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「りお、くん…………あいたっ」
「おはよう」
「あ。おはよう、カレンくん」
むすっとした顔で私の顔に手のひらをかざしているカレンくん。その構えと私をたたき起こした痛みからすると、私はおでこにデコピンを食らったようだ。
「痛いよ、カレンくん」
カレンくんは指先で私のおでこのデコピンしたあたりを撫でた。
「ごめん。キスする?」
「なんで」
「痛いの飛んでけみたいな。効かないと思うけど」
「ぼそっと言った後半も聞こえてるよ」
「ん。ゆらちゃん……何か、夢でも見てた?」
「夢? うん。なんかね、好みではないイケメンにきなこ入りの鉄観音をお勧めされて、飲んであんまり好きじゃないなって言ったら、そうやって人の好意に気づかずに六十五まで生きるつもりなのかってお説教された。変な夢、起こしてもらえてよかったかも」
「それだけ?」
「うん。少なくとも、今思い出せるのは」
体を起こして首を、肩を回した。骨がぽきぽき鳴った。見まわしたところ、どうやら談話室のソファで寝ていたらしい。たしか鹿深さんを引きずってエレベーターに乗り込んで、そこまでは記憶がある。隣のソファに鹿深さんは寝ていた。
「なんでこんなところで寝てるの」
そう問われた。どうやらカレンくんは知らないらしい。私たちをエレベーターからソファに運んだ人がいるかどうかはともかく、いるとしてもそれはカレンくんではない。
「それも、おっさんと一緒に」
カレンくん、鹿深さんのことをおっさんと呼んでいたのか。
「ええと、昨日の夜、二人で散歩に出て、帰ってきて、それで?」
お酒のせいで覚えていないだけで自力で談話室のソファまでやってきて眠ったのか、エレベーターの中で座り込んだまま寝落ちしてしまったのを誰かが運んでくれたのか。思い出そうと考えてみても浮かばなかった。コートの上からさらに毛布を被っていたせいで、快適なこのフロアでは暑いくらいだ。この毛布もどこから現れたものなのか。
「おっさんと散歩?」
「うん。ちょっと外にね」
「二人で?」
「そうだね」
「なんで?」
「なんでと言われても」
薄くて触り心地のいい毛布をたたみながら、鹿深さんの様子を窺う。お行儀良く寝ている。寝顔がきれいな人だ。
「後輩ができて嬉しいんだって、鹿深さん」
「後輩? ん、言ったのか、自分もマロウトだって」
「うん」
「ゆらちゃん。おっさんと散歩するくらいなら、オレとしよ」
「うん。今から?」
すねたように言うカレンくんに頷くと、なぜか困った顔をさせてしまった。
「ごめんね、カレンくん。お仕事あるよね」
「違うよ」
尖らせたくちびるに目が引き寄せられる。何が違うのか聞こうとしたら、カレンくんは顔を背けた。私から離れて、鹿深さんの頭を軽くはたいて、エレベーターに向かった。
カレンくんにはたかれた鹿深さんは素直に目を覚ました。
「おや、おはよう」
「おはようございます」
昨日のことは覚えているか、と聞いていいものなのかどうか。昨夜は遠慮なく話していたが、それはお酒の力もあってのことで、それが覚めてしまった今、口は開くのをためらっている。たぶん私は今、何か言いたげな顔、をしているだろう。
鹿深さんはおもむろに立ち上がって、
「昨夜は本当にご迷惑をおかけしました」
そう言って土下座した。
唖然。開いた口をふさいで、とりあえず鹿深さんをソファに戻らせようとする。
「やめてください、鹿深さん。それはやりすぎです」
「どうかしましたか?」
「あ、青名さん、鹿深さんが、やめさせてください、土下座なんて」
「先生、藤解さんがお困りのようですよ」
青名さんはひょいと音をつけてもいいくらいに軽々と鹿深さんを立たせて、流れるようにふわりとソファに座らせた。床に落ちた毛布も拾ってたたんでいる。
「わあ……あ、おはようございます、青名さん。助かりました」
「おはようございます。いえ、何でもご用命ください。ところで、何かあったんですか?」
「ぼくが、酔っぱらって醜態をさらして、藤解さんに迷惑をかけてしまって」
「そんなことないですよ、鹿深さん。たしかにちょっと面倒くさいと思いましたけど、引きずって運ぶのも大変でしたけど、醜態とも迷惑とも思ってません」
「だ、そうですよ、先生」
青名さんが小さく微笑むと、鹿深さんはちらりと上目遣いで私を見た。
「そうですよ、そんなことより、覚えてますか? 保健室に行ってもいいって」
「ああ、うん。もちろん、いつでも。よかったら、これから来る?」
「いいんですか?」
「うんうん。いいに決まってる。じゃあ、先に行ってるよ。そうだ、朝ごはんもこっちで食べる? ぼくがおごるから、なんて言えないのは残念だけどさ」
「そうします。着替えたりしてから行きますね」
「うん。じゃあ、また後で」
「はい」
跳ねるような足取りでエレベーターに乗り込んだ鹿深さんを、扉が閉まって見えなくなるまで、にこにこしながら手を振って見送った。見えなくなった途端、手を下ろしてため息をついた私に、青名さんが苦笑する。
「藤解さんも、先生も、友人ができたようでよかったです」
「友人なんでしょうか」
「先生はごく一部のかたとしか話さないんですよ。私も今初めて会話できました」
「え、そうなんですか? 全然そんな風には見えなかったです。私には初めからフレンドリーな感じだったので、よくしゃべる人なんだと思ってました」
「ええ。そういえば、藤解さんは保健室の場所はご存じですか?」
「そういえば。知らないです」
「では案内しますね」
「お願いします。その前に、とりあえず着替えてきます」
「はい、どうぞごゆっくり。私はのんびり読書でもしていますので」
青名さんは手に本を持っていることを私に見せた。そもそも談話室でコーヒーでも飲みながら読書をする予定だったのに、私の保健室への案内という仕事を増やしてしまったのだろうか。気にしても仕方がないので、ゆっくり着替えてくることにしよう。
保健室は地上一階にあるらしい。カレンくんがエレベーターで上から降りてきた鹿深さんたちを食堂に行っていたのだろうと言った理由がわかって、ちょっとすっきり。
一階でエレベーターを降りて、いつもの散歩コースとは別の方向へ。このあたりを通る人たちにはすっかり慣れて、今では会釈をしたりこんにちはと声を掛け合ったりできるほど。今日もそうしていたら、隣で青名さんがしみじみと頷いていた。保護者か。
正面玄関と思われる吹き抜けの空間を過ぎる。受付はあったが人はいなかった。湖の周りを散歩していても外からのお客さんというものを見たことがないので、受付に誰かが待機している必要がないのだろう。形だけのエントランスホール。
「この上がちょうど食堂ですよ」
「そうなんですね」
青名さんの説明で上階を見上げた。エントランスからエスカレーターで上へ進んだところにあるのが食堂とは。
「そして、あれが保健室です」
エントランスのそばに目立たないドアがあった。
ドアには保健室と手書きの紙が貼られていた。青名さんを窺ってみると、どうぞと手で示される。まずはこんこんこんとノックしてみた。返事はなかった。
「留守、でしょうか?」
「ノックしたのが誰かわからないからだと思いますよ」
「本当に人と話さないんですか」
「そうなんです。これも人見知りと呼ぶのかどうか」
ノックには応えてくれないようなのでドアを開けた。
保健室の中は、一見して保健室とは思えない様子だった。入ってすぐには玄関のようなちょっとしたエントランスがあって、右を向けば小さな窓、左の壁には開けっ放しになっているクローゼット、ウォークインできそうな。先へ進むと、右手は大きな窓から明るい陽が差しこんでいる。左手にはデスクと、その後ろにドア。奥には応接室のような立派なソファが、一人掛けのものふたつ、三人は余裕で座れそうなものひとつ。ソファに囲まれて丸テーブル。ソファのそばにもドアがある。広い。床に敷かれた絨毯も大きい。窓の外には、常緑の葉を風に揺らす木々の隙間から、湖面がきらきらと太陽の光を反射しているのが見える。
「鹿深さん、いますか?」
声をかけると、デスクの後ろのドアが開いた。
「いらっしゃい、藤解さん。青名くん」
鹿深さんは半分くらい姿を見せたと思ったら部屋に引っ込んだ。どうすればいいのか青名さんと顔を見合わせていると、鹿深さんが出てきた。天守さんも一緒だ。ふたりとも両手でお盆を持っている。お盆にはそれぞれ、お弁当のような包みとお茶セットが人数分。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
「藤解さん、そっちそっち、大きいソファにどうぞ。青名くんも」
「はい」
私が寝転んでも余りそうなソファに、青名さんとふたり腰を下ろす。沈んだ。思ったよりもふかふかで柔らかくて、しっくりくるまで何度か座り直した。
鹿深さんと天守さんも、丸テーブルに包みとお茶を並べてからソファに座る。
「では。さん、はい」
手を合わせて。いただきます。
「これさ、いつも朝食に頼むんだよ。三段弁当の中身には色んな料理が入ってて、しかもどれもほんとに美味しいんだよね。和食とか中華とか何系でって注文もできるし、これは入れて欲しいっていうのもだいたい聞いてくれてさ。どれが好きだって言っておくと、それをお気に入りに追加してくれるから、食べたくなったときにすぐ頼めて便利。そうそう、この万木蕪と葉の塩もみしたのはぼくがすごく好きなやつなんだ。だけど、この時期しか注文できなくてさ。旬があるのは仕方ないけど、夏に欲しくなったときは悲しいよね」
食べながら、口の中にものを入れたまましゃべっているにしては、見えちゃったり出しちゃったりしない、鹿深さんはすごい。天守さんは黙々と、青名さんは丁寧に耳を傾けながら、私はほどほどに聞き流しながら食べていた。ふむ、かまぼこカラーはゆるぎかぶ。
「藤解さんが好き嫌いしないなら、三段弁当はすごくおすすめだよ。カレンくんにすすめても朝は食べないって言うし、諒くんは朝はいつも焼き魚定食だからって言うし。もっとみんなに大々的におすすめしたいくらい美味しいのにさ」
人見知りが激しいらしい鹿深さんのいうみんなとはどの範囲なのか。
「ごちそうさま。お先に」
天守さんがきれいに食べ終えたお弁当を重ねて、お茶を飲み干した。席を立とうとした天守さんを、鹿深さんが引き留める。
「あ、待って、天守くん。藤解さんの相談に乗ってあげて欲しいんだ」
天守さんが私を見る。私は首を傾げる。天守さんはため息をついて立ち上がった。お弁当と自分の分の湯呑みを、デスクの上に置いたお盆に移動させて、口を開く。
「鹿深。相談するかどうかは本人が決めることだ」
「わかってるけどさ」
「相談? 私が天守さんにですか?」
何の話だ。思い当たることなら、特殊能力についてだろうか。異世界人にある特殊能力、私のそれが、私が記憶を無くしたことに関係するのではという。
「ぼくは天守くんのことを一番信頼してる」
「それはお前の勝手だが、彼女に押しつけることではない。友だちの友だちは友だちじゃないだろう。彼女は彼女の信じられる相手に相談すればいいことだ」
私を置いて勝手に話を進めている二人だが、もめて欲しくない場合、私が天守さんに相談するのが手っ取り早いだろうか。そもそも鹿深さんは、自分が信頼しているからという理由で天守さんに相談を持ちかけたのか。研究職だという天守さんの専門が異世界人の特殊能力だからとかなのかと思ったが違うのか。
「エレベーターから談話室にぼくたちを運んで毛布をかけてくれたのもきみだろ? きみは自分では絶対に言わないけどさ」
「言う必要がない」
そうだったのか。天守さんが運んでくれた……待って、エレベーターからって、鹿深さん、何があったか覚えてるの。寝てなかったの。意識があったのに私に引きずらせてたの。いや、エレベーターで寝ている間に一度ぼんやり目が覚めていただけかも。
「地下なのによく眠れたんだ」
「おめでとう」
「ありがとう。ほんとに今まで付き合ってくれて、ずっと、ずっと」
「礼なら彼女に言えばいい。今までと違う第一の要因は彼女だ」
「あの」
私が片手と声をあげると、全員の視線が刺さった。
「天守さん。相談というか、質問を、いいですか?」
「ああ。どうぞ」
天守さんはソファに座り直した。私は箸を置いて、お茶を一口。
「私、記憶が欠けてるんですけど、これが特殊能力のせいなら、記憶は戻るんでしょうか」
「能力によるだろうな。忘れるだけの能力なら、難しい。忘れるも思い出すも自在に操作できるなら、望んで忘れたことも望めば思い出せるはずだ。試すなら、まずは思い出すように念じてみるといい。マロウトの特殊能力はマロウトのもの。何にも変わらないようなら、能力は無関係だ。無理に思い出そうと焦らず自然に任せるしかない。鹿深が気づかなかったのなら無意味だと思うが、必要なら脳の精密検査をしてもいい」
「わかりました。とりあえず、思い出そうと念じてみたらいいんですね」
「まずはそうだな」
「まあ、でも、思い出せないなら思い出せないで、そんなに大事なことじゃなかったのかもしれませんから、いいんですけどね」
「忘れなければ生きていけなかった」
天守さんの言葉に、浮かべようとした笑顔が歪んだ。
「そういうこともある。瑣事と笑うな」
思い出さないなら、大したことじゃなかったのかもしれない。違う。忘れなければ生きていられなかった。もし、天守さんの言う通りだとしたら、私はそれを思い出すべきなのか。思い出して、生きていけないと思ったら、死ぬしかないと考えるなら。
朝ごはんの会は、天守さんが席を立ち、青名さんが呼び出しを食らって行ってしまい、鹿深さんがこれから保健室を開けると言うので解散に至った。
「藤解さんは、このあと部屋に戻る?」
保健室の紙と重ならないように在室中と書かれた紙を貼って、鹿深さんが尋ねる。少し斜めになっている。在室中を掲げている間は、鹿深さんもノックに反応を返すのだろうか。
「うーん、散歩でしょうか。あ、その前に部屋にコートを取りに戻りますけど。湖の向こう側の、人気のない建物がいくつか集まっているあたりに、山茶花がたくさん咲いているところがあるんですよ」
「ああ、あっちのほう。じゃあ、諒くんに会えるかもしれないね」
「そうなんですか?」
「十時までなら、湖の周りを走ってたり、向こう側のどこか人がいない開けた場所で素振りしてたりするよ。もちろん、何か仕事だったら外に行ってていないと思うけどさ」
「そうなんですね」
そういうことなら、会おうとは思わずに出かけよう。上着を持って行っても、出会わなければ荷物になるだけだ。出会って返せてもあちらの荷物になる。
湖の名前を私は知らないが、湖をぐるりと周る道がだいたい七キロメートル弱であることや、湖の一番深いところが二十メートル程であることなら青名さんに聞いている。湖周では色んな木々や花が見られるが、名札がないので全部わかるわけではなかった。
いつもの出入り口ではなくエントランスから外に出てから、数分。天守さんに言われたように、思い出せと自分に言い聞かせながら、思い出すと念じながら歩いている。即効性はないようだった。特に何も思い出さない。
「おもいーだすんだー」
やる気も失せて来て、歌うように適当なメロディで唱える。
何を思い出すか具体的に考えた方がいいのだろうか。
そもそも、記憶喪失が私の特殊能力なのかも、はっきり言える証拠はどちらにもない。好きなものといえば食べ物が次々に思い浮かんできて、それからゲームのタイトル。嫌いなものといえば、どうしても見たくない許せないほどのものはないなあと首をひねる。何を忘れているのだろう。思い出しても気づかないような小さなこと。思い出さなければよかったと思うつらい記憶。抱きかかえたまま生きてはいけない誰かのぬくもり。
「……あ、今。あれ、思い出せそうな気がしたのに」
能力があったとして、無意識に逃避として忘れたのか、自分で選んで、もしくは誰かに望まれて忘れたのか、それによっても、忘れている記憶の意味が違ってくる。
「あ、ボート?」
湖のほとりに乗り上げている木製のボートを見つけて近づく。繋がれてはいないようだ。ボートというか、高瀬舟のような小舟。よく見れば、高瀬舟そのままの形だ。まさか使われているわけではないと思うが、中には櫂が横たえられていて、舟全体もきれいな感じがする。触ってみても水に浮かべたとして沈んでしまいそうな不具合は見られない。
「そういえば釣りってしたことないけど、やってみようかな」
ここに来てから、快適すぎて、暇なのである。一度、一階のエレベーターホールでよく顔を合わせる人に雑用か何か私にできることがないか探りを入れてみたことがあったものの、少し困った顔になって、とりあえず今は特にないという何にもならない返事をもらったのだった。私にも鹿深さんのような能力があれば違うのだろうか。
あ、思いついた。もし私の能力が記憶を操る程度の能力だったとして。その範囲に限りがないとしたら、ものすごく便利なのではないだろうか。あれパスワード何だっけ、から、うちのおばあちゃんちょっと認知症の気があって、まで、もはや医学を超越して私が手をかざすだけで解決できるとしたら。すごい。やばい。世間からの隔離待ったなし。
「……バカみたい」
なぜ、とか。どうしても、みたいな。そういう意志が必要なのだとしたら、私の能力が本当に記憶を操ることができる能力でも、私はきっと記憶を取り戻せないままだ。だって、別にいいんじゃないかなと思ってしまう。能力なんてなくても人はすべてを覚えてなんかいられない。生きていくために忘れることが必要なら、切り捨てればいい。
「あっ」
ぼんやりしていると、舟が湖に浮かんでいくことに気づけなかった。私が触れてしまったせいだ。やってしまったことを忘れる能力より、やってしまう前に戻す能力のほうが便利かもしれない。ため息をついて、舟を元に戻そうと追いかける。
湖に足を踏み入れると、当然ながら冷たい。靴が重くなる。こういう時は靴を脱ぐべきか、脱がないほうがいいのか。五メートルほど進むと水深は膝ほどになった。水が冷たくておそるおそる進んでいると舟に追いつかない。
ばしゃばしゃと水をかき分ける音が近づいてくることに違和感を持った時、すでに遅く、私は誰かに腕を掴まれて湖の中でひっくり返ってしまっていた。
「おい!」
「おいじゃないんですけど」
尻もちをついても胸から上が溺れない深さでよかった。
「なんで湖なんかに!」
私の抗議の視線に気づかないくらい、私の腕を掴んで転ばせた犯人は、朽見さんは焦っているようだった。見上げる私はどこか客観的な位置から眺めていて、朽見さんの必死な顔と慌てようには笑ってしまいそうだった。たぶん、朽見さんが何をそんなに慌てているのかがわからないからだ。
「舟が、流れていってしまって」
「あ……ああ、そうか」
見回して舟を見つけて、朽見さんは冷静さを取り戻してくれたらしい。
「舟なんか放っておいてよかったんだ」
「でも、もし誰かの大事なものだったら」
「もう誰も使わない」
「そうなんですか」
納得のいかない気持ちで遠ざかり続ける舟を見ていると、朽見さんがため息をついた。
「後で、回収しておく。それでいいか」
「春になってからでもいいので、お願いします」
「わかった」
朽見さんは軽くうなずいて舟のほうへ足を向けた。いや、話、聞いてた?
「朽見さん」
呼び止めて、片手を伸ばす。朽見さんは眉を寄せた。
「立たせてください。朽見さんが転ばせたんです」
だから引っ張って起き上がらせてくれたっていいでしょう、とアピールしてみた。私は一人でも起き上がれるが、放っておけば朽見さんが冷たい湖に深く入ってしまいそうだったから。
朽見さんは躊躇った様子を見せてから、私のそばにかがんで膝をついた。どうしてそうなったのかと掴まれなかった手をさまよわせていると、体が浮いた。朽見さんが私を抱え上げた、お姫さま抱っこで。反射的に両腕を首に回してしがみつく。
「あの、朽見さん?」
「なんだ」
「ええと、重くないですか?」
「……軽いわけない」
軽々と抱え上げたように思っても、当然のこと人間一人が軽いはずはない。もぞもぞと体を朽見さんに密着させる。密着したほうが軽く感じると聞いたような気がしたが、考えてみればそもそも降ろしてもらえばいいだけのような気もした。
水から上がってしまうと、濡れた服は重く、冷たい風が濡れた体に追い打ちをかける。朽見さんとくっついているあたりだけ、じんわりと温かくなっていく。誰も通らない道を、朽見さんに抱えられたままで進む。おそらく支部の建物へ、どこへ進んでいるのかわからないが、私を運ぶ朽見さん号は安定感があって快適だ。
「あ。そういえば、しっぽ、切ったんですね」
首元でなんとなく呟いた言葉は、朽見さんを固まらせた。落とされるかと思ったが、朽見さんは私の体を抱え直して、問いかけるように言った。
「お前、記憶が……」
かすれた声だった。
「記憶?」
「いや、違う。いい。覚えてないなら、それでいい」
朽見さんはふたたび歩き出した。
私は首を傾げる。朽見さんの後ろで束ねられていた髪が切られて短くなっているなと思ったことを言っただけなのに。しっぽという言い方がよくなかったのだろうか。
いつから短くなったのだろうかと思い返してみたら、記憶がおかしいことに気づく。目が覚めた日、あのパキラがあった部屋で見た朽見さんにはしっぽ髪がなかった。それなのに、しっぽのある朽見さんに、今と同じように抱えて運ばれたことがある。
冷たい指先でうなじをなぞってみたら、朽見さんは身じろぎしたものの文句ひとつ言わなかった。話してみれば相手をしてくれて、いたずらしても怒らない。
「朽見さんって、私に何か弱みでも握られてたんですか?」
「握られてない」
「なんで優しいんですか?」
「優しくない」
「このまま私の部屋まで連れて行ってくれますか?」
「そのつもりだ」
「やっぱり弱みか何か……」
「ない」
「じゃあ下心?」
「絶対に、ない」
「え、ひどい」
私はありなのに、残念。それはそれとしていたずらはします。
「うなじ、ふー」
「おい」
「あ、おこった」
「落とすぞ」
「なんか安心しました」
「心配しなくともお前に弱みなんか握られてない」
「まあ、どのみち記憶ないからチャラですよね」
「思い出したら殺したくなるかもしれないのによく言う」
殺したくなるかもしれない。思い出したら。朽見さんを。殺したくなる?
私が答えずにいると、朽見さんは余計なことを言ったとでも思ったのか、体がこわばったように見えた。気にしていないと伝えるためにまた、ふざけるように首筋に息を吹きかける。髪をくしゃりとかき混ぜてみる。熱を求めて抱きしめる。
朽見さんは嘘を吐けない人なのだろう。私に害をなした。そのことで私に罪悪感を持っている。だから、私に優しい。そう考えれば理解できる。顔を合わせないようにしているのも、私が不快に思わないためか、私が思い出してしまわないためか。
「朽見さん、寒い。早く戻りたい」
できるだけ、わがままに聞こえるような声色で告げた。
朽見さんは黙って足を速め、私は。
ぬるいシャワーを滝行のように浴びて、服を着たまま熱いお風呂につかった。
「おもいだしたい」
足の指先も膝も頭のてっぺんまで全身で沈んで、念じる。思い出したい。ここに来る前の私。朽見さんやカレンくん、千里香さんの表情の理由。それから、カレンくんが素直に笑えるように、朽見さんが自分を責めないように。私が誰も傷つけないために。