秩序と非秩序
現行の社会は色々な事を整備し、色々な秩序ができあがっている。その中で、生きるという事のハードル自体も上がっている。いわゆる「底辺」と呼ばれる層が、明日食べるものに困るという事もない。
今は色々な事が言われているが、生きる事のハードル自体が上がっているので、そのハードルの上を行かなければ「生きている」という気がしない、という風になっている。それらはそう思い込んでいるのであって、別にどうなっても生きられるのだと腹を括れば、生きられるだろう。もっと貧しい国、本当に飢えている国からすれば我々の国は「問題が解決した国」であるが、当のそこにいる我々は「問題は山積している」と感じる。それは何故なのか。
自分はこう言う事で、貧しい国に何か仕送りをしろ、なんて言いたいわけではない。問題を相対化したいだけだ。
そういう人はよくいるが、「物」に囲まれただけで満足する人というのがいる。新車であるとか、ランクが上の品物を身の回りに置いておけば、満足する人。また、現在では人間も物質化しているから、ランクが上の、物化した人を身の回りに置いておけば満足するという人もいる。しかし、彼らに言及していけばキリがない。
現在の、一人一票、自分には権利があるという社会では、誰しもが自分の意見や考えを言う権利があるという風になっている。こうした社会で、それぞれの人がそれぞれに意見を言う。そこに同意や批判が起こる。が、本当に「その人の意見」「個性」というようなものに巡り会えるのは極めて稀だ。しかし、意見を吐いている人は「自分の意見」を言っているはずである。どうしてそんな齟齬が起こるのか。
例えば、物に囲まれれば満足である、それこそが一流であると称する人は、その人が自分で考えた意見ではなく、社会がそうであるからそう考えるという風に、自分は考える。恋愛は素晴らしい、という人は、その人が恋愛体質であるとか、社会や経済が恋愛を推奨するとかいう所から現れてくる。
もっと考えてみれば、例えば、僕が誰かを好きになるとして、「好き」だとかあるいは「性欲」というものは僕が望んだものではない。僕が男に生まれた事も「望んだ」わけではない。それは偶然である。外側から与えられたものだ。しかし、それを人は、自分が「望んでいる」と解する。ここに微妙な欺瞞が生じる。しかし、この欺瞞がなければ、あらゆる社会的行為、生活は不可能になるだろう。
例えば「人を殺してはいけない」というのが正しいとされるのは、我々が、なんとなく生きる方向性に運動しているから出てくる答えであろう。もし、我々が死の方向に運動しているのであれば、「人を殺すのは良い」となる。だが、もしそうなると、そんな種族は生きながらえないから、そうした生命は滅びる。滅びると、同時に「人を殺すの良い」という倫理も滅びる事になる。だから「人を殺してはいけない」という倫理の方が残りやすい、とは言える。
ただ、この際、自分はそれらの倫理を価値付けするつもりはない。ただ、そういう風にやっているんだな、と思うだけだ。現行、人間は「人を殺してはいけない」という倫理でやっているが、戦争になれば「人(敵)を殺すべきだ」という倫理に変わるだろう。それは相手方もそうであるから、そうやって生命の数が減少すると、どこかで倫理も転化するのだろう。もし、この転化がなければ、その民族はさっき言ったように滅びるわけだから、「殺すべきだ」という倫理も消える。
これらの事には良いも悪いもないと自分は思っている。ただ、人間という種はそういう風にやっている生き物であると考える。で、自分もそんな中で生きているというだけだ。
話を戻すならば、現在、人は何らかの秩序を作って生きている。「こうでなければ駄目」「〇〇になるためにはどうすればいいか」と散々に議論して、自分はその中にいると考えたり、外れていると考えて、ルサンチマンに転嫁したりする。そこではインサイダーもアウトサイダーも、社会が強いた境界線を疑わないという点では一定である。この境界線の内部、更に上方に上がれば、生が昇華されるというのは、社会が我々に見せる幻想、神話であると思っている。もちろん、この神話は必要とされているわけだが、神話が必要とされる事と、それが正しいというのは別であると感じる。
では、何が正しいとお前は考えるのか? と言われれば、それは生きる事は悲しいものだと言っても良いし、作られた神話が夢であり、人の一生は幻であり、ここで言えば、「何が正しいか正しくないか」という論理それ自体が相対化される(仏教の「空」概念のように)地点が「正しい」というような事だ。
自分はそういう場所に立つが、その場所に立とうとする事も、僕という人間が自ら望んだ事ではない。望む、という事柄自体が外側からやってくるのだが、それが自分のものではないと気付くと、望む事はやむのかーーいや、おそらく止む事はない。ただ、自分にとって自分が客体化され、文字通り自分がお客さんのようになるという事だろう。僕は他人の前に出ると常に自分というものを演技しているように感じる。それは、今この文章を書いているものもそうであり、本当に「自分の意志」というものを求めると、もはや表現形式を失い、透明な幻となってしまう。透明な幻としては人は生きてはいけない。そこで、何らかの形で世俗的な形式を借りてくる事になる。例えば、社長になって金持ちになるのを目指す、というような。




