鯨の歌
誰かが訪ねて来て、私は笑顔でその人を招き入れて、そこで目が覚めた。
やけにすっきりとした目覚めだ。毒を持つ大きなクラゲのモンスターに乗って海の上をゆらゆら漂っている夢を見ていたはずなのに、せっかくの幸せな夢が終わってしまった。今から二度寝しても、またあの夢の中に戻れる気がしない。もっと、紫色のオオコウモリと空を飛ぶ夢とか、体がほぼ胃袋なモンスターを抱っこする夢とか見たい。
そういえば、この世界にも私の好きだったゲームと同じものは存在しているのだろうか。引きこもりたくなったら談話室で注文してみよう。好きだったゲームでも、やってみたかったゲームでもいい。いっそ知らないゲームでもいい。
二度寝するのがもったいないような目覚めだった。とりあえず起きてみることにする。ここに来てもう何週間になるか、いまだに時計を部屋に置いていないので、地下のこの部屋では電気を消せば真っ暗で時の流れも把握できない。光るような家具家電はなく、千里香さんが教えてくれた窓型ディスプレイも、一度もオンにしたことのないままだ。
「何時だろう」
眠たくはないのにあくびが出た。
部屋着の上に丈の長いコートを羽織って部屋の外へ。廊下の灯りは明るさが絞られていて、時間帯が分かる。夜中の零時から、明け方の四時までと青名さんに聞いた。
談話室も廊下と同じように薄暗くて、エレベーターが眩しく目立つ。
「おや、こんばんは」
談話室の隅から声をかけられて、肩が揺れた。
「眠れないお仲間かな? おいでおいで」
見れば、鹿深さんがマグカップを片手に手招きしていた。びっくりした。
どうしようか一瞬迷って、鹿深さんのそばのソファへ。薄明りの中だが、頬がほんのり色づいている。それに香り、マグカップの中身は何かお酒のようだ。
「こんばんは、鹿深さん」
「はい、こんばんは。ええと、藤解ゆらさん? ぼくは鹿深大樹です。ここの組織にお世話になっていて、保健室で職員のみなさんの診察をしています」
「あ、はい。私は藤解ゆらです。一応、大学生? だったというべきなんでしょうか」
「うんうん。そのへんは自己認識の通りでいいんじゃないかな。ぼくはニートだよ」
「え。ああ、ええ? お医者さんかと」
「実はお医者さんじゃないんだよね」
「そうだったんですか」
「まあ、色々あってさ。一応、医者っぽく脈をとるふりなんかするけど、本当は握手でもなんでもいいんだ。他人に触れるとその相手の体調が分かるっていう能力でさ。大学も出てないし、医師免許もないけど、健康診断には十分な能力だよ」
鹿深さんも能力者なのか。便利な能力ですねと言いかけて、そうでもないかと首をひねる。病気を簡単に処置できるうちに発見することもあるだろうが、出会った時点でもう手遅れということも。組織の中で定期健診代わりに診ている分には、便利な能力だろうけれども。
鹿深さんと同じものをと注文すると、同じようにマグカップに入った無色透明なお酒が届いた。口をつけてみるとストレートのジンだったので水を追加で注文する。
「鹿深さんはよくここに? 私、カレンくんと時々飲んでますけど、会わないですね」
「いやあ、いつもは飲むのも保健室なんだけどね。今日はちょっと、たまにはこっちで寝てみようかと思い立って、一時間も経たずにくじけたところです」
「たまに挑戦するんですか?」
「まあね。今回は、そうだな、きみがいるからかな」
頬杖をついて吐息のように紡がれた言葉に心臓がきゅんとなった。よくよく見ると、鹿深さんは私が二次元ではまりがちなキャラのタイプに見た目が似ている。インテリヤクザ的なステレオタイプのやつ。オールバックも眼鏡も完璧だが、鹿深さんは触れれば切れる刃物のようなおじさまというよりは、児童に人気のある校長先生みたいな感じ。校長先生なんて年齢じゃないはずだけど、花壇や畑の世話をしたり、古い竹馬の修理とかしてそう。自分の想像に笑いそうになるのをこらえていると、きゅんがどこかに行ってしまった。
私の頼んだ水と、鹿深さんのおかわりのジンが届いた。鹿深さんは一口それを飲んで、顔を背けてくしゃみをして、照れるように笑った。どちらかというと可愛い系。
「もしかしたら、地下が苦手なんじゃなくて、このフロアにぼくひとりなのが原因だったのかもしれないと思ってさ。今ならきみたちがいるし、ひとりじゃないから眠れるかと思って試してみたんだけど、うん、やっぱり、地下が苦手なんだろうな」
「窓ディスプレイを地上にいるみたいな風景にしてもダメですか?」
「うん、ダメだった。きみは、地下で暮らすの、平気なんだね」
「そうですね、もともと、部屋を真っ暗にして寝ていたので。最近は毎日散歩に出ておひさまも浴びているから、たぶん健康面も大丈夫?」
「そっかそっか。気になることがあったら、いつでも保健室に来てくれていいんだよ。気になることなんてなくてもいいよ。保健室、いつも暇だからさ」
暇なのか。散歩といっても人気のない湖畔にしか出かけていないが、金木犀の花も落ち、赤から緑まできれいにグラデーションだった桜の葉もほとんど落ちかけている。そろそろ、勇気を出して建物の中へ、まずはもう一度食堂へとか、行ってみたいと考えていたところ。保健室の場所は知らないが一度くらいは行ってみたい。
私が一杯のマグカップジンを半分くらい飲む間に、鹿深さんは三杯くらい飲んだ。顔色はもうほんのり赤いから覚めて普通になっているが、たぶん酔いは回っている。前にエレベーターで遭遇したときは早口でも聞きやすかったのに、今は活舌が怪しい。目も甘い。
「ぼくはきみの先輩だからね、何でも相談してくれていいんだよ。後輩なんてもう一生できないもんだと思ってたから、ちょっとドキドキしたよね。中学高校も部活とかしてなかったからさ、後輩ってどんな感じなんだろうってあこがれてたなあ」
「そうなんですか」
酔っぱらいの話は聞き流すくらいでいいか。でも、記憶の残るタイプかどうかによるかも。
「うん。藤解さん、聞きたいこととか、知りたいことはない?」
「うーん、今気になってるのは、朽見さんですかね」
「気になってる……! 恋の話はおじさんちょっと難しい」
「違います。あの、どんな人なんだろうというか、何考えてるんだろうというか」
「恋の始まりでは?」
「違います」
会話成り立つ系酔っぱらい、それはそれで面倒くさい。
「なんか、朽見さんに避けられてるんですよね、私。それで、何かしちゃったんじゃないか気になってて。この前、寒いからって上着を貸してくれたんですけど、それから返そうとしても全然外で会えなくて、青名さんに渡してって言ってるって青名さんから聞かされたんです。私が探してるのを知ってて、会いたくない、近寄りたくないってことですよね?」
「うーん? まあ、色々あるんだよ」
「鹿深さんが相談相手に向いてないことはよくわかりました」
「ええ、そんなこと言わないでよ」
どうせ酔っぱらいだろうからと、私の頭もお酒が入っているせいで対応が雑になっている。とはいえ本気で相談しているわけではなくて、愚痴を吐いているというほうが近い。
「諒くんは、前は警察官だったんだよね」
諒くん、誰。朽見さんだろうか。
「正義感の強い、真面目な子なんだよ」
「真面目そうなのは、わかります」
「そうなんだよ。諒くんもだけど、ちーちゃんもカレンくんもいい子なんだよ。ぼく、二人がこんな小さいころから知ってるんだ。カレンくんなんてもう生まれたときからさ」
こんな、と膝下でボールをドリブルしているみたいに鹿深さんは手を動かした。大げさな、と思ったが、生まれたときからというならそのくらい小さいかもしれない。
「鹿深さんはここに来て長いんですか?」
「そうだよ。もう二十年くらいかな」
「みなさん、警察官みたいに、前職があるんですか?」
「諒くんは警察官で、色々あって辞めようとしていたところをリクルートされて来たんだよね。きみの知っている人なら、青名くんも転職組で、天守くんは大学院を出てここに来たって聞いたな。ぼくはほんとにただのニートだよ。しーちゃんとちーちゃんのご両親はここの職員でさ、あとカレンくんのお母さんもここの職員だったんだよね」
過去形。思ったことが顔に出てしまっていたのか、鹿深さんは笑って私の懸念を否定した。
「カレンくんのお母さん、今はたしか南米にいるって聞いたかなあ。ここ、日本支部だって聞いた? 世界中に支部があるんだってさ、すごいよね。ぼくは、いったい何をしてる組織なのか、何を目指してる組織なのか全然わかってないんだけどさ」
「マロウトを保護、支援する団体、って」
「うん、そうなんだけどさ。保護してどうするのって、思わない? 特殊能力者だよ。それを量産できる能力者もいる。そんなの囲って、ほんとに善意だけかなって」
「悪の組織なんですか?」
「いやあ、まさかまさか。まあ、ぼくは快適ニート生活が送れるならいいんだけどさ」
「あの、ニートってことは働きたくないんですよね。どうして組織に入ったんですか?」
「うん? あれ、藤解さんは、もしかして聞いてなかったのか。ごめんごめん、てっきり、知ってるものだと思っててさ。そっかそっか。言っていいのかな? いっか。ぼくはきみの先輩、つまり、二十年前にこの世界に来たマロウトなんだ」
な、なんだってーかっこ棒かっことじ。ふざけてみたが、わりと驚いている。五十年に一人程度と聞いたから、他にはいないものと思っていた。カレンくんが言っていた人間を能力者にできる特殊能力者、それから私、それで五十年に一人の枠は埋まると。定期的に決まってやってくる客人でないなら、ここにだってもっといてもおかしくないのに。
「びっくりしました」
とりあえず素直に浮かんだ言葉を呟いた。
「うんうん。よかったら、散歩でもしながら話そうか」
鹿深さんは空のマグカップをテーブルに置いて、目を細めた。
上着を厚手のロングコートに替えて、鹿深さんについて外へ出た。鹿深さんは初めて見た時と同じ白衣を上着のように羽織っていて、寒そうに見える。平気らしい。
前にカレンくんと通ったルート、最近の私の散歩コースを進む。消灯時間は住居の階だけではないようで薄暗い。地上一階のエレベーターホールから見えた光る時計の針はとうに十二時を回っていて、もうすぐ一時になりそうだった。
「この時間が一番、人が少ないんだ。ここの職員はそういう体内時計らしいね。ぼくの知ってる街だと、一番人がいないのは三時四時くらいだった気がするんだけどさ」
真夜中に外を出歩いたことがないので同意は難しかった。
トンネル内の明るさは昼も夜も変わらない。むしろ、夜は通路に比べて明るいくらいだ。
外へ出る直前で鹿深さんが足を止めた。ごそごそと何かを手探っていると思ったら突然明るさが襲う。懐中電灯をつけたらしい。真上を照らしているせいか、明るさが強いのか、どちらかといえば眩しいくらいで、目をつぶった。
「ごめんごめん、眩しかったかな。ここに懐中電灯があるから、今度から使うといいよ」
「はい。でも、たぶん、暗くなってから外には出ないと思います」
「きみも真面目ちゃんかな?」
鹿深さんは茶化すように言ってから、こほんと芝居がかった咳をした。
「まあ、不用意に出歩かないほうがいいよ。何に出会うかわからないからさ」
「あ、鹿なら見たことあります」
「うんうん、熊もいるよ」
「気をつけます」
「何を考えてるかわからないおじさんと二人きりになるのも、やめたほうがいいよ」
「え」
鹿深さんの顔があるほうを見ても、暗くてどんな表情なのかわからなかった。カレンくんが言おうとしたことってこんな感じだろうか、それを知り合いを装って近づいてくる人と表したのは私だけど。たとえば、もしかしたら、鹿深さんが私と同じ異世界人というのが嘘だったとしたら。何も考えずに飲み込んだものが自身に害を及ぼす毒だったら。
ふっと息を吐いて笑う声が聞こえた。
「わかってくれたみたいだね。一応言っておくと、ぼくが異世界人、いわゆるマロウトなのはほんと。その上で、さっき言ったようにここの組織に疑問を持っているのも、ほんと。ぼくは悠々自適な快適ニート生活を気に入っているからいいけどさ、きみがそうじゃないなら、もう少し周りの人間を疑ってみたほうがいいっていう、忠告だ」
ああ、そうか、この人は。
「鹿深さんが、今どんな顔してるか、だいたい想像できます」
「うん?」
すごく、声色とか、雰囲気がこう。
「先輩っぽいこと言えて嬉しそうですね」
「うえっへへへへえ」
やっぱりただの酔っぱらいなのかなあ。
鹿深さんはしっかりした足取りだが、少し心配だったので、そばを歩く。転びそうにでもなった時に捕まえられるようにと思っての位置取りだが、私の力で、細身とはいえ人ひとりを支えられるかは怪しいところ。試したこともない。
懐中電灯が照らす先は定まらず、鹿深さんはやはり酔っぱらいなのだろうと私が結論づけたあたりで、鹿深さんは懐中電灯の明かりを上に向けて地面に置いた。
「ここでいっか。あまり遠くへ行くのも危険だからさ」
あまり歩いてはいないので、トンネルからまだ近いはずだ。百日紅のあたりだろう。見上げると、百日紅がライトアップされていて美しかった。
「ぼくの能力はさ、わかりやすかったんだよね。他人に触れれば見えるわけだからさ。知らない場所にいたことも、最初は親に家から放り出されたのかもって思ったんだけど、すぐに異世界だって気づいた。できるのにやらないタイプじゃなくて、だらだら過ごしているだけのニートだったから困ったよ。色々あったり、ホームレスの人たちに助けてもらったり、寝床とか、ごはん貰えるところとかさ。親にもあんまり会わずに部屋にこもっている時と違って、外にいると、誰の体にも触れないことって、難しいんだよね。だから気づいてしまった」
鹿深さんはへにゃりと苦笑する。
「いやあ、そんな真剣な顔で聞くような話じゃないよ。たいして長くもないからさ、立ち話で済む程度。うん、で、ある日ぼくは、お世話になってた人に、健康について遠回しにアドバイスしたんだ。その人はいい人でさ、ぼくの話を聞いてくれて、病院にも行って、ぼくのおかげで命拾いしたって言ってくれてさ。次の日にここに連れてこられたっていう話」
「話が飛んだような……」
「ちょっとした噂も違和感も逃さない組織なんだ」
「誰かが通報を?」
「どうかな、今は違うと思ってるけど。あれ以来、会えてないんだよね。お礼とか、一部には文句とか、言わなきゃならないことはたくさんあるんだけどさ」
「会えないんですか?」
「ぼくの能力は、社会に混乱をもたらすんだってさ」
つまり、快適だとかニート万歳だとか口では言っているものの、鹿深さんは二十年ずっと、ここに閉じ込められているのだ。この建物、この山、この組織の内側に。
「きみの能力は?」
「私、何も覚えてなくて」
「それが能力だったら、社会を混乱させる仲間だね」
寂しいというのはこういう顔なのだろうと思った。もし灯りがなかったとしても、鹿深さんの言葉が皮肉や揶揄ではなく寂しさを主にしていたとわかるような声色だった。
鹿深さんは微笑んでいた。
「なかま、ですね」
何を答えるべきか迷って、そう言った。
「抱きしめていい?」
「え、なんでですか」
「後輩がいい子過ぎて泣ける」
「ええ……?」
私が戸惑っていると、鹿深さんはその場にうずくまって、顔を両手で覆った。覗き込もうとすると避けて今度は頭を抱えた。そのうちに嗚咽が聞こえてきて、本当に泣いているのかもしれないと思って私は目を、どころか顔を向ける方向すらさまよわせた。
「鹿深さん」
「うん……」
「泣かないでください」
「むり……」
いい年したおっさんが、と言ってしまいそうになるのをこらえた。私だって無条件で他人に優しいわけじゃない、ここにいることに疑問を持たないわけじゃない、寂しいって思わないわけじゃない、から。先輩にはしゃんと頼れる姿を見せて欲しい。
「今日だけですからね」
しゃがんで、鹿深さんの頭を撫でる。はじめに触れた瞬間こそ肩が揺れたものの、すんなりと受け入れたようだった。
「この世界でたった一人しか会えないかもしれない仲間です」
「うん」
「この世界で二度と会えないかもしれない仲間です」
「うん」
「だから特別に、抱きしめてあげます」
「うん」
うずくまったままの鹿深さんの頭を撫でながら、背中にも手を回した。背中をさすると鹿深さんは声を上げて泣き出した。ぽんぽんと背中をたたく。中学生の時に職場体験で保育園に行った時のことを思い出した。子どもを寝かしつけるときに一定のテンポでおなかをたたくような、あれ。あくびをかみ殺していると、泣き声がおさまった。
「鹿深さん?」
声をかけてみると、返事の代わりに寝息が聞こえてきた。
「鹿深さん? 寝ちゃったんですか? ここで?」
何なの。放って帰ろうかと浮かんだが、寒い中に薄着の鹿深さんを放置してひとりだけ部屋に戻っても、かえって眠れない気がする。
仕方がないので、呼びかけながら引きずって戻ることにした。引きずっても引きずっても起きない。何なの。引きずって引きずって、推理小説に出てくる遺体を運ぶ殺人犯の気持ちってこんな感じなのだろうかと気を紛らしながら、ようやくエレベーターに乗り込んだ。外はあんなに肌寒かったのに、私はシャワーを浴びて汗を流したいくらいだった。