外伝 2話 埋まらない距離 ~バカまで~
その、一秒にも満たない差に気付いたのはいつだったろうか。
例えば、婆さんが道に迷っていたとき。
例えば、電車の席を譲るとき。
例えば、横断歩道にトラックが突っ込んできたとき。
俺たち兄弟は必ず誰かを助けようと行動した。
結局、最後に誰かを助けるのはいつも俺だったが。
アイツはいつだって失敗していた。
……ただ、いつだってアイツは少しだけ『早かった』。
古い地図を見ながら首を傾げる婆さんへと、一瞬だけ先に指さした。
きっと困っている顔だけは分かるのだろう。
目の前で妊婦が立っていると分かると、アイツはすでに口を開いていた。
何を言えば良いかも分からずに、何かを言わなきゃと口を開く。
子供へと迫るトラックに気が付いて、俺が駆け出せば――すでに一歩先へと踏み出していた。
もっとも、アイツは地図なんて読めなかった。
無駄に傾いた首が二倍に増えただけだ。
電車では口を開いたものの、台詞を噛みに噛んで聞き返されていた。
困惑した妊婦の「……は?」という顔はそれなりに面白かった。
挙句の果てには子供を助けようとして転びやがった。
子供と一緒に俺が腕を掴んでやらなければ、ヘッドスライディングでトラックに飛び込み自殺をした珍しい例だったと思う。
バカバカしい。
何故、こんな簡単なことができないのか。
――だけど、その差だけは埋まらなかった。
――どれほど素早く判断を下しても、アイツはすでに動いていたのだ。
相手をどのように助けるか、計算している時間だけ、例外なく出遅れた。
……いや、正確じゃないな。それは動いてから考えれば良いのだから。
正確には、助けるかどうかを見極めている時間の差だ。
俺が他人の価値を勘定する、その傲慢な一瞬の分だけアイツは早かった。
直後には取り返している差だ。
実際、結果的に誰かを助けているのは俺だった。
だが、これは結果の問題ではなく……目的の問題だ。
『誰を助けたか』は良い。
アイツは可能なら誰でも助けるのだから。誰が助かっても良いのだ。
『誰が助けたか』も良いだろう。
アイツが欲しい結果は『助かった』という事実だけだった。
きっと、俺が助けてもアイツの求める結果に違いはない。
……だから不満もない。
失敗した後に「良かった」と腑抜けて笑うのだ。
心底から「余計だったかな」と、その善良さの価値も知らずに笑うのだ。
劣等感に苛まれながら、内心で唇を噛み締めて、エゴの塊のような俺を見て「兄さんはすごいね」とその優しさをぐちゃぐちゃに歪めて笑うのだ。
俺とアイツは、いつもそうやって一緒に笑い合った。
助けてくれてありがとう、と。助けられて良かった、と。
しかし――『何のための一歩なのか』がそもそも違うのであれば。
求める結果が同じでも、同じことをしているとは言えないのではないか。
アイツは『尊いことをしようとして失敗』し、俺は『卑しいことをしようとして成功』しているだけではないだろうか。
……事実、俺は『誰かのために』誰かを助けたことはなかった。
……いつだって『自分のために』誰かを助けてきたのだ。
別のパターンで考えてみれば分かりやすいかもしれない。
例えば――正反対。殺す場合はどうかな。延長線上で考えてみよう。
俺は『自分のために』誰かを殺すだろう……いや、殺してきた。
だが、アイツは『誰かのために』自分を殺すだろう。
ああ、違うな。こんなにも違うのか。この二つは別物だ。
奇跡的に『誰かを助けた』という結果が一致しただけに過ぎない。
この二つには優劣も善悪もありはしない。
ただ、違うだけだ。何もかもが異なるだけだ。
だけど、もしも――その差が埋まるなら。
損得勘定よりも先に『誰かのための一歩』を踏み出すことがあったなら。
俺は何を思うのだろうか。
その無意味な仮定に小さく笑った。
後先を考えず、誰かのために動く?
駄目だ。俺がそんなバカな真似をする姿は想像すら出来ない。
――その距離はあまりにも遠すぎて。
――俺の場所からは、どんなに目を凝らしても幻すら見えなかった。
燃え盛る家の中、俺はアイツを待っていた。
誘い出すのは簡単だ。玄関の扉を開けておけば良い。
見せるだけで良いのだ。
アイツは誰よりも早く踏み込んでくるだろう。
おそらく何も考えずに突っ込んでくる。
愚かな夏の虫のようなものだ。
……この差はきっと埋まらない。
どうやら俺は、それが我慢ならないらしい。
だから、俺のためにアイツを殺すのだ。
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