伝説の伝道師~ムジュラにおけるリンクのロマンス~
『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』をプレイした私の見解を文章化しました。ゲームを小説にしたわけではありません。ムジュラをクリアされた人向けに書きましたのでゲームを知らない方にはわかりづらいかと思います。プレイ中の人はネタばれに注意してください。
小説を書くにあたって私の頭を一番悩ますのは主人公のロマンスであると、最近つくづく感じている。実際、恋愛を語れるほどの経験も才能も乏しいと自覚しているから、ついつい私の作品に登場する主人公のロマンスは不器用なものになってしまう。
突然だが、皆さんにとって一番印象に残ったテレビゲームとは何だろうか?
それぞれに色々と思い出の作品があることだろう。私にとってのそれは、まず間違いなく『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』である。僭越ながら、いろいろな意味で私の心を最もゾクゾクさせてくれた作品は“ムジュラ”だからだ。ゼル伝シリーズはアクションRPGであるが、それは表面的なカテゴリーである。その正体はプレーヤーを考えさせる“ミステリー”なのだ。しかもその謎の答えはひとつじゃない。ムジュラの仮面が“玉虫色”をしているのと同様に、十人十色、色々な解釈ができる。逆にそれが執筆するときの発想の手助けとなってくれることもある。この場面はああじゃないか、こうじゃないかと想いをめぐらせ、議論するうちに自然と想像力が鍛えられるからだ。このゲームの魔力はコワイものがある。
いずれにせよ、私の中でムジュラが作用していることは間違いなく、絶対に風化させてはいけないゲームだ。それゆえ私はこうして“伝説の伝道師”となっているにすぎない。以下に伝説を通した私の見解を述べることにしよう。
最初の見解・・・世相を反映している。
ゲームの魅力は普遍的にあるが、ムジュラ発売当時の感動はもはや得られないのが心残りである。世の中が、変わっているからだ。ムジュラが発売された2000年といえば世紀末だった。世紀末といえば、デカダンスである。ムジュラの世界観はまさにデカダンスというにふさわしい。ただ、世紀末特有の緊張感はゲームのようには取り戻せない。また、ムジュラにはノストラダムスも秘かに関係しているのではないか。ムジュラの制作は少なくとも2000年より以前に始まっていたからだ。ノストラダムスは「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってきて・・・」と世界の破滅を大予言した話は有名である。私はオカルトめいたものが嫌いじゃないので、内心びくびくしていたことを覚えている。ムジュラの冒険の舞台は恐ろしい顔をした月が落下する前の、あと三日で終わる世界だ。初めてゲームのストーリーを知った当時はすぐに両者が結び付いた。なるほど、ノストラダムスか・・・とゾクッときたものだ。さらに、「いやし」も流行っていた頃だ。ゲーム中にも「いやしの歌」が登場し、攻略に関わってくる。私が覚えているのは女優の井川遥さんが「いやし系」女優としてテレビに出演なさっていたことだ。世間も“いやし”を求めていたのだな・・・としみじみ感じる。ちなみに、1999年の流行語大賞で「癒し」はトップテンに入賞している。
次の見解・・・メッセージは隠されている。
ゼルダシリーズの魅力は山ほどある。ストーリー、音楽、アイテム、個性的なキャラクター、謎解きなど、挙げればきりがない。しかし、最大の魅力は“プレーヤー次第で感動が変わる”ということだ。ゼル伝ファンかゼル伝ビギナーか、男性か女性か、大人か子供か、などの括りをいうのではない。確かに、そういった相対的な概念も重要だが、そこにこだわりすぎるとゼル伝はつまらないゲームになってしまうのではなかろうか。例えば、謎解きが難しくて先に進めない、暴力的だ、一人用ゲームだから・・・などのマイナスイメージがもたれやすいのはその証拠である。何を感じるかは本人の自由だが、“現実のつまらなさ”をゼルダの世界に持ち込んでは感動も何も生まれない。むしろ、あえて“リアル”をゲームの中に取り入れることで、プレーヤーにメッセージを伝えている姿勢すら見受けられる。いや、ゼル伝における本当の謎解きは、そのメッセージを紐解くことにあるのかもしれない。例えば“いじめ”の問題に対して、ゼル伝は作品ごとに微妙に違ったメッセージを用意している。そのメッセージの変遷は残念ながらシリーズを追っていかないと読み取れない。弱いものいじめをするとどうなるか?『時のオカリナ』では、ニワトリをいじめ続けていると、そのニワトリが仲間を呼んで“あなた”に報復をしに来る。悪事は何倍にもなって自分に返ってくる、ということだろうか。ムジュラでは、ストーリーそのものにメッセージが隠されてある。私には、そう思えた。中でも、私が注目したのはトレイルという妖精が突然あなたに冒険のヒントを与える場面だ。次の瞬間、ムジュラの仮面を被った小鬼、スタルキッドによってトレイルはハエを追い払うかのようなむごい仕打ちをうける。後に語られるスタルキッドの過去を考慮すると・・・このシーンは意味深になる。『風のタクト』では、ブタをいじめ続けていると仲間を呼ぶこともなく単独であなたに襲いかかってくる。そのとき流れるBGMは、魔物と戦うときと同じものになる。本当の魔物は誰だろうか。『トワイライトプリンセス』では、ニワトリをいじめ続けているとなぜか操作がニワトリに変わってしまう。やられた側の気持ちを考えよ、とのことだろうか。さらに、操作がニワトリに移っている間はニワトリ以外の時が止まっている。そのときのあなたはどんな姿をしているだろうか・・・。
ゼル伝に込められた謎は考えれば考えるほど深まっていく。それぞれに存在するテーマは明示的に押し付けてこないのでなおさらだ。一方で、作品の魅力はそれを感じられるかどうかにかかっている。上記はほんの一例にすぎないが、中でもムジュラはその傾向が強く、難解なのである。
最期の見解・・・リンクのロマンス
“愛のかたち”はいろいろとある。恋愛、夫婦愛、親子愛、兄弟愛、師弟愛、友愛(友情)など・・・。ムジュラにも様々な場面で愛が登場する。しかし、露骨な愛の表現は極力避けられているのが興味深い。特にロマンスの描写は慎重で繊細だ。エンディングを見るとわかるが、口づけのシーンでさえ恥じらうように作られている。いやいや、ハニーとダーリンという、いかにもラブラブなキャラクターが登場するのでは?と思う人もおられるだろう。確かにその通りだが、二人の愛はそれ以上進展しないようにも見える。何気ないが、彼らの行動にヒントがある。いちゃついてはいるものの、ぐるぐると同じところを回り続けていないか?“愛のメリーゴーラウンド”はお互いの距離が縮まりもせず、離れもしないから、もどかしい。ゼル伝シリーズが伝える愛は淡く、切ないのだ。
ムジュラに熱中したことがある人なら「ロマンスのイベントは?」と聞かれるとアンジュとカーフェイが必ず思い浮かぶはずだ。いやいや、そうじゃない!と熱くなりすぎないよう注意されたい。・・・それは玉虫色のムジュラの仮面の魔力だから。
では「リンクのロマンスは?」と聞かれると、どうだろう。
プレーヤーの分身“リンク”自身にロマンスは無いのでは・・・と私も最初はそう感じた。対照的に、前作『時のオカリナ』ではゼルダ、サリア、ルト、マロン、ナボールなど物語の主軸にも据えられるほどロマンス要素が多かったから、謎は深まる。“時オカ”で恋愛を入れすぎたからわざと無くしたのか?仮にそうだとすれば、ムジュラにおいてリンクが“リンクらしい”働きに徹するのも頷ける。だが、これでは夢がない。リンクにも巧妙に仕掛けられたロマンス要素があるのだ。
リンクに直接関わってくるロマンスは、クリミアという女性のイベントに隠されている。詳しくはご自身の目で確かめて頂きたいが、このイベントはミルクを運ぶクリミアに襲いかかる野盗をリンクが護衛する、というものだ。イベント自体は一回クリアすればよい。悪い奴から女性を守った!と感動を得られるだろう。そして、そのお礼としてクリミアからもらえるアイテムはいわば“オトナの証”だ。だが、一回のクリアだけではこのイベントに込められた謎は解けない。なぜなら、一回目にはクリミアがリンクのことを“子供扱い”しているからだ。では、オトナとして認められたリンクがもう一度同じイベントをクリアするとどうなるか・・・。クリミアは違った反応を見せる。彼女はお礼の仕方を2パターン用意している。(しかし、開発者のいたずら?なのか、そこにゲームらしいランダム要素が組み込んである。つまり、クリミアの真意を知るためには最低三回はイベントをこなす必要があるということだ。やはり、プロのこだわりには感心してしまう。)これも詳述できないのが残念だが、ひとつはいかにもオトナらしいお礼、もうひとつはリンクにロマンスを感じさせるお礼である。前者を第一の結末、後者を第二の結末としておこう。なるほど、第二の結末にリンクのロマンスがあったのか!と思われただろうか?クリミアのファンの方ならそこで終わって良いかもしれないが、それではなぜわざわざ第一の結末を用意したのだろうか?私のような“ひねくれ者”の伝道師には腑に落ちないものがある。以下の内容はミステリーに満ちた“リンクのロマンス”の謎解きにおけるキーポイントである。
最初に、町へ向かうクリミアがリンクに語りかける場面について。そこでは親友のアンジュが結婚することを口に出す。リンクの感情はほぼプレーヤーに委ねられているから、あなたはただ話を聞くだけだ。アンジュの結婚相手はクリミアが秘かに想いを寄せる、カーフェイである。クリミアは恋と友情の三角関係に直面しているので切ない。しかし、このシーンの見所はありがちな三角関係を知ることにはない。それはクリミアが二人の結婚を本当に祝福できるかどうか、揺らいでいる気持ちを見事に表現しているところにある。クリミアのつぶやきの中に「本当に月は落ちてくるのかな?」という内容がある。月が落ちてしまえば皆死んでしまう。つまり、アンジュとカーフェイの愛もそこで潰えるためクリミアは二人を祝福せずともよくなる。クリミアの秘めた想いは守られるのだ。しかしそれはエゴイスティックであり、成長を避ける未熟な自分を守るための空虚な結末にしかならない。ちょっと待て、クリミアがカーフェイを好きで何が悪いか?と反論される方もいるだろう。もちろんそういう解釈をしてもいいが、私はそうは思わない。捨てるべき感情は必ずあるからだ。これはあくまでも持論であるが「恋は一方的でも成り立つが、愛は一方的には成り立たない」ものである。“恋”とはすなわち“愛”の未熟な段階ともいえる。未熟ゆえに己の制御ができなくなることもある。恋はときに“きょうき”にもなる危険な感情だ。したがって、クリミアが抱く恋心は二人の結婚を祝福しないという言い訳に過ぎず、本人もそれを理解しながら捨てられずにいる自分がいるのだろう。そのためにリンクをミルク運びに同行しないかと誘うのである。おそらく、一人でカーフェイのいるクロックタウンに向かう勇気がなかったのだろうし、心のどこかで誰かの支えを必要としていたのだ。こうした彼女の複雑な心境は「夕暮れ時」、「揺れる馬車」、「さびしげなBGM」、「落下しそうな月」などによって代弁されている。さらに、クリミアのつぶやきにはプレーヤーの操作が利かないようになっており、セリフのスキップはもちろんのこと、言葉の裏に潜むメッセージをじっくり考えることもできない。これはこのゲームだからこそできる、実に見事な演出である。そして、このシーンでのリンクは話の聞き手というより“捌け口のなかった泥水を受け止めるバケツ”のような存在だ。リンクの役割はあくまでも彼女が思わず口に出す愚痴を聞くことだけである。あなたに同情を誘い、リンクがそれに応じることではない。仮にクリミアの秘めた想いを“リンク”させるような演出、あるいは別のイベントがあったとすれば、ムジュラが伝えるロマンスはドロドロした物語になっていたはずだ。幸いなことにそれはないから、最終的なメッセージが美しくなる。
次に、クリミアが生活する牧場の入り口を塞ぐように突如置かれたという“謎の巨石”が意味するもの。これもおもしろいことに、ゲーム中で犯人は特定できない。(おそらくスタルキッドの仕業だろうが、スタルキッドにそうさせた張本人は・・・)私にはクリミアが“カーフェイへの想い”に栓をする“意志”に見えた。石が置かれたことによって、牧場への入り口はそこだけしかない(リンクですら直接牧場へワープができないことに注目)から物理的にもカーフェイやアンジュと隔てられる。クリミアはそうやって自らの未練めいた感情を断ち切ろうとしていたのだろうか。あるいは二人と距離を置くことで本当の自分と向き合うことから逃げようとしていたのかもしれない。しかし、そのままでは彼女の心の月の落下を止められない。想いは消えないからである。リンクが心の殻を破る手助けをするのだ。
最期に、“嫉妬”をキーワードに挙げよう。ミルクを町へ運ぶクリミアは野盗のワナによって最短コースを外れてゴーマントラックを走らされることになる。このときのクリミアはリンクと目を合わせることもなく前を向いたまま馬車の手綱を握りしめ、強気な女性に見える。まるで何かを決意したかのようだ。そこでミルクを狙う野盗をリンクが撃退するわけだが、ここに嫉妬心に象徴される“心に潜む魔物”を退けよ!とのメッセージが読み取れる。野盗の正体は明らかにゴー○ン兄弟であるが、退けるのは彼らの嫉妬心だけではない。(ちなみに、リンクがあることをすると野盗は襲ってこない。おそらく嫉妬心などは兄弟愛に敵わないとのメッセージだろう。もっともその兄弟愛はねじ曲がっているが・・・この対比はおもしろい。)このイベントの醍醐味は、クリミアの心に潜む魔物を退けるプロセスにある。かの夏目漱石は「嫉妬は愛の半面ではないでしょうか」との言葉を残している。つまり、嫉妬とは屈折した愛の表現というわけだ。開発者はおそらく嫉妬心には否定的な立場である。だが、完全否定するわけでもない。嫉妬心は愛の裏返しであり、人間なら誰しも持ちうる自然な感情だからである。しかし、より深い関係を築くためには“自己を失う覚悟”が必要なのだ。その作業は常人にはなかなかできないだろう。未熟な感情を乗り越える難しさはイベントそのものによく表されている。クリミアをまっすぐに(カーフェイのいる)町まで行かせないのは、地理的(マップを見ると明らか)にも曲がった道を通るように彼女の中で屈折した愛情がまだ残っているからだ。さらに、リンクが野盗を追い払った後も彼女の心の葛藤は続いている。それゆえに、リンクへのお礼も二つになるのではないか?ただ、第一の結末はリンクが“クリミアを守ったお礼”としか思えない。わかりやすくいうなら“ボディガード代”だ。結局彼女が自らにけじめをつけたかどうかはこれでは判断しかねる。本当の想いが“いかにもオトナらしいお礼”によって隠されたからだ。隠されたということは・・・やはり人はそんなに強くなれないのか?もっとも、この結末は現実にも十分ありうるし賛同もできるが・・・。第二の結末はリンクに対してシリーズ中でも類を見ないほど強烈な愛の表現によってお礼をされる。“愛を連想させるお礼”というのが大切だ。第一の結末とは違い、彼女の心情がしっかりと読み取れるからである。これ以上は説明しないが、私の考えが正しければリンクが受け取ったロマンスは・・・至極切ない。
そして、二つの結末は「“クリミアがすべきこと”の答えをひとつに決めてはいけないし、決められもしない」とのメッセージである。(このメッセージの裏付けは物語の終盤に現れる謎のこどもたちがリンクに“グサッとくる質問”を投げかけることに示されている。)クリミア曰く、イイことをするほど人は成長し、オトナとして認められるのだという。クリミアにとっての“イイこと”とは“自身の未熟な心にけじめをつけること”だったのだろうと解釈したい。もちろん、その証人はオトナとして認められたリンクだ。
え・・・だから、“リンク”のロマンスはどうなったのかって?
それは、作品が最も伝えたかったメッセージに凝縮されている。ムジュラの物語は“友愛に始まり、友愛に終わる”ことは御存知だろうか。わからないという人はリンクがオープニングシーンで何を探していたか、ラストシーンはどうなっていたか思い出してほしい。友愛がメインテーマのひとつになっていたならば、長々と検証してきたクリミアの心中もアンジュとの友情に辿りついたと前向きに受け取れる。
ところで、物語の最初にリンクが探していたのは前作でのパートナー妖精“ナビィ”とされているが果たして本当にそうだろうか。妥当性のある答えを得るためには前作『時のオカリナ』を知らなければならない。ムジュラのプロローグから察するにリンクが新しい旅に出発したのは時をこえた戦いを終えたあとだ。注意したいのはこの戦いがリンクにとって運命であること。前作での冒険は“リンクの運命をプレーヤーが知る”ことに主眼が置かれている。世界を救うにはリンクが幼すぎたから時をこえて己の運命を知る必要がある。したがって、何気なく使われる「冒険のおわり」という語の意味を履き違えてはならない。時をこえて巨悪を倒す“冒険のおわり”で別れたのがナビィだとするなら、ナビィを探す理由が私にはよくわからない。ハイラルに平和を取り戻せばナビィの役目は終わるから、別れも必然となるからだ。そうではなくて「あなたがリンクの運命を知る“冒険のおわり”」言い換えるなら「ムジュラにおける冒険のはじまり」の時点で確実に別れてしまっている“かけがえのない友”をリンクは探しているのだ。確かにムジュラの冒頭でナビィはリンクのそばにいないが、意図的に別行動をしているとも考えられないか?前作で追手に捕まらないように逃げ別れた“ある人物”を見つけるために二手に分かれて探すのは不自然ではなかろう。むしろ、それだけリンクはその人物に特別な感情を抱いているとも考えられる。単純に“そばにいないから”といって友愛をなじる発想は軽率である。それよりも前作との関係で「リンクはまだ子供の姿をしていること」や「リンクが時をこえたあとでもナビィはそばにいること」、「時のオカリナを持っていること」そして、「ある人物との空白の時間があること」を考慮するとリンクが探していたある人物は“ゼルダ”である可能性が高い。私の解釈で重要なのは、この時のリンクはまだゼルダのことを“友”と認識していることだ。さらに、前作のラストシーンも二人の関係は“土俵際いっぱいで友愛”を連想させる。場面がモノクロになっているのは、その後の展開の色付けをプレーヤーに託したからだろう。そして、ムジュラにおけるゼルダは影の薄い存在とされているがこれも納得できない。なぜなら、答えはタイトルを考えてみればすぐにわかるからだ。あえて“ゼルダの伝説”となっているのは、リンクがゼルダにタルミナでの冒険譚を語ったからだろう。その語らいができるのはリンクがゼルダと再会し、巨悪を倒す冒険を終えたあとの平穏な時間だ・・・。二人のつながりはきっと強いはずである。リンクは寡黙な勇者だから、ゼルダによって彼の活躍が伝説となるのだ。私はここに“リンクのロマンス”を感じ取る。友愛であれ、恋愛であれ、美しく、淡く、切ない愛を・・・。
新しい見解・・・これを読んで何を想うかはアナタ次第。伝説の伝導はつづく。