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余香

「あっ」

 誰かいる。

 私が目を開ける前にその声は言った。

「目を覚ましたのね」

 仰向けに寝ているから、きっと天井にあるだろう灯りが眩しい。寝ているときは気にならないのに、なぜ起きてしまったら眩しく感じるのか。そんなことはともかく、目を開ける。体を起こそうとすると誰かの手に止められた。

「いいの、寝ていて。先生を呼んでくるね」

「はい」

 と、私は答える。いや、答えたつもりだが声は出なかったかもしれない。

 静かに扉を開け閉てして部屋を出て行った少女らしい姿を見送って、部屋の中を見回した。殺風景な部屋。どこかのビルの小さな会議室のような場所に、ベッドと椅子があって、ベッドの足元のほうにはパキラの鉢が置いてある。浮いた感じがする。ああ、そうか、観葉植物に違和感があるのは、この部屋に窓がないからか。どこだろう、ここは。

 部屋の外から大きな音で足音が近づいてくる。それも、いくつも。足音のうち一つはさっきここにいた少女のものとして、もう一つは彼女が呼んでくると言っていた先生おそらく医者か何かのものとして、ほかのいくつかは誰だ。

「彼女が目を覚ましたんだね?」

「何か話したか?」

「何も話してないけど、ついてくる気なら静かにしてよ」

 どうやら、私が目を覚ますのを待ちくたびれさせていたらしい。

 引き戸が開けられる。騒がしい開け方だと思ったら案の定、そこに現れたのは彼女ではなかった。ひとり、ふたり、さっきの少女、みたり、よったり、それから最後にいかにもお医者さんですよという荷物の白衣の男。ひとりずつ部屋に入ってきて並んだ。

 目を瞬かせて見ず知らずの彼らを眺めていると、部屋の中には沈黙が満ちる。私に何か重要な話がある、というわけでもなかったのか。

「失礼しますね」

 白衣の男がベッドのそばにかがんで、私の手を取る。

「はい、大丈夫ですよ」

 脈をとっただけのようにしか思えなかったが、診察は終了したようだ。特に何か言うこともなく、部屋を出て行った。そしてまた静けさが戻る。

 先の二人はスーツ姿で、もごもごと口を動かしたり、手帳を取り出して意味のない動きでペンを走らせたりしているので、話したいことはある様子。後の二人は、護衛か何かだと思われる。だって、武器を持っている。それぞれ腰に銃と刀が見える。本物かどうか、私にはわからない。銃のほうの男と目が合って、するとその顔はパッと笑顔を作った。手を振られたので、とりあえず小さく頭を下げた。刀のほうの男は、絶対に私と目を合わせないと決めているかのように、パキラのあるほうを見ていた。

「こんにちは。ここは、どこですか?」

 いつまでも黙っていても仕方がないので、私から聞いてみることにした。

 先の男ふたりは互いに顔を見合わせて、それから少女に救いの手を求めた。二人の男からの視線を受けて、彼女はあきれたように大きなため息をついてみせて、前に出た。

「こんにちは。ここのことを話す前に、あなたに確認したいことがあるの。いい?」

「はあ、何でしょうか」

「目が覚める前のことは、どこまで覚えている?」

 目が覚める前のこと。ふむ。大学を出て歩いていたのが最後の記憶ではある。そんなありふれた日常の何を、どこまで覚えているかなんて聞くのだろうか。

 反応を見るために、首を傾げてみた。

「覚えて、ないの?」

 彼女が、思ったよりも悲痛な表情を浮かべたので、悪いことをしたかもしれないと内省した。いや、あの、えっと、と、フォローの言葉を探したが、言われてみればここに来るに至る道のりについては何も心当たりがなかった。

「覚えて、ないっぽい? です」

「何も?」

「大学から家に帰る途中で……そこまでしか」

 スーツの二人がこそこそと何か話す。

「あの、それ、聞かれたくない話ですか?」

 だとしたら私がいないところでやって欲しい。気になってしまうから。

「え、いや……すまない。そういうわけじゃないんだ。あなたには、どこからどう説明したものか。まず。ここは、あなたの生きてきた世界ではない」


 ベッドに寝て、布団を頭まで被った。十数えて、それから起き上がる。世界は変わってなどいなかった。スーツ姿の男が二人。可愛い女の子が一人、武器を持った男が二人。よく見たら、スーツの片方は少女と似た顔立ちのような気がする。

 日本語が通じている。見た目も日本人に見える、いやこの際、極東系の顔立ちかどうかはどうでもいい。一口に日本人といっても北国から南国までいろんな人がいるから。少なくとも、猫耳とか犬尻尾とかが生えている気配はないし、顔色が青とか緑とかでもなければ、羽が生えていたりもしない。耳もとがってはいない。たぶん。

「もう一度お願いします」

「ああ。ここは、あなたの生きてきた世界ではない」

「つまり?」

「あなたにとっては、別世界、異世界ということになる」

「私、そんなに、どう見ても異世界人って顔してるんですか?」

「え? いや、ここは日本だが、問題なくなじめる顔だと思うよ」

 ここ、日本なのか。

「でも、だったら、どうして異世界だとわかるんですか?」

「あなたの場合は、目撃者がいたからだね。突然、現れたと」

「イリュージョンかも?」

 少女と似た顔のほうの男は笑った。

「そもそも、この世界では珍しいことではないんだ。異世界からの客人マロウトはね。我々は彼らを保護、支援する活動をしている団体で、ここは日本支部のビルだ」

「保護、ですか?」

「そう、保護だ。彼らは特殊能力を持っていることがある。悪用されないように、悪用する必要がないように、安全に、平穏に暮らせるよう、サポートするのが我々の任務の一つだ。とはいえ、見た目だけでそうとわかるマロウトはいないからね。世界には、我々の知らないところで生きているマロウトのほうが、きっと多い」

 とりあえず。話を鵜呑みにするなら、私は異世界に来た。この世界ではよくあることで、この人たちは、私のような時空間迷子を保護する世界的組織。

「えっと、私はこの世界に現れて、そのままここに連れてこられたってことですか?」

 私の問いに、スーツの男は微笑みを浮かべたまま。だが、もう一人の、手帳に何かを書き記しているほうの男が眉を寄せたのを私は見た。他の人の様子も見てみる。少女は努めて平静な顔をしているようだ。刀の人は相変わらずパキラを見ているが、しいて言うなら、さっきよりも出入り口に近い。銃の人は、目が合うと、困ったような顔で微笑んだ。

「あなたが現れたのは、地方都市、深夜のコンビニの店舗内。コンビニエンスストアとは何か、説明は必要だろうか?」

「大丈夫です」

「オーナーは通報せず、所有するアパートの空き部屋にあなたを住まわせ、コンビニでアルバイトとしてあなたを雇用した。そのあたりの記憶がなぜかあなたにはないようだが、まあ、そのあと色々あって、我々はあなたの存在に気づき、保護したんだ」

「まったくわからないですけど」

「すまない。我々も把握していない」

 なるほど。

「ところで、これからのことなんですけど。私は保護されて、安全に、平穏に暮らせるということでいいんでしょうか? 帰る方法とかは?」

「残念だが、帰る方法はわからない。我々が保護できたマロウトはせいぜい五十年に一人といったところで、いまだに多くのことが謎に包まれている。マロウトがすべて同じ場所から来たのかどうかさえ、はっきりと結論できていないんだ」

「そう、ですか」

「もちろん、あなたにはできる限りの支援を約束する。ただ、」

 男は言いよどむ。交換条件なしの保護、支援というわけにはいかないのだろう。マロウト研究に協力する、とかかな。ちらっと言っていた特殊能力がなんとかかんとかかも。軍事研究みたいになるならお断りしたい。そもそも、コンビニ兼アパートのオーナーさんのおかげで私は不自由していなかったようだし、そこに戻らせてもらうということもあり。ああでも、何か私が迷惑をおかけして、この団体に身柄引き渡しとなったのかもしれないのか。

「私にも、特殊能力ってあるんですか?」

「え、いや……そう、だね。きっと、おそらく」

「そういうの、判定できる装置とかないんですか?」

「それが、無いんだ。過去に、そういう能力を持ったマロウトがいたという記録はある。他者の能力を知る能力。我々こちらの人間の場合は、才能の芽が見えたそうだ」

「ゲームみたい。すごいですね」

 ステータス、オープン。

 鑑定スキル発動。

 それらしい雰囲気で念じてみたが、無理そうだ。

「私にはできないみたいです」

「そうだね。そのことなんだが、あなたの能力が社会に混乱をもたらさないか、判断できるまで、無条件の自由は認められない。あなたには、このビルの中で過ごしてもらうことになる。必要なものはすべて支給される。我々の誰かと一緒なら、ビルの外へ、外出も可能だ」

「なるほど」

 話はわかった、と言えればいいが、当たり前と思っていたところから外れ過ぎてまだ納得できていない。頭がこんがらがっているときに雑に返事をするのは危険だ。

「ねえ、自己紹介しない? 名前だけでも」

 少女が言った。

「私、櫻木さくらぎ千里香ちりか。こっちは兄、静香しずか

「ご兄妹なんですね。私は藤解とうげゆらといいます」

「ゆらさんね。あとは、天守あまもりさんと、朽見くちみ、カレンくん」

 少女が櫻木千里香さん、お兄さんが静香さん。手帳の人が天守さんで、刀の人が朽見さん、銃の人がカレンくんさん。俯いて、千里香さんが指さし教えてくれた名前を頭の中で繰り返す。覚えたかどうかは怪しい所だが、うん、たぶん大丈夫。

「ゆら」

 名前を呼ばれて顔を上げた。部屋の中の誰も、私を呼んだような風には見えなかった。空耳。首を傾げる。呼ばれたような気がしただけだったのかもしれない。


 千里香さんと天守さんと朽見さんが部屋を出て、しばらくして千里香さんだけが知らない誰かを連れて戻ってきた。彼女は部屋に残っていた二人の顔を見て、私に尋ねた。

「何か、あったの?」

「何もないですよ。静寂だけがありました」

「あ、そう」

 本当に。千里香さんがいない間、誰もしゃべらなかった。

「あなたの部屋に案内するわ。歩けそう?」

「大丈夫、だと思います」

 ベッドから抜け出してみて、地に足をつけ、体重を移動する。大丈夫だ、立てる。足を動かしてみた、歩けそうだ。見覚えのないパジャマや病院着のようなものを着せられているわけでもないので、長い間ここで寝ていたということもないだろう。

「よかった」

 微笑んで、千里香さんは扉を開けた。千里香さんが出て、静香さんがそれに続いて、カレンさんは私にお先にどうぞと示した。それに従う。

 廊下だった。左右を見たが、窓一つない。

「ここは地下なの」

「ああ、そうなんですね」

「ゆらさん、紹介する。彼は青名あおな。彼がしばらくあなたのそばについていることになるけど、雑用係とでも思ってくれたらいいから。何でも言ってね。本当は、同性のほうがいいと思ったんだけど……上から、手が空いてるのは彼しかいないって言われちゃって」

「上が?」

 反応したのは私ではなく静香さんだった。

「え、いや。気にしないで」

「あ、はい。えっと、よろしくお願いします、青名さん。藤解ゆらです」

「はい。よろしくお願いします」

 青名さんはふんわりした雰囲気の人だ。分かりやすく微笑んで見せるわけでもなく、かといってとっつきにくさを感じさせない。体格はがっしりしていて、背も私より三十センチくらいは高そうだ。筋肉質に見えるが、威圧感がないのはすごい。懐かしい感じがするのが不思議、このくらいの身長体格の友だちか誰かいたかな。


 千里香さん、静香さん、私、青名さん、カレンさんの順番で歩く。殺風景な廊下。グレイの壁、床。観葉植物もなければ壁掛けの絵も飾りも何もない。

 エレベーターに着いた。列のまま乗り込んで、千里香さんがボタンを押す。あれ、今このエレベーター、下に向かって動いたような気が。

「部屋って、地下ですか?」

「ええ、部屋はまた地下になるんだけど、でも、窓の代わりに、好きな景色を映像で流せるディスプレイがあるから、さっきの部屋ほど寂しくはないと思う。私はいつも、海の中にいるみたいな映像を流してるの。兄さんは砂漠の夕景よね」

「ああ」

「それって、リアルタイムで世界中のどこかの映像が見られるんですか?」

「残念ながら、リアルタイムではなく、撮影された映像だ。とはいえ素材はたくさんあるし、更新もされているから飽きることはないはずだよ」

「櫻木さん、お二人もここに住んでいるんですね。カレンさん、青名さんも?」

「カレンか、カレンくんでいいよ。オレは住んでない」

「私も、外に家があります。ほとんど帰っていませんけどね」

「着いたわ」

 乗った順と同じでエレベーターを降りる。

「わあ、すごい」

 声が漏れた。エレベーターホールからして、さっきの階とは全く違った。どこかの立派なホテルみたいに、明るくて、凝ったデザインがされている。全然違う。

 エレベーターホールの脇に、テーブルや椅子の並ぶ場所があった。

「ここは、談話室、みたいな共有スペース。あっちの壁にモニターがあるでしょ」

「はい」

「食事とか、飲み物とか、おやつ、お酒もおつまみも、何でも注文できるの。二十四時間。モニターの隣の小さなドア、あれがエレベーターで、ものによってかかる時間は変わるけど、たいていすぐに届けてくれる。便利でしょ」

「すごい」

 それを人力でやっているのか、機械でやっているのかが気になるところ。

「何か頼んでみる?」

「先に部屋の案内だよ」

「そっか、そうね」

 静香さんが本題に戻したので、私たちはエレベーターホールに背を向けた。

 五十歩くらい進んだところで、千里香さんが足を止めた。ある部屋の前だが、私の部屋ではなさそうだ。鹿深と表札にある。

「ここは、鹿深かふか先生の部屋」

「先生……さっきの?」

「ええ。それで、ゆらさんの部屋は、この隣の隣」

「隣には誰か?」

「空き部屋よ。先生の隣がよかった?」

「いえ、別にそういうことでは」

 ここまで歩いて、左右の部屋たちに表札が出ていたのが、鹿深さんともう一軒だけだったのは、もしかしてそれだけしか住人がいないのだろうか。こんなに豪華なのに。空き部屋だらけだなんてもったいない。地下だから不人気なのか。

 私の部屋と案内されたのは、廊下のつきあたりから一つ手前の部屋だった。鹿深さんと同じ、エレベーターホールから歩いてきて左手の部屋。

「じゃあ、これ。この部屋の鍵。鍵以外にもロックの方法は選べるけど、それは中で確認して。私たちはここまで。分からないことがあったら、内線電話でも、あっちの共有スペースの通信機でも、斜め向かいのそこの部屋に住むことになる青名にでも聞いてね」

 え、ここに来て丸投げされるの。

「部屋にはお風呂もトイレもあるし、日用品や服も用意されているわ。キッチンはあるけど、冷蔵庫はないから、自分で料理するなら共有スペースで食材を注文してね」

 はい。ええと、まずは、頭の中に地図。いや一本道で迷いようはないが、あんまり方向感覚のいいほうではない自覚がある。地図は読めるのだが、現在地と方角が怪しい。

 共有スペースさんは何でも注文できるということだが、用意された服の趣味が合わないとか、部屋にインテリアを置きたい相談なんかも聞いてくれるのだろうか。いや、その前に、私がいつまでここにいることになるのかが問題だ。長くなりそうなら、快適にしたい。

「青名さん、ここに住むんだ」

「ええ、そのようです」

「じゃあオレも住もうかな」

「カレンくん、ここ嫌いじゃなかった?」

「嫌いだけど」

「なのにどうしたの」

「いや、彼女。寂しいかと思って」

「……珍しいね」

「……きついだろ」

 千里香さんとカレンくんが何やら神妙な雰囲気で話をしている。内容は把握できなかったが、静香さんのほうへ少し立ち位置を移動させた。他人様の深刻な話は聞かないに限る。

「静香さんたちも、この建物に住んでいるんですよね?」

「え、ああ。いや、別の階だけどね」

「そうなんですか」

「この階より一つ一つの部屋は狭くて、その分、住人が多くて賑やかだよ」

「この階は、お客さん用ってことですか?」

「そういうわけでもないが、マロウトがいつ保護されても使えるように空き部屋をキープしてあるのは確かだと思うよ」

 五十年に一度出会えるかどうかの存在のための空き部屋か。

「ゆらさん、カレンくんもここに住むことになったから、頼ってあげてね」

「えっ、はい」

 千里香さんの言葉に反射的に返事をして、カレンくんを見た。カレンくんは、目が合うと笑顔を作った。隣で青名さんが苦笑している。

「よろしくお願いします」

「よろしく、ゆらちゃん」

 え、待って距離感。


 一行は解散し、私は与えられた部屋に入った。

 ひとり暮らしには十分すぎる広い部屋だった。バストイレ別とかいう次元じゃない。浴槽はゆったり広く、もちろん洗い場だって広い。お風呂でぼんやりするのが好きな私にはとても贅沢な部屋だ。キッチンも広くきれいだったが、共有スペースが何でも用意してくれるというので、わざわざ自分で料理をして汚す気にはならなかった。

 シャンプーの香りや、クローゼットの中身、布団の手触りを確かめて、さっそくわがままを言うため部屋の外に出ることにした。もう少し小さい歯ブラシが欲しい。

「あ」

 ドアを開けると、カレンくんが壁に背を預けて立っていた。廊下は広いので、向こう側の壁がすぐ近くというわけではないが、ドアの前はさすがに驚かされる。

「ど、う、したんですか?」

「敬語、ナシでいいよ。たぶん歳、近いし」

「あ、うん。それで、どうしたの?」

「見張ってた」

「え」

「ジョーダン」

 ニコッと笑顔で言われた。銃を持っている人に、お前を見張っているなんて言われたら、心臓に悪い。胸に手を当ててみなくてもどきどきしている。

「ごはん、食べるかと思って」

「あっ、なるほど。初めての私にレクチャーしてくれるということ」

「ん、それでいいや」

 カレンくんと共有スペースでご飯を食べることになった。向かう途中、青名さんの部屋の前で、カレンくんが引っ込んでろとでもいうようなジェスチャーをした。私が見張られているというのは本当なのかもしれない。雑用係、その実は監視係。みたいな。


 共有スペースのソファは革張りで、ほどよい弾力だった。寝られる。

 五分くらいソファでだらだらして、それから、目的の歯ブラシを注文した。今あるものより小さいもの、というだけで通った。すぐに三つ届けられた。それぞれ硬さが違う。必要ないものはエレベーターに戻して、どれでもない場合はもう一度詳細に注文してくださいとのこと。次に何か頼むときは、先にもう少し具体的な説明を考えてからにしよう。

「さて、ごはんです」

「ん」

「ところで、カレンくん。今、何時なの?」

「夜だな。もうすぐ七時」

 尋ねると、カレンくんは腕時計を見て答えた。そうか、夜ごはんになるのか。私には記憶がないので、前回いつごはんを食べたか覚えていない。

「ゆらちゃん、何食べたい?」

「思いつかないんだよね」

 壁から外して持ってきたタッチパネルのディスプレイを二人で覗き込む。和食に中華やイタリアン、肉か魚か、麺類一覧、あたたかい冷たい、カロリー、片手で食べられるかどうか、色々な検索方法がある。店舗名からテイクアウトも頼めるようだ。

「とりあえず酒飲も」

「カレンくん、飲む人?」

「ん、たまに」

「じゃあ私も飲もうかな」

 お酒から検索して、カレンくんはバラライカというカクテル、私はレベッカというバーボンを注文した。注文はすぐに届いた。レベッカは、ボトルと、チェイサーの水も一緒に。緑のドレスの女性が描かれたラベルが可愛い。

「こんなとこにいていいの?」

 カレンくんが言った。

「こんなとこって、カレンくんここの人でしょ。私、何もわかってないから、とりあえずはここにいるのが安泰なのかなって思ってるよ」

「ほんとに何も覚えてないんだ」

「なんかそれ、気にされてるみたいだね。私、何かしたのかな」

「……あんた、何も悪くないよ」

 カレンくんの言葉だけでは、結局、私は何も理解できない。

「オレら、前に会ったことあるって、言ったら信じる?」

「ごめん。わからない」

「ジョーダンだよ」

「わからないよ」

「ん。だから、ゆらちゃんは気をつけろよ」

「知り合いを装って近づいてくる人に?」

「ん」

「でも」

 そんなの、どうやって判別できるというのか。カレンくんの言った言葉が本当かどうかも私にはわからないのに、難しすぎる。前にそういう能力の人がいたとかいって、持ち運びに容易で高性能の嘘発見器とか作ってないんだろうかここ。

 カレンくんはバラライカを二口くらいで飲み干した。

「部屋、戻るよ」

「あ、うん。おやすみなさい? かな?」

「ん。おやすみ、ゆらちゃん」

 カレンくんは、タッチパネルをもとの場所に戻すと、宣言通り行ってしまった。私の斜め向かいの部屋、青名さんとは隣の部屋が、カレンくんの部屋になったそうだ。逃げ場がないように囲まれているのか、やはり監視されているのだろうか。

 私はソファに捕まっていて、立ち上がることができない。レベッカもまだ残っている。ごはんを食べるかどうかだってまだ決められていない。

 何も覚えていないのに、何かを忘れているような気がした。

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