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【オムニバスSS集】青過ぎる思春期の断片

人生の果てるまでを看ている。

作者: 津籠睦月

 人生の果ての、(がけ)っぷちを歩いているような気が、ずっとしている。

 世界が暗い夕闇の中、閉ざされているような気が、ずっとしている。

 この先、もう何処(どこ)へも行けない、行き止まりの人生――そんな気が。

 祖父の病気が分かって以来、ずっとだ。

 

 祖父の病は、(なお)ることがない。

 進行を(おく)らせることはできても、完治(かんち)することの無い病。

 高齢で体力が心配だからと、手術もやんわり拒否されるような、そんな状態だ。

 

 長い入院を終えて帰って来ても、筋肉の(おとろ)えきった祖父に、以前のような生活はもう出来(でき)ない。

 一日中、ベッドに(しば)りつけられたように、寝たきりの日々。

 生きるために、人の手を借りなくてはどうにもならない身体(からだ)

 そして、俺たちの生活もまた、祖父の退院とともに一変してしまった。

 

 一番広くて居心地(いごこち)の良かった居間には、介護用のベッドが運び込まれ、急ごしらえの“病室”になった。

 ケアマネジャー、ホームヘルパー、往診(おうしん)医……今まで関わったこともなかった人たちと、たびたび顔を合わせるようになった。

 吸飲(すいの)み、使い捨て手袋、介護用パンツ……今まで馴染(なじ)みの無かったものたちに、たびたび触れるようになった。

 

 病気のことも、介護も看護も、何ひとつ知らなかったのに……突然それが、俺の世界に組み込まれた。

 まるで、いきなり別の世界に放り込まれたようだった。

 

 入院する前は、祖父も自分の足で動けていた。

 年をとるにつれ、だんだん動作は(にぶ)くなっていたが、自分ことは自分でやれていた。

 庭木の世話や、ちょっとした書き物や読書――趣味(しゅみ)も細々と楽しんでいた。

 だが、帰って来た祖父は、すっかり変わってしまっていた。

 

 筋肉の無くなった(あし)は、水の()まった皮袋のようで、初めて(さわ)る感触だった。

 寝たきりで浮腫(むく)んだ祖父の脚を()みながら、人間の肉体(からだ)はこんなにも変わってしまうものなのかと、(おび)えに似た(おどろ)きを(おぼ)えた。

 

 終わりが見えてしまったせいなのか、祖父の目からは生気が消えた。

 以前の趣味を続ける様子も無く、歩けるようにリハビリしようという意欲も見えず、一日中ベッドの上で、ぼんやりテレビを(なが)めている。

 見た目も中身も、まるで別人とすり替わってしまったようだ。

 

 父という存在の無いこの家で、祖父は俺にとって“地震・雷・火事・親父”の怖い“親父”だった。

 昔気質(かたぎ)の祖父は、俺が適当なことをすると、すぐに(しか)りつけてきた。

 そんな祖父を恐れ、(おび)えながらも――心のどこかで、(たよ)りにしていた。

 家計を支える母が、(いそが)しくていつも家にいなくても、祖父がいてくれたから、俺はひとりぼっちで留守番せずに()んでいた。

 幼い(ころ)は、野球観戦や祭りにも連れて行ってもらった。

 誰よりも身近で、()り返れば一緒(いっしょ)の思い出だらけで、何よりもよく知っているはずの“家族”。

 なのに、まるで知らない人間になってしまったようで、俺はずっと戸惑(とまど)っている。

 

 病人の介護と言っても、キツい作業のほとんどは、母がやってくれている。

 俺がするのは、母が祖父を()られない時の“代わり”と、いくつかの家事の分担だ。

 母はなるべく、俺に負担がかからないように、自分がほとんどをやろうとする。「あんたには学校があるでしょう」「ウチのことは気にしなくていいから」と、そう言って。

 だが、どう考えても、母だけでは時間も手も()りない。

 ただでさえ日々の(つと)めを(かか)える母に、これ以上の負担を()わせて、(たお)れられては(かな)わない。

 やりたい、やりたくない以前の問題だ。

 気づけばそれは俺の日常となり、いつしか深く考えることもなくなった。

 

 初めのうちは、言われた家事をこなすことさえ、満足にできなかった。

 特売品と対象外商品の区別がつかずに、間違(まちが)ったものを買ってしまったこともある。

 洗濯(せんたく)表示をよく見ずに、間違った方法で洗濯してしまったこともある。

 母は(つか)れた顔で「仕方(しかた)ない」と(ゆる)してくれたが、そのたび、不甲斐(ふがい)なさに落ち込んだ。

 ささやかに見える家事のひとつひとつに、気を(くば)らねばならないポイントが、いくつもある――そのことさえ、俺はずっと知らずにいた。

 

 家のため、祖父のために甲斐甲斐(かいがい)しく動き回って、ボロボロになる――そんな、典型的イメージ通りの生活はしていない。

 むしろ、手を()けるところは、だいぶ手を抜いている。四六時中、祖父に付きっきりというわけでもない。

 こんな程度(ていど)で良いのだろうかと、罪悪感を(いだ)くことすらある。

 きっと、世の中にはもっと(つら)い思いをしている人がいっぱいいる。俺なんて、全然苦労していない方だ――そう思う。

 そう思うのに……何故(なぜ)だか、気づけば時間がなくなっている。

 気づけば、自分自身のことをロクにしないまま、一日が終わっている。

 

 以前より、時間の使い方が下手になった。集中力が保てなくなった。

 時間が全く無いわけではない。だから、祖父のことを言い(わけ)にはできない。

 

 確かに、やることは沢山(たくさん)増えて、時間は細切(こまぎ)れになったが、自分の時間が持てないわけではないのだ。

 なのに、気づけばボンヤリと、その貴重(きちょう)な時間を(つぶ)してしまっている。

 

 祖父の病は、治ることがない。

 たとえ俺と母が、どんなに甲斐甲斐しく看病しても、良くなることは決してない。

 むしろ、少しずつ、少しずつ悪くなっていく。

 これが回復につながるわけではないと知りながら、脚を()み、身体を()き、食事を見守る。こんなに(むく)われない行為は無い。

 せめて何パーセントかでも、治癒(ちゆ)の見込みがあれば、こちらも少しは救われるのに。

 

 介護されることについて、祖父の方でも、いろいろ思うことがあるらしい。

 表情の(とぼ)しくなった祖父は、いつしか「まだお(むか)えが来ねぇ」が口癖(くちぐせ)になった。

 肉体よりも先に、精神の方が死へ向かおうとしているようだ。

 その心を、暗い(ふち)から浮上させられる言葉を、俺は持っていなかった。

 

 祖父の心情に同調するように、母もどんどん沈んでいく。

 俺も、気分が沈んでいくのを感じる。

 家中(いえじゅう)(みな)、暗く沈んで――夕闇の中に閉ざされているようだ。

 まるで、(がけ)っぷちの行き止まり。この先どこへも行けない、この世の果てのような日々。

 だが、果てようとしているのは、俺の人生ではない。

 

 祖父がこうなって、時々、終わりの日のことを考える。

 母がいない時に、祖父の容体(ようだい)が急変したら、どうしよう。

 遠出している時に何かあって、最期(さいご)に間に合わなかったら、どうしよう。

 その日はいつ来るのだろう――考えたくもないことなのに、気づけば頭を(よぎ)っている。

 

 祖父がこうなって、時々、終わりの日のことを想像する。

 俺もいつかあんな風に、身体の自由を()くし、人生の果てを()きつけられて、絶望する日が来るのだろうか。

 その時、俺のそばに“家族”はいるのだろうか。

 暮らしに恵まれず、たった(ひと)りでその時を迎えることになったら、どうしよう。

 ――祖父の姿に、未来の自分の姿を(かさ)ね、(わけ)も無く不安になる。

 

 友人との遊びも、以前(まえ)ほど楽しめなくなった。

 いつも頭の片隅(かたすみ)に、祖父のことがある。

 祖父を忘れそうになるたびに、罪の意識が胸を刺す。

 

 考えたくないことばかり、ぐるぐる頭を回るのに、考えなければならないことには、上手く頭が回らない。

 宿題のこと、定期テストのこと、受験のこと。

 進路のこと、将来のこと、この先の人生のこと……。

 考えられない――と言うより、むしろ、今は考えたくもない。

 むしろ、無心に身体を動かしていた方がラクなくらいだ。

 祖父のため、母の負担を減らすための介護や家事でさえ、逃避(とうひ)しているだけなのではと、思ってしまうことがある。

 

 今は考えるだけの余裕(よゆう)が、俺の心に無い――それでも、人生は容赦(ようしゃ)なく進んでいく。

 どうしてこの世界では、人生のタイムスケジュールが決められているのだろう。

 今は立ち止まっていたいのに、進むのを止めたら、“一般的な人生進路(コース)”から(はじ)き出されてしまう。

 祖父と過ごせる日々には限りがある。

 だが、俺の人生にも選択期限がある。

 どちらも重くて、選べない。選べないから、考えたくない。

 

 俺を取り巻く、この重苦しい状況を、他人には上手く話せていない。

 自分でも上手く言葉にできないことが、たくさん胸に()まっている。

 家庭の事情をつぶさに他人に明かすことに、何となく躊躇(ためら)いを(おぼ)える。

 話しても理解してもらえないのでは、結局何も変わらず、時間と労力だけを無駄(むだ)に消費するのではないか――そんな、(あきら)めに似た気持ちもある。

 自分でも、どうしたいのか――どうしたらラクになれるのか、分からない。

 

 心も身体も重くなるばかりだが、未来を悲観しているわけではない。

 この日々には、いつか終わりが来る。そのことだけは、分かっているから。

 ――だが、それは、家族との永別(えいべつ)を意味する。

 

 祖父の人生が果てても、俺の人生は続いていく。

 その時、俺は何を思うのだろう。

 もはや日常になってしまった日々の作業から解放されて――何となく、途方(とほう)()れそうな気がする。

 解放されて、自由になって――だけど、俺の毎日に、ぽっかり大きな穴が開く。

 終わりの見えない日々が苦しいのに、終わりが来てしまうのが怖い。

 こんな矛盾(むじゅん)した気持ちは、誰にも上手く説明できない。

 

 心の整理がつかないまま、ただ、祖父の人生の終末を見ている。

 何が正解なのか、どうすれば()いが残らないのか分からないまま――長く続いたその人生が、果てるまでを()ている。


Copyright(C) 2023 Mutsuki Tsugomori.All Right Reserved.

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