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ヒトは快感で動作するロボット ~依存症

掲載日:2023/10/21

 或いは、全ての動物は快感の奴隷だと表現できるかもしれない。食べ物を食べるのは、それによって脳が快感を覚えるからだし、睡眠や生殖行動だってやはり快感が伴う。人間が富や名誉を手に入れようとするのだって同様だろう。つまりは生命活動に必要な行動を促す為に、“快感”を用いているのだ。

 だから、快感さえ与えられれば、動物は容易にコントロールができる。ネズミをラジコン化するという非人道的な実験がある。ネズミを右に進ませたいと思ったのなら、右に移動した時に快感を生じさせ、左に進ませたいと思ったのなら左に移動した時に快感を生じさせる。そのような原理で、実際にそれは存在している。

 「ネズミの話か」と、この実験を馬鹿にする事はできないだろう。何故なら、覚せい剤や麻薬といった強い快感と依存性のある薬物を用いれば、人間にだって似たような事は可能だからだ。暴力団が依存性のある薬物を女性に打って逃れられないようにする。そればかりか、その薬物を餌に性サービス業でほぼ強制的に働かせて金を稼ぐという事は現代でも行われているし、男性だって薬物欲しさに悪事に手を染めるという話は珍しくない。

 そしてこれからの時代は、薬物などを用いなくても、もっと直接的にそのような手段が可能になるかもしれない。

 

 彼女はその動画が昔の夫の姿だと見せられた当初、それを信じなかった。その姿があまりに現在の彼の姿とはかけ離れていたからだ。

 その“男”は、ベッドに横たわり、ただひたすらに手に持ったボタンを押し続けていた。半裸で痩せこけ、まるでミイラのよう。顔は陶酔し切っており、その表情はどこか宗教的で非現実的でもあった。

 食事も摂らず、何日間も風呂に入っていない状態だと動画の概要欄で説明されてあった。トランクスを履いていたが、股間の辺りは濡れていた。恐らくは排泄物で汚れていたのだろう。

 それは匿名の何者かから、妻である彼女の元に送られて来たメールに添付されてあったURLの先の動画で、そのメールには『あなたの旦那さんは、今は立派かもしれないが、昔は酷かったのですよ。あなたは騙されているのです。それがこの証拠です』と記述されてあった。

 どうやら、そのメールの送り主は、彼女の夫にあまりよろしくない感情を抱く何者かであるらしい。が、彼女にとってそれはあまり重要な意味を持たなかった。問題はそれが本物であるかどうかだ。

 彼女の夫は半導体関連の業界で確りと仕事をしていて、地位もそれなりに高い。高給とは言わないが、世間的には充分な収入を得ている。誠実で真面目で家の管理や育児にも積極的に関わってくれる。理想的と言うと大袈裟かもしれないが、パートナーとして不満はなかった。

 だから、そんな姿の男が自分の夫だと言われても彼女には信じられなかったのだが、よく見れば似ている部分もあるように思えた。不安を覚えた彼女は、彼の母親に電話をかけて確かめてみた。すると、彼の母親は「知ってしまったのですね。それは息子の昔の姿です」と正直に述べたのだった。

 どうも母親は、言わずに結婚させてしまった事を彼女にずっと後ろめたく思っていたらしい。

 

 「その手に持っているスイッチを押すと、脳に直接快感を与えられるのです。違法のアプリですが、息子はそれに手を出してしまったのです」

 

 現代では脳直結インターフェースが、ナノマシンによって実現している。ナノマシンカプセルを飲むと、脳に電子チップが構成され、直接、脳に影響を与えられるのだ。彼が手を出してしまったのは、それにより、薬物などよりももっと直接的に脳に快感を与えられるアプリケーションだった。

 「一人暮らしをしていた息子は、そのアプリによって廃人のようになってしまったのです」

 母親はそのように説明した。しかし彼女は信じなかった。どう考えてもそんな状態から回復できるようには思えなかったからだ。ところがそれから母親はこう続けるのだった。

 「息子を回復させる為に、お医者さんはAIを用いました。AIが息子に与える快感を制御するのです。すると息子は、快感を得るために懸命に職業訓練を受け、技能を身に付けると仕事に出るようにもなりました。正直に申し上げて、以前よりもずっと真面目に誠実に生きています。ですが、それは……」

 

 ――快感を与えてもらう為に、AIに従っているに過ぎない。

 

 その言葉を彼女は否定したかった。が、ほぼ直感的にそれを認めてしまっていた。彼女は実は夫と一緒にいても、それが本当に彼の姿なのかと疑ってしまうような事が度々あったのだ。まるで彼が演技でもしているかのように感じてしまっていたのである。

 もしかしたら、彼は自分をまったく愛してはいないのかもしれない。そのように振舞わなければ、AIが快感を与えてくれない。だからそのように振舞っているだけ……

 

 彼女はそれでも必死にこう思おうとした。平穏無事に暮らせるのでられば、それでも良い。それに不満を覚えるのは贅沢だ。

 が、一抹の不安もあった。

 ヘロインなどの薬物の類が、戦争時、兵士に与えられている。戦争の恐怖を麻痺させる為でもあるのかもしれないが、それは或いは“罪悪感の麻痺”に最も効果を発揮しているのかもしれない。

 人間は誰かを傷つけると、共感の能力によって自分の痛みの神経が刺激されてしまうのだ。が、快感はその痛覚を奪う。つまり、誰かを傷つけても痛みを共感できなくなる。

 

 ――もし仮に、快感の奴隷となった自分の夫がそれに近い状態だったなら? そして、何かの切っ掛けで、AIの制御が……、支配が効かなくなってしまったなら?

 

 今日も、自分の夫が家に帰って来る事に、彼女は仄かな恐怖を抱いた。

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