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キンモクセイ

 毎朝、青名さんが訪ねてくる。はじめ数日は時報代わりと思っていたが、どうせ引きこもっている私にそんなもの必要ないことに気づいて、来なくていいと告げた。

 次の日も、青名さんは訪ねてきた。

「おはようございます、藤解さん」

「おはよう、ございます。寝ます」

「出かけませんか?」

「え?」

「どこへでも。あなたの行きたい場所へ」

 青名さんは、雑用係でも監視係でもなかったのだ。まるでそう、引きこもりのニートを何とかしてとにかく何でもいいから外に出そうと、太陽の光を浴びさせようとする、そういう団体の人っぽい感じ。いやいいです放っておいて。

「何してんの」

伊吹いぶきさん。おはようございます」

 どうやらドアの外にはカレンくんも現れたようだ。

「藤解さんが部屋にこもりきりなので、出かけてみませんかと声をかけているところです。よかったら、伊吹さんも一緒にどうですか?」

「オレ仕事あるし」

「そうですか……」

 そもそも、引きこもりではないのだった。エレベーターに乗ろうとしたら権限がないから動きませんとかアナウンスされたのであって、部屋を出てもこの階しか行き場がないので。私は自主的な引きこもりではなく、軟禁状態にあるのだと主張しておかなければならない。

 あれ、待って。

「出かけるって、外にですか?」

「ええ、ビルの中でも、外の世界でも」

「いいんですか?」

「もちろんです。あなたには自由がありますから」

「エレベーター乗れなかったんですけど」

「えっ。あ、でも、今日は、大丈夫のはずです」

「とりあえず部屋出ますね。着替えるので、お待たせします」

「はい。では、談話室で」

「オレ、もう行くから」

「カレンくん、おはよう。行ってらっしゃい」

「ん。行ってくる」

 インターホンを切って、クローゼットに向かう。出かけるつもりなんてなかったから、外に出るときの格好を考えておかなかった。悩むほどの大量の服がクローゼットにあふれているわけでもないので、無難に無地の白シャツと緑のスキニーにした。靴は黒のスニーカー。どこへ行くにしても、多少は歩くはずだ。私の足を測ったのかと思うくらい縦横斜めまでぴったりのサイズだった。バッグは元から私が持っていたものがある。

「お待たせしました。青名さん」

 談話室、共有スペースでは、青名さんがソファに座るわけでもなく姿勢正しく立って待っていた。スーツよりはカジュアル、デートにしては他人行儀、そんな服装だ。

「いえ。その緑、きれいですね。お似合いですよ。ただ、ビルの中は快適な気温が保たれていますが、外に出るなら、上着があった方がいいかもしれません」

「そうなんですね。ここにいると、季節がわからなくて。どうしようかな」

「それでは、まずは朝食にしますか? 職員が集まる食堂が地上二階にありますよ。テラス席もあるので、日差しや気温を肌で感じられると思います」

「じゃあ、そうしましょう」

 毎朝ここで注文しているランダムおむすびが今日はどんな具材なのか気になるが、このビルの、この組織の雰囲気のほうがもっと気になる。学食みたいな感じなのかな。


 無事にエレベーターは動いて、地上二階に到着した。アナウンスもなかった。青名さんがいるからか、青名さんと一緒だからか。かかった時間から考えて、最初にいた部屋と今の部屋がある階はそう離れていない。それに比べると、地上二階はかなり遠かった。

「先に降りますね」

 頷いて、青名さんのあとに続いた。

 たくさん人がいたらどうしようと気を張ったが、エレベーターホールには誰もいなかった。少し離れたところを行きかう人影が見える。

「このエレベーターは職員の住居がある階には止まらないので、このあたりを通る人は多くないんです。今の時間帯だと、食堂も空いてきていますね」

 青名さんの腕時計を覗くようにすると、文字盤が見えるように手を伸ばしてくれた。十時過ぎ。おなかが空いたとか、眠くなったとか、感覚だけで生活していたが、部屋に時計を置くべきか。朝は青名さんが知らせてくれるし、誰とも約束をしないので必要なかった。

 人通りは多くないが、誰かとすれ違うたびにちらりと見られるので、青名さんに隠れるように後をついていく。歩く速さを私に合わせてくれているのか、体格差のわりに、置いて行かれるようなことにはなっていない。

「ここです」

 床のデザインが切り替わった。

「わあ、広い。広いですね」

 開放感があって、おしゃれですっきりしている。ガラス張りの外に見える景色もいい。何もないけど、とにかく空が青くて、海か湖、その向こうに山が見えている。街中じゃない。

「ここ、地上二階ですよね」

「ですね」

「周り、建物とかないんですね」

「よその建物は無いですね。通うには辺鄙な場所なので、住んでいる人が多いです。特に、研究職の方は、一分一秒でも時間がもったいないということで」

「研究職……」

「櫻木さんや、天守さんがそうですね。私は事務職です」

 こうして案内してくれていると、広報の人みたいではある。

「カレンくんと、朽見さんは?」

「彼らは特殊な立場で……そうですね。名称としては警備職ということになります。彼らが、武器を所有しているのはご覧になったと思います。あれが彼らの仕事です。警察官、軍人、そう思っていただければ近いかもしれません」

「銃刀法とかは……」

「実は、秘密組織なんですよ、ここ」

 ふふふと笑うように青名さんは言った。つまり、法に触れることをしていらっしゃると。大丈夫かな、私、このままこんなところにお世話になっていて。

「ということは、マロウトの存在も、世間的に一般常識というわけじゃないんですか?」

「超能力者とか、霊能者とか、そういった認識です」

「信じるも信じないもあなた次第、ですか」

「証明が難しいですからね。メニューを見ますか? 種類は多くありませんが、味は保証できますよ。談話室で何でも注文できるので、こちらではあえて出すものを絞っています。不自由がないと、自由の価値がぼやけてしまいますから」

「何でもって言われると困っちゃう人いますもんね」

「そうですね。私も、この中からと制限されたほうが選びやすいです」

 ランダムおむすびを注文する私もそちらの仲間かもしれない。


 食堂というよりは、ショッピングモールのフードコートのようだが、いくつものお店が並んでいるわけではない。席について食事をしている人が少なく見えるのは食堂エリアが広いせいで、注文を受けているカウンターには数人の列がある。カウンターから少し離れた場所で、メニューを眺める。カウンターの上に看板で出ているだけがメニューの全部らしい。

「朝でも、ラーメンとか、ハンバーグとかあるんですね」

「朝六時から、夜十時まで、ずっと同じメニューです」

「ここは二十四時間営業じゃないんですか?」

「不自由なのが、ここのいいところです」

 青名さんと並んでいると、高校の同じクラスにすごく背の高い男の子がいたことを思い出した。野球部で、そう、思い出した。放課後に階段裏で泣いていたのを見られたことがあって、放っておけばいいのに、タオルを貸してくれて、そばにいてくれたんだった。青春の香りというか、汗臭いタオルだった。そこから恋には、落ちなかったけど。

 懐かしいことを思い出して笑みがこぼれた。

「藤解さん?」

「いえ、思い出し笑いです」

 話すときに見上げる角度も同じくらいだ。

「なんで」

 誰かの呟きがやけに響いて、青名さんが振り返ると、食器が落ちて床にぶつかる音がした。青名さんが見たほうを、遅れて私も振り返る。男性が口元を押さえて走り去っていくところだった。なんで、と発した人だろうか。

「どうしたんです」

「朽見さん」

「大丈夫ですか」

 周囲の人たちが口々に言う。今の走っていった男性は朽見さんだったのか。そう思えば腰に刀があったような気もしてきた。

 床にばらまかれた食器に割れたものはなさそうだ。飛び散ったものも見えないから、すべてきれいに食べ終えた後だったのだろう。きれいに食べる人って好き。朽見さん大丈夫かな。

「大丈夫でしょうか?」

 青名さんに聞いたところで分かるはずもないけど。

 相槌程度の返事もなく、青名さんは難しい顔で朽見さんの去った方向を見つめていた。

 ドリンクバーに置いてあるコーヒーマシンくらいの大きさのお掃除ロボットがやってきて、食器を回収して、床をモップで拭いて、静かに帰っていった。すごい。もしかしたら、談話室の片付けもロボットが。最初、飲み終えたグラスなどをどこに片づけたらいいのかわからなくて、カレンくんに倣ってそのまま置きっぱなしにしていたら、翌朝には片付いていたのだった。

「藤解さん。部屋に戻りましょう」

 青名さんはそう言って、なぜか私の両耳をふさいだ。耳が冷たいからか、手のひらがあたたかく感じる。促されるまま来た道を戻る。私がお掃除ロボットを眺めているうちに、人が集まってきてしまっていたらしい。彼らが口々に何を言っているのかは聞こえないが、こちらを見て、指していることはよくわかった。


 談話室のソファに沈む。

「すみません。朝食を食べそびれてしまって」

「いえ、青名さんのせいじゃないです」

 というか、誰かのせいなのだろうか。騒ぎの発端は朽見さんだ。でも、彼が取り乱した原因は、もしかして、私にあるかもしれない。ずっと目を合わせてくれなかったのは、顔を見ただけで吐きそうになるくらい私のことが嫌いだからだったかもしれないし、私が自由に出歩いているのが堪えられなかったのかもしれない。

「私、朽見さんに、何かしてしまったんでしょうか」

「そんなことは」

「でも、私は、何も覚えていないから」

 朽見さんの態度の真相とか、私が彼に何もしていない証明とか、何か知っている人がいればいいのに。何もないのは不安だ。

 ごはんの気分ではなくなってしまった。外に出るのも、少し怖い。すれ違う人みんなに見られるのはいい気分じゃない。私が異世界人だから見られるのだろうか。珍しいから。だとすれば、そのうち慣れて気にも留めないようになるのだろうか。いつまで待てば。

 到着音がして、エレベーターのほうを見る。カレンくんだ。

「カレンくん。おかえり」

「ん。ただいま」

「早いお帰りですね。仕事と言っていたように思いますが」

「延期だって。早起きしたのに」

 あくびする口を片手で隠しながら、カレンくんは私の隣のソファに座った。

「あ。カレンくん、いい匂いする」

「ん?」

「金木犀ですね。髪に花が付いていますよ」

 青名さんに指摘されて、カレンくんは頭を左右に振った。短い黒髪から、みかん色の小さな花が香りとともにこぼれ落ちる。

「取れた?」

「まだ。待って、取るよ」

「ん」

 カレンくんはおとなしく私に頭を向けた。髪や肩に引っかかっている花を取る。

「金木犀の木に頭から突っ込んだの?」

「ん、この花の木の下で待たされてただけ」

「うん。うん、たぶん全部取れたかな」

 私がくしゃくしゃと髪を撫でると、カレンくんは鬱陶しそうに首を振った。手で髪を整えるような素振りをする。ちょっと可愛い。

「で、なんでここにいるわけ? 外出は?」

 カレンくんが言った。私は、立ったままの青名さんと顔を見合わせる。

「実は」

 青名さんが食堂であったことを話した。朽見さんの件だ。聞いて、カレンくんは珍しく渋い顔をした。目が合えばとりあえずニコッとしてくれたから、普段はぼんやりした無表情だから、眉根を寄せているのは珍しい。新鮮な気さえする。

「メンタル弱いんだなあの人」

「メンタル?」

「こっちの話。ゆらちゃん、大丈夫だった?」

「何が? 何もわかってないから、大丈夫だよ」

「そっか」

 カレンくんの反応からして、やはり朽見さんのあれは私に原因、理由があるようだ。吐き気を催すほどの邪悪になった記憶はないが、そもそもこの世界での記憶がほとんどない。見るのも無理って、相当のトラウマだと思うが、本当に、何があったのだろう。

「伊吹さん、今日はもう出かける用事はないですか?」

「ないけど」

「それでは、藤解さんの案内をお任せしてもいいですか?」

「いいけど。青名さんは?」

「少し、仕事の話がありまして」

「ふーん。ゆらちゃん、どうする? 外、紅葉でも見に行く?」

 紅葉。そうか、金木犀の季節だから、木々の葉も赤い。秋だ。

「あんまり人がいないところがいいんだけど」

「ここの連中、外に興味ないし、いないんじゃない」

「では、私は。ああ、そうだ。伊吹さん、ひとつ聞きたいことがあるんですが」

 青名さんがエレベーターのほうへ歩きかけて足を止めた。

「何?」

 カレンくんが答えると、青名さんは私を見た。

「あ、私、部屋に戻って羽織るもの取ってくるね」

 私には聞かれたくない話なのだろうと、何か言われる前に逃げた。駆け足で部屋に向かう。何の話かな。気になる。気になるけど、聞いてしまうのも怖い。


 五分くらい待ってから談話室に戻ると、青名さんはすでにいなくなっていた。

「お待たせ」

「ん。行くか」

「うん」

 エレベーターに乗り込む。外に出るので、地上階へ。エレベーターはちゃんと動いた。やはり、誰かと一緒なら動いてくれるのだろうか。

「紅葉って、どんな木があるの?」

「さあ、色々? オレ、木とか詳しくないし」

「そうなの?」

「ゆらちゃんは、右と左どっちがいい?」

「何の選択肢?」

「外に出て、右に行くか左に行くか決まる」

「ええ、どっちにしようかな。そういえばこの建物、湖畔にあるの?」

 カレンくんが答える前に地上階に着いた。開くボタンを押そうとしたカレンくんの服の袖を掴んだ。思わず、つい。手が勝手に動いてしまって。

「ゆらちゃん?」

「外、人がいないか、降りる前に確認できないかな?」

「カメラがある。どれだっけ」

 並ぶボタンを、カレンくんは順に指でなぞる。

「たぶん、これと、これ?」

 どれかのボタンをひとつふたつ押すと、モニターが降ってきた。

「何人かいるな。どうする?」

「このくらいなら」

 大丈夫。耐えられる。そもそも、誰も私になんか興味がないはず。だから大丈夫。自意識過剰なだけ。誰も見てない。誰にも見られてない。私だって見ない。

 エレベーターを降りた途端、空気の流れが変わったのを察したかのように、近くで立ち話をしていたらしい数人がこちらに目をやった。すぐに元に戻る。大丈夫、変わったことがあったから反射的に視線を向けただけで、彼らは私を見たわけじゃない。

 緊張が解けて、掴んだままだったカレンくんの袖を離した。

「こっち」

 エレベーターを出たところから人がいないほうへ進むカレンくんの後ろに続いた。通路のつきあたりにはガラス張りの出入り口があったが、外から見えないようになっているのか、自然光が入ってくる隙間はなさそうだ。エレベーターホールは明るかったのに、ここは灯りこそあれトンネルの中みたいだ。裏口、ということになるのだろうか。

 外に出ると、少し肌寒さを感じた。もう少し厚手の上着にすればよかったかも。トンネルを進むと、曲がった道の先に光が見えた。外だ。日差しがあれば、厚手の上着はかえって邪魔になるかもしれない。秋は難しい。

「出たら、たぶんサルスベリ? 幹がつるっとした木が並んでる。それと、大きなキンモクセイがある。さっきここで待たされてたんだ」

「うん。もうすごく香りがきてる」

 トンネルを抜けると一面に鮮やかな赤が広がっていた。カレンくんの言った通り、幹や枝がすべすべして見えるから、これが百日紅なのだろう。こんなに真っ赤になるんだ。右を見ると金木犀の、本当に高くて大きな木があった。風がある。遠くからでも感じるほどの匂いは、近づいたところで強烈になるわけではなくて、いい香りのままだ。

「ここ、おひさまが気持ちいいね」

 あったかい。厚手の上着はいらなかった。

「ピクニックの用意、取りに戻る?」

「いいね。ここでお昼ごはん」

「酒盛りでもいいけど。誰か誘ってくるか」

「みんなお酒って飲むのかな? あ、でも、千里香さんは未成年?」

「……あの人、あんなナリだけどアラサーだよ」

「え……え?」

 衝撃的なことを聞いた。どう見ても美少女、高校生か、もしかしたら中学生かもしれないくらいに思っていた美少女が、年上の美女だった。えっ、頭の中で言葉にして整理してみても理解が追いつかない。顔だけじゃなくて体つきも、少女って感じだったのに。

「能力の副作用で、成長が止まってるんだって」

「能力? 異世界人じゃ、なかったよね?」

「ただの人間を超能力者にできるマロウトがいたんだ。誰でもってわけじゃないけど。あの人とか、オレと、朽見さんとかは、その適合者ってやつ」

「カレンくん、超能力者なの?」

「ん。目がいいだけ」

 見れば、カレンくんは灰色の目をしていた。透明で、雪の日の空のような色。きれい、ずっと見ていられる。こんな輝きのビー玉があったら、いつもポケットに持ち歩きたい。光にかざして眺めたい。きれい。カレンくんの超能力ってどんなものなんだろう。人よりも隔絶して視力がいいのかな、それとも何だって透視できてしまうのかな。

「近い。ゆらちゃん、キスされたいの?」

「え、ち、違うよ」

「口、開いてた」

「ほんと? カレンくんの目がすごく、きれいだったから」

「そう?」

「うん。宝石みたいに、飾りたいくらい」

「ん。意外と猟奇的な発想」

「あっ。ごめん」

「ゆらちゃんも、その口。突っ込みたいくらい可愛いよ」

「え?」

「指」

「ええ?」

 人の口に指なんて突っ込んでどうするの。毒物を食べてしまったときに吐き出させるとか、でもそれだと可愛いにつながらないか。カレンくんも変なことを言う。なるほどつまり、お互いさまだよと、気にしてないよという意味で。

「うん。ありがとう、カレンくん」

「どういたしまして、ゆらちゃん。バカだな」

 なんかバカって言われた。ここで目覚めた日にカレンくんが冗談だと言ったこと、本当に前から知り合いだったのだろうか。友だちみたいと思っていいのだろうか。


 いろんな落ち葉が散りばめられた道はぐにゃぐにゃと曲がっていて、私は案の定、自分の向いている方向がわからなくなっていた。というか、エレベーターを降りたところまでしかわかっていない。部屋を出たときに向いている方角が、今いるここではどっちになるのか、さっぱりわからなかった。螺旋階段で方角を見失うのは常のことで、アトラクションの入口と出口がたいてい違うから遊園地では迷子になりがち。

 分かれ道があって、カレンくんが明るいほうを指さす。

「あっち行くと湖。湖畔なら、テーブルとか置いてあるところもあるけど」

「じゃあ、お昼はそこで食べる?」

「ん。食料の調達と、青名さんでも誘いに戻るか」

 少し進んでから来た道を振り返った。木だ。緑や黄緑の葉の木々、赤や黄色に色づいた木々。トンネルなんて見えない。木々の向こうに建物があるのは見えるが、出入り口があるとはとても思えない。分かれ道も見えない。

「一回、湖まで行っていい?」

「いいよ」

 湖畔に出ると、車がぎりぎりすれ違えそうな幅の舗装された道があった。湖の際には、ほとんど砂利のような砂浜がある。道は湖の周りをぐるりとめぐっているのだろうか。道沿いは桜並木になっているようだ。真っ赤な葉がざわざわと風に揺れている。

「こんなにたくさんの桜、きれいだろうなあ」

「咲いたら見に来ればいい。ここまですぐだし、毎日、今日はどのくらい咲いたかとか見に来たっていいし。オレも、付き合うよ」

「うん。そういえば、本当に誰もいないね」

「興味もないし、暇もないんだろ」

「カレンくんも、散歩とかしないの?」

「外に住んでたから、毎日この道も走ってたよ」

「あ、ここに住んでないって言ってた。外に住んでたら、通うの大変?」

「自転車で片道一時間」

「近くないけど、遠いってほどでもないくらい?」

「ん。でも、山道だし」

「うわ、坂はしんどい」

 私が顔をしかめると、カレンくんは声を出して笑った。

「楽しかったよ。朝は眠いけど、帰りはコンビニに寄ってごはんとか買って。今夜は何を食べたい気分かなって、考えながら、漕いでたら、あっという間だった」

「コンビニの人、心配してるでしょ。カレンくんが来なくなったって」

「してないと思うよ」

「そんなことないよ」

「戻ろう」

「あ、うん」

 カレンくんが私の手を取って、軽く引っ張った。あんまり話したくない話題だったのだろうか。あふれ出してこぼれるように、幸せそうに笑ったのに。


 お昼ごはんを注文しに一度地下へ戻るべく、もと来た道を引き返す。さわやかな秋の日に外で食べるのは何がいいかな。エレベーターホールに出る前に、カレンくんが立ち止まった。

「カレンくん? どうしたの?」

「青名さんがいた」

「じゃあ、地下に戻る前に声をかけ」

 青名さんはいったいどこに、きょろきょろしながらの私の言葉をカレンくんが手で遮った。ハンドサインとかではなく、口をふさいで。

「あの日の反応、櫻木さんはご存じだったんですよね。なぜ私が選ばれたのか」

 青名さんの声が近づいてきて、ようやく私もその姿を見つけた。カレンくんは目がいい。青名さんは、静香さんの後ろを追いかけているようだ。言っていた、仕事の話だろうか。どちらかというと、不満を口にしているというか、責めているようにも聞こえる声音だ。

「こんなやり方を許すんですか。自由だと言っておきながら、閉じ込めて」

「言っただろう。その件に関して私に権限はない」

「朽見さんの様子も、知らないわけ、ないですよね」

「それは彼の問題だ。自分で向き合ってもらうしかない。優先順位が違うんだ」

「私は、人を傷つけるためにここにいるんじゃない」

「そうだろうね」

「何も知らない人を、騙して探るなんて」

「本当にそうなのか確かめるのがきみの仕事だ。きみが聞かされていなくてもね」

「何も知らなかったら? 忘れているのなら? 余計なことをして、思い出さなくていいことまで思い出してしまうようなことになったら? どうするんですか」

 話しながら通り過ぎて行った二人を見送って、もしかしてこれは私についての話なのだろうかと今さら気がついた。忘れているとか、思い出すとか。

「カレンくん」

「ん」

「今のって、私の話?」

「エレベーター、来たよ」

 呼んだばかりのエレベーターがすぐに来てしまった。

「おや、こんにちは」

「あ、こんにちは」

 誰もいないつもりだったのに、エレベーターには鹿深さんと天守さんが乗っていた。乗りかけた足が一度止まって、それからエレベーターに乗り込んだ。下に向かう。

「ご近所さんになったんだって? 会わないかもしれないけどよろしく」

 鹿深さんがにこやかに告げる。早口気味だが聞き取りやすい声だ。

「はい、よろしくお願いします。あの、ごあいさつにも伺わなくて」

「いやいや、来てもらってもたぶん留守だったと思うから気にしないで」

「お忙しいんですか?」

「いやあ、地下がどうしても苦手でさ。あそこじゃなかなか寝られないんだよね。そのうち保健室で寝泊まりするようになって、今となってはあそこは物置部屋だよ」

 エレベーターが到着すると、鹿深さんはじゃあと手を上げて降りて行った。天守さんも何も言わずにそのあとに続いた。

 談話室の注文タッチパネルを手に取って、ソファに座る。

「あ、二人をピクニックに誘えばよかった」

「もう食べたんじゃない、昼ごはん。二階から乗ってきたみたいだったし」

「そっか、食堂で」

 自分で言っておきながら少しほっとした。もし本当に誘ったとして、カレンくんや青名さんと違ってあまり話したことのない人たちと、場が持つのか不安になる。とくに天守さんは、何も話してくれない気がする。いや、その前に断られるか。

「カレンくん。お弁当たくさんあるね。わあ、これ決められないやつだどうしよう」

「ゆらちゃんって」

「うん」

「切り替え早いな」

「うん。すぐ諦めすぎってよく言われた」

 私としては、他人が触れてほしくなさそうなところに突っ込まないとか、ややこしいもめごとになる前に引いておくとか、悪いことじゃないとは思うんだけど。もちろん、カレンくんのことだって、青名さんたちが話していたことだって、気にならないわけではない。この組織のことや、自分の身のふりかたなんかは、もっと気にするべきなのだろう。

「……誰に?」

「……誰だっけ」

 首を傾げる。両親ではなくて、友だちは誰かしら言いそうな気もするが、言ったというはっきりした記憶はない。すぐに諦めすぎる、もう少しねばっても、もう少しわがままを言ってもいいんだって、言われたような気がするんだけど。

「わがまま、言ってないことないよね、私」

「オレよりは言ってないよ」

「カレンくん、わがままなんて言ってた?」

「ん。つい最近。酷い、とても酷い嘘を吐いた。後悔はしてないけど」

 嘘とわがままは違うんじゃないか、そう言いかけてやめた。カレンくんは目を伏せて、自分の手をぼんやり見ていた。後悔していないというのも、嘘なんじゃないのか。それも口にできなかった。どこまで踏み込んでいいかわからないから。傷つけたくないから。違う、きっと、傷つけたといって責められたくないからだ。


 荷物を抱えて地上へ戻っていく鹿深さんと天守さんを見送った。そのままエレベーターのほうを眺めていると、どれくらい経ってからか、青名さんが降りてきた。

「藤解さん、伊吹さん。戻っていたんですね」

 青名さんは普段のふんわりした雰囲気に戻っている。さっき静香さんに声を荒げていた時の表情なんてもう忘れてしまいそうだ。

「外でごはんを食べようって話してて、お弁当を注文するのに戻ってきたんです」

「外で、ですか。残念ですが、先ほど雨が降り出したところですよ」

「そうなんですか。あんなにいいお天気だったのに」

 雨がひどく降るなら、金木犀が散ってしまう。

「外、見てきます。あ、でも、一人じゃだめか」

「大丈夫ですよ。一人でエレベーターに乗れます。どこにでも行っていいんです」

 ソファから立ち上がって、エレベーターに入ってみる。アナウンスはない。顔を出してみると、青名さんがいってらっしゃいと言うように手を振った。カレンくんは、ソファの上でうずくまったまま動かない。地上階に行くボタンを押してみる。

「あ」

 ドアが閉まる。ちゃんと動く。地獄行きとかじゃないよね。

 地上階に着いて、深呼吸をしてからエレベーターから降りる。周りを確かめてからにしようと思ったのだが、カレンくんがやったようにモニターを出す方法がわからなかったので諦めた。幸いに人影はまばらで、忙しいのか誰もこちらを振り向かなかった。外で雨が降っているかどうかここからでは見えないが、さっき来た時よりも外からの光が弱いかもしれない。

 トンネルのほうへ通路を進む。つきあたり、出口のドアも私を通してくれた。誰かと一緒ならと言われていたが、一人で出てもいいのだろうか。ためらったが進むことにした。

「寒いんだった」

 ついさっきのことなのに外の気温を忘れていた。日差しがなければ肌寒い。

 トンネルを抜けると、雨が降っていた。霧のような、音のない雨だ。

「きれい」

 同意を求めようと、後ろにいる誰かを見上げた。誰もいないのに。誰もいないことなんて、知っていたのに。私はそこに誰がいると思ったのだろう。忘れてしまった記憶の中にその人はいるのだろうか。

 雨が、もっと土砂降りだったならよかった。うるさいくらいに、何も聞こえないくらいに降っていたなら、紛れて叫んでみることもできた。音のない雨。頭に、肩に、触れても痛くない優しい雨が降っていた。誰を思い出せばいいのかわからないから、涙も出ない。

 落ち葉が足音に気づかせる。音のほうを向くと朽見さんがいた。

「朽見さん?」

 目は合わせてくれないが、とりあえず顔色は悪くなさそうだ。

 みかん色の折り畳み傘が、ぐっと突き出された。

「これ。お前の傘だろう」

「あ、ほんとだ」

 受け取って広げてみると、たしかにそのようだ。

「あり」

「言うな。絶対に、言わないでくれ」

 お礼の言葉はいらないとのこと。言いかけたありがとうは、口の中で終わらせた。首をひねる。何のおまじないかは知らないが、そうして欲しいなら言わないでおこう。

「この傘、きれいな色でしょ。お気に入りなんです。いつも入れっぱなしなのに、バッグの中になかったから、この世界に持ってきてないのかと思ってました」

「拾った」

「拾ったんですか」

 いや、どこで。

「しばらく、外にいるのか」

「どうしよう。うん、ちょっと散歩してから戻ります」

「そうか」

 眉間にしわを作って、朽見さんは小さく息を吐いた。ミリタリージャケットを脱いで私のほうへ突き出す。意外な行動に驚いて私が反応しないでいると、朽見さんはジャケットをふわりと広げて、傘ごと包むように私の背に回した。体温が残っていて、あたたかい。

「え、あ、あり、じゃなかった。ええと、どうも?」

 厚意に対してありがとうと言いかけて自制する。セーフ? 今のセーフだよね。朽見さんは曖昧にうなずいて背を向けた。セーフだと思う。危ない危ない。

 朽見さんは出入り口のほうではなく、湖のほうへ行く。湖岸の道を歩いてどこかへ行くのだろうか。ちゃんとした正門、正面玄関がそちらにあるのかもしれない。

 後をついて行ってみることにした。私がついてくると気づいたからか、朽見さんは歩きながら視線をこちらへ向けた。笑顔で返すと、視線を戻すだけでなく歩く足を速める。結局のところ、朽見さんは私を嫌っているのか、そうでもないのか。

 湖に出て、左へ。少し行くと、桜並木は途切れ、柳や楓、銀杏など、たくさん人を集めてそれぞれに好きな木を植えさせたようなことになってきた。七竈。あっちは、たぶん花水木。それから、楠、松、柿。たくさん実がなっているのに、地面に落ちていて、誰も世話をしていないらしいことが分かった。あ、金木犀の香り。

「あれ?」

 きょろきょろしながら歩いていたら、朽見さんを見失っていた。早歩きで行ってしまったから、気づくよりもっと前から置いて行かれていたのだろう。

 そろそろ戻ろうと、傘の雨粒を振り払ってくるりと回った。

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