してつぶやいた。昨夜のやり取りがあまりに鮮明で、まるで実際に起こったことだと信じていた自分が馬鹿みたいだった。よく考えれば、見ず知らずの私にDMを返すなんて、都合が良すぎる話だ。夢特有の、ありえないことも「おかしい」と思えなくなる感覚。それが解けた今、私は強烈な落胆に襲われた。
それでも、夢で交わした言葉が頭から離れない。
しばらくして、世界陸上が始まった。私はバカだなと思いつつも、夢で見た彼に似合う色の毛糸を買っていた。あげられる相手もいないのに。編みかけのマフラーを手に、テレビの前で彼の応援をした。オリンピックの屈辱を晴らすかのように、彼は予選を勝ち進み、ついに決勝を迎えた。
彼の出番がやってきた。私は、テレビの前で編み針を動かした。一本、一本、彼の勝利を願うように編んでいく。スタートの合図。彼は軽やかにハードルを飛び越え、どんどん加速していく。息をのむような緊張感。そして、彼は見事、金メダルを勝ち取った。
歓喜に包まれるスタジアム。私は涙を流しながら、彼に贈るはずだったマフラーを抱きしめた。彼のインタビューが始まる。
「メダルを獲得した感想をお願いします」
というリポーターの質問に、彼は笑顔で答えた。
「不思議な夢を見まして、ある人にメダルを取ったらマフラーを作ってもらう約束をしたんですよ。ちょっとおかしいですよね。でも、なぜか不思議と頑張ろうと思えたんです」
私の心臓が大きく跳ねた。私たちは同じ夢を見ていたんだ。夢は夢でしかなかったが、その「約束」は、現実の彼の力になっていた。夢の中でのやり取りは、確かに存在したのだ。喜びと、再会の予感。胸が熱くなる。
どんなお相手ですか?とリポーターが尋ねた。
彼は少し照れたように答えた。
「実はよくわからないんです。夢も曖昧で、ただ素敵な女性だったと思いますよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は手に持っていた編みかけのマフラーを床に落とした。その乾いた音が、静かな部屋に響く。
「そうだよね、そう思うよね」
と心の中でつぶやく。淡い期待を抱いていた自分に、私は怒りと虚しさを覚えた。床に落ちたマフラーを、何度も何度も足で踏みつけた。馬鹿みたいだ。この無意味な時間を、この無意味な希望を、この無意味な努力を、私はどうすればいいのだろう。その夜、私はただ、床に座り込み、マフラーを抱きしめて、声を殺して泣いた。改めて自分を憎んだ。
だって、私は男だから。
この物語は、実際にパリオリンピックを見て、ある選手の虜になったことから生まれました。もし、自分が応援している選手と、夢の中で繋がることができたら、どんな物語になるだろう、と。誰が誰を好きになっても、その気持ちは美しいと思います。けれど、相手にも好みがある。自分の思いを押し付けることはできない。これは、主人公だけでなく、ある意味、陸上選手の彼もまた、知らずに失恋をしている、二つの恋の物語なのです。