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私、ぶん殴りたい奴がいます!

作者: 薬師寺 創

「おはよーございまーす」


 ガラガラと音を立ててゆっくりと開いたドアから、茶色の髪の毛を揺らして入ってきた男はだるそうに挨拶をした。時計の短い針は十を通り過ぎている。せかせかと動く時計の秒針とは反対に、クラス中の視線を浴びる背の高い遅刻ちこく男はダラダラと教室を歩く。


「おー、遅いぞ、大垣おおがき


 一言、黒板に英文を書いていた先生が手を止めて遅刻クソ男に注意したが、それ以上は何も言わなかった。言っても効果がないと諦めているのだと思う。実際、この不良は先生の言うことを一度でも聞いたためしがない。ならば、今後遅刻しないように長時間お説教するのは時間の無駄むだというわけだ。


「すんません。寝坊しましたー」


 へらへらと笑う男の顔に反省の色は見えない。どうせまた明日も遅刻するに決まっている。私は精一杯の怒りを込めて男をにらみ付けたが、男の眼中(がんちゅう)に入っていないのか、全く効いていない。


 男が席に座ると、男の登場によって止まっていた授業が再開した。二年生になって少し難しくなってきた英語の説明が始まる。過去形とか、時制がどうだとか、正直わけがわからない。でも、頑張らなくちゃ。英語話せたら格好良いしね。


 私が気を引き締めて授業に取り掛かろうと思ったその時だった。ピロロロ、ピロロロ。スマートフォンの着信音が教室中に鳴り(ひび)いた。


「あー。すんません。俺っす」


 悪びれる様子もなく笑いながら立ち上がったのは先ほどの遅刻男である。スマートフォンをカバンから取り出し、耳に当てながら堂々と教室を出て行く姿に誰も何も言わなかった。みんな慣れっこなんだ、不良少年、大垣翔太(おおがきしょうた)の自分勝手な行動に。そして、それは直るものではないと、みんな翔太を見捨てているんだ。


 ——いい加減にしなよ、翔太……!


 心の中で叫ぶ。それと同時に、手に力を入れすぎて、持っていたシャープペンシルの芯がパキンと折れた。


 翔太と私は幼なじみだ。親同士が仲良しで、住んでいるマンションも同じだから、赤ちゃんの頃から顔を見合わせている。幼稚園では毎日一緒に遊んでいた。お互いに、かけがえのない仲良しの友達だった。でも小学校に上がって、高学年になるにつれ、一緒にいると周りに冷やかされてしまうので、何となく、遊ぶことも話すことも少なくなってしまっていた。


陽菜(ひな)ちゃんてさ、好きな人とかいるの?」


「え!?」


 午前中の授業が終わって、昼休みになった。そこで、クラスで仲良しの紗香(さやか)が突然に変なことを()くものだから、私は驚いて声を上げてしまった。


「き、急に何訊くの」


 言って、少し落ち着くために水筒のお茶を飲む。


「えー、だって気になるんだもん」

 

「好きな人……か」


 私は前髪をいじりながら少し考えた。そのとき、浮かんできた顔は無愛想な翔太の顔だった。いや! 違う! あいつは好きな人じゃなくて……。


「……ぶん殴りたい奴なら、いるよ」

 

 思い出したらムカついてきて、思わず口に出してしまった。言った後に後悔するが、もう遅い。


「へ? なにそれ」


 突拍子とっぴょうしの無い私の返答に、彩香は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。好きな人をたずねたのに「殴りたい奴がいる」と返ってきたのだから当たり前だ。


「あ、あぁ、ごめんごめん。とにかく、好きな人はいないから!」


「う、うん。そうなんだ……。ちなみに、誰なの? その、殴りたい人って……」


 彩香は好きな人を訊くときよりもっと周りを気にして、小声で訊いてくる。あぁ、まずい。綾香に危険な人間だと思われてしまう。


「違う違う! 言い間違えだから」


「そう? でも、顔がマジだったよ?」


 大袈裟おおげさに首を横に振る私に対して疑わしげな視線を送る彩香。そんなに表情に出てたかな。もうこの際、いっそのこと彩香には告白してしまおうか。少し悩んでから、私は覚悟を決めて口を開いた。


「…………大垣」


「え!? 大垣って……大垣、翔太!?」


 少しためらいながら口にしたその名前に彩香は目を丸くした。それは無理もない反応だった。目の前の友達が殴りたい奴にクラスで一番の不良の名をげたのだから。


 中学二年生で久しぶりに翔太と同じクラスになった。久しぶりに見る翔太の様子は私の知らないものになっていて、とても驚いたのをよく覚えている。髪の毛は茶色くて、制服は着崩していて、禁止されているスマートフォンを堂々と触っていた。中一のときに同じクラスだった女子によると、大垣翔太は中一の途中から段々と授業離脱や大幅な遅刻、校則違反を繰り返すようになり、先生やクラスメイトを困らせていたらしい。


「な、なんで……?」


「あのね、彩香。私とアイツ、幼なじみなんだ。昔のアイツはサッカー小僧で、クラスの中心で真面目で一生懸命で……ちょっとカッコよかったのに。私の知らない間に、なんか悪さばかりするようになってさ。……それが、なんかムカつく」


「だから……?」


「そう、ぶん殴ってやりたいの……!」


 お弁当の最後の一口――冷めたから揚げ――を口に入れて、私は大きく頷く。不安そうな表情の彩香はさくらんぼの入った小さなタッパーを開けつつ、


「止めた方が良いと思うけど」


 と言った。まぁ、私も本気で殴ろうとしているわけではない。それにしても、本気にして心配してくれる彩香は良い奴だな。眉の下がった彩香の顔を見て、少し笑いながら、私は弁当箱を畳んで立ち上がった。


「あはは。本当に殴ってやろうとは思ってないから安心してよ」


「なんだ……ホントにやめてよね?」


「そんなバカじゃないって……ちょっと日直の仕事やってくるね」


 私たちは食事中に喋ってばかりいるから、基本的にクラスで一番食べ終わるのが遅い。教室内を歩くと、クラスメイト達はもうすでに弁当を食べ終えて、本を読んだり、校則で唯一許されている遊び道具のトランプで盛り上がったり、それぞれ昼休みを楽しんでいる様子である。


 日直は次の授業までに黒板を綺麗に消しておかなくてはならない。黒板の前に着いて、黒板消しを手に教壇きょうだんに上ると、それでも、まだ一番上の文字には届かない。中学二年生女子の平均身長よりも少し低い私には、この黒板は少し大きすぎる。ジャンプしなくちゃ……でも、今日スカートの下に体操服着てないんだよなぁ。


 ジャンプをして太ももが見えたら困る。だから、なるべくジャンプをせず、背伸びで黒板の一番上の文字を消そうとするが……やはり届かない。もう一度、爪先で立って腕を精一杯伸ばすが……届かない。あぁ、もう、もっと身長が欲しい。諦めてジャンプしようとすると、突然に、黒っぽいゴツゴツとした男の手がにゅっと出てきて、私の手から黒板消しがさらわれた。


「大丈夫か? チビ」


 その手の持ち主を見ると、私の心臓は大きなジャンプをした。黒板消しを取った男は……大垣翔太だったのだ。随分ずいぶんと背の高くなった幼なじみは私を見下ろし、にやりと笑って、


「俺が消してやるよ」


 と言った。そうして、さらさらっと私の届かない文字を消してしまう。悔しい。私の小さいのを馬鹿にするような、にやにや笑いがまた悔しい。


「ほら……」


「ありがと…………」


 手渡される黒板消しと、それを受け取りながら礼を言う私。久しぶりの会話。少なくとも、中学校に入ってからは初めての会話。バクバク、バクバク。心臓がちょっとうるさい。


 さっきまでの、殴ってやりたいぜ! っていう怒りの勢いはどこに行ったのだろうか。自分でも笑ってしまう。おかしいな、小学校の頃は軽口叩くくらい余裕だったのに。こんなに、顔を合わせたくらいで緊張なんてしなかったのに。

 

 少し目線を周囲に送ると、教室内には、私と翔太のやり取りに注目している人が所々に見えた。少し恥ずかしい。特に、彩香は心配そうな表情で私たちを見ている。……いや、殴らないよ!? 


「ひさしぶり……だね?」


 頑張って笑顔を作ろうとするが……どうだろう、上手く笑えてるかな。変に照れた笑顔になっている気がする。そんな私に興味がないのか翔太は耳たぶをきながら私に背中を向ける。


「ん? まぁ、そーだな。じゃあ、俺、行くから」


「あ……」


 手をフリフリして、教室を出て行く翔太を、私は口を開けて見送ることしかできなかった。せっかく、話すチャンスだったのに。今のまま、悪いことばかりしてちゃダメだって、そんな翔太は嫌いだって、伝えるチャンスだったのに……!


 ――――追い掛けなきゃ……!! 


しばらく立ち尽くしていた私のあしに勇気と言う名のつばさが生えた。けだした私

廊下ろうかへ飛び出す。歩くのが速い翔太はもう随分離れていた。その小さな背中に、精一杯の勇気を振り絞って、


「……翔太っ!! 今日の夜、翔太の家に行っても良い? 話がしたいの!!」


 叫んだ。思い切り。廊下に声が反響はんきょうして、翔太に届く。振り返った翔太の顔は驚きを隠せない様子だった。私の声の残音ざんおんがすうっと消えて、辺りは静かになった。教室からの騒がしい声も聞こえない。私と翔太の視線が合い、まるで世界に私たちしかいないような、そんな錯覚さっかくを覚える。


「…………いいぜ。待ってる」


 私たちだけの世界で、翔太は小さく頷いた。それから、またすぐに背中を向けて、廊下を歩いて行ってしまった。


 やった! 今日、会える……。ゆっくり話せる……。


 喜びのあまり顔がにやける。そんなゆるんだ顔で教室に入ったら、女子の数人に囲まれてしまった。


「陽菜、大垣と仲良いの?」 「えっ、夜会うの?」 「もしかして……不良仲間?」


 色々な質問が一度に飛んでくる。マスコミに囲まれる芸能人ってこんな感じなのかなと思いつつ、また、翔太に向かって叫んだ内容が筒抜けだったのかと、恥ずかしく思いつつ、


「違うの違うの! なんでもないの」


 と、首をブンブン、大きく横に振った。そうして席に戻ると、彩香が相変わらず心配そうな面持ちで、


「殴っちゃダメだよ?」


 と言ってきた。だから、殴らないってば!!




  ***




「はーい、じゃあ、明日までの宿題を出すよ。……みんなの夢を作文にして、書いてきてください」


 先生がマス目の入った、うすい紙をクラスのみんなに配る。三年生になって、担任の先生が変わって、よく宿題に作文を書くようになった。あたしは、作文が嫌いだ。だって、面倒くさい。でも、先生は小学校高学年になるから、文章を書く練習をしておかないとダメだって言う。


 それに、あたしには夢なんてない。この間の冬のオリンピックで金メダルを取ったお姉さんや、将棋ですごい成績を残しているお兄さん、そしてプロ野球で大注目されているお兄さん。そういう人たちみたいな、すごい才能をあたしは持っていない。勉強やスポーツも周りの子よりダメだし、あたしはダメ人間なんだと思う。だから、夢なんて持ってない。


「じゃあ、また明日! さようなら」


『さよーなら~』


 先生とあいさつをして、今日の学校は終しまいだ。そのとき、すごい勢いで駆け出して、教室から飛び出した男の子がいた。翔太だ。あまりに勢いよく走るものだから、ランドセルが上下にすごい揺れている。相変わらず、元気だなぁ。


 小学生になって、もうすぐ三年になる。だから、一年生のときは新品のピカピカだった赤いランドセルは少し色が落ちてきてしまった。ちょっと残念。そんな少しボロくなったランドセルを背にいつもの通学路を歩く。友達と、最近見ているドラマの話をしながら、コンクリートのゴツゴツした道をお気に入りのスニーカーで歩く。


 途中の交差点で友達と別れて、ここからは一人で歩いて帰らなくてはいけない。ちょっとさみしい。でも、最近はこの後に一つ楽しみが出来た。住んでいるマンションのすぐ近くの、ちょっとした空き地。ここで大好きな友達と、少しだけお話して帰るのだ。


「……翔太」


「おー、陽菜。帰ってきたか」


 翔太は毎日、学校から帰ってすぐにこの空き地に来てサッカーの練習をしている。最近始まったことだけど、今のところ一日もサボっていないからすごいと思う。空き地には翔太しかいない。遊具の何もない、待真っ平な砂の地面の小さな空き地だから、人気がないんだと思う。


 翔太は同じマンションの男の子で、幼稚園の頃から知っている、あたしのお気に入りの友達だ。でも、最近は学校で一緒にいると、別に恋人でもないのにクラスの子たちに冷やかされるから嫌だ。でも、この空き地にはクラスの子たちは来ないから、存分にお話が出来る。だから、あたしはこの時間が大好きだ。サッカーの練習の邪魔になるから、なるべく早く帰るけど。


「今日も頑張ってるみたいだね」


 言うと、翔太はにやりと笑って、器用にサッカーボールをり上げてちゅうに浮かせた。宙に浮いたサッカーボールは糸で吊るされているわけでもないのに、上手に翔太の左手に乗っかった。すごい。あたしには絶対できない。


「まぁな。サッカー好きだからな」


 そのにやにや笑いは自信に満ちていて、今にも、「夢はプロのサッカー選手です!」と、その口からは元気いっぱいに将来の夢が飛び出してきそうだった。


「……やっぱり、翔太はあたしと違うなぁ」


「ん? なにが?」


「サッカー、上手いもんね……」


「おう、俺は将来はプロのサッカー選手になる男だぜ」


 ふふん、と自信たっぷりに鼻を鳴らす翔太を見ていたら、なんだか泣きそうになった。いつも一緒にいた翔太、一番の仲良しの友達は、サッカーの才能があって、夢がある。あたしみたいなダメ人間とは全然違う。


「陽菜。……お前、元気ないな。どうした?」


 見破られた。さすがは翔太だ。何でも、わかっちゃうんだなぁ。ぬっとのぞき込んできた、心配そうな翔太の顔にあたしは苦笑いした。その苦笑いでますます心配になったらしく、「何笑ってんだよ、ホントに大丈夫か?」とてのひらをあたしのおでこに当ててきた。


「熱なんてないですぅ~」


 翔太の手を払いのける。「なんだよ、心配してやってんのによぉ」と口をとがらせる翔太に「それはありがとう」と一応お礼を言ってから、


「今日、作文の宿題が出たよね」


 と続けた。翔太は「ん?」という顔をして、しばらく考え込んでから、思い出したような表情で言った。


「あったな! そんなの! 忘れてたぜ。ははは」


 けらけら笑う翔太のお気楽さに、さすがにあたしはあきれた。あたしはその作文で超悩んでんのに、まったく翔太ときたら…………。でも、そうか。翔太は夢があるから、夢のないあたしみたいに、あの作文で悩むことは無いんだ。


「いいなぁ、翔太は夢があって……あたしにはないもん。だから、作文も書けないもん。あたしは夢なしのダメ人間だ」


「別に、夢なんか、どうでもいいだろ。陽菜、それで元気なかったのか」


 翔太は軽く笑った。あたしはムカついて言い返す。目に熱いものを感じた。涙が少し溢れていた。


「どうでもよくないよ! 翔太は夢があるから、そんなこと言えるんだよ!」


「なにムキになってんだよ…………夢なんか、別になくてもいいんだぜ?」


「え?」


 夢がなくてもいい? 聞いたことのない言葉に、あたしは耳を疑った。なんで、夢がなくてもいいなんて言えるんだろう。


「俺が思うに、一番大事なのは、今を頑張ることだ」


「今……?」


「そうそう。今、今……を全力でさ、何事にも全力でいくんだ。それだけでオッケーなんだよ。夢なんか、そんなに大事なことじゃねぇ。全力の毎日を積み重ねてたら、気付けば夢なんて出来てるもんだ。作文には、でっかく【なし】って書いとけ。何か言われたら、俺が言い返してやるよ」


 夢なんか大事じゃないって、翔太はあたしの悩みを一言で片づけてしまった。ちょっと気が楽になった気がした。確かに、毎日頑張る方が大切かもしれない。でも……


「……でも、あたし、頑張っても、勉強もスポーツも、何にも出来ないよ?」


「うそつけ」


 ぐいっと、翔太があたしの、十数センチ前まで来て、そして、あたしの胸に握り拳を押し付けた。


「俺知ってんだ。お前にはすげぇ可能性が眠ってるってこと。……陽菜は俺が知ってる中で一番すげぇ奴だ」


 胸がドキッとした。と同時に、顔が急に熱くなった。それは、翔太に久しぶりに身体をさわられたからだ。それは、しかもその触られたところが胸だったからだ。それは、翔太の言葉が今までに言われたことがないくらいにうれしい言葉だったからだ。色々な理由の詰まった胸のときめきだった。


「そう……かな?」


「一生、保証する…………だから、泣くなよ」


 自信たっぷりに頷き、その後に、にやりと笑う翔太。そして、翔太は優しく私の目にまった涙をぬぐってくれた。こんなに頼もしく、輝いている翔太は初めてだ。翔太の言葉と、気持ちに救われた。胸がすぅっと晴れて、なんだか、希望があふれるようだった。翔太の自信満々の顔を見てたら、なんだか、本当に、あたしってすごい奴なのかも、と思えた。涙は止まっていた。

 

 考えてみたら、あたし、あんまり頑張ってなかった。翔太の言う通り、夢なんてどうでもいいし、他人の才能とかも気にしないで、毎日毎日全力で物事に取り組んでいこうと思う。翔太が保証してくれる、あたしの可能性ってやつを信じて。


「翔太、ありがとう」


 翔太はやんちゃだけど、こういう風に、あたしを励ましたり応援してくれたり、困っていたら手を貸してくれたり、すごく優しい。大好きだ。ずっと、友達でいられたらいいな。本当は学校でも、いっぱいお話したいのに、周りの子たちに冷やかされなければなぁ……。


「元気になったか?」


「なった。ねぇ、あたしにもサッカーやらせて」


「おー、いいぜいいぜ。一緒にやるか!」


 ――ありがとう、大好き。


 あたしは翔太に聞こえなくらいの声で、呟いた。




  ***




 少し寝てしまっていた。今日は吹奏楽すいそうがく部の練習が休みだからって、少し油断してしまっていたのだ。夢の内容は覚えてないけれど、なんだか、随分と懐かしい夢を見た気がする。時計を見ると時刻は五時半を回ったところだった。そろそろ、翔太の家に行っても良い頃合いだ。夜と言うには少し早いかもしれないけど、まぁ、今から身仕度を整えたら、丁度良い時間になるだろう。


 一度、気持ちを整理しなくては。ソファから起き上がって、大きく伸びをしつつ、私はそう考えた。


 今から、翔太の家に行くのは、ただ昔の親友に会いに行くのではない。ただし、不良なんか辞めて、真っ当な学生生活を送るべきだと、偉そうに説教する気も全くない。私は、私の気持ちを伝えに行くんだ。今の翔太は、私の大好きな、一番の友達だった翔太じゃないって。そんな翔太は、大嫌いだって。そして、もしも叶うなら……私の大好きな翔太に戻って欲しい。


「よしっ!」


 歯を磨いて、顔を洗って、オッケー。後は、服だけだ。しかし、寝室にある自分のタンスに向かう途中、私の中に一つの迷いが生じた。あれ? 何着て行けば良いんだろう。同じマンションの部屋に行くわけだから、そんなにバッチリ決めて行かなくてもいいのかな……でもなぁ。翔太と久し振りに会うわけだしなぁ。


 数分間じっくり悩んだ結果、結局お気に入りの春服――赤のギンガムチェックと白スカート――を着ていくことにした。鏡を見て、ちょっとチェックしておく。よし、大丈夫。


 がちゃり、部屋の玄関を開けると、少し足がすくんだ。翔太の家に行くのに、足取りが重いのは初めてだった。子供の頃は、羽が生えたみたいに軽かったのになぁ。


 私の部屋はマンションの最上階の、七階で、翔太の部屋は四階だ。エレベーターに入り、四のボタンを押す。ぐぅっと、エレベーターによくある重力に引っ張られる感じを覚えつつ、ついに四階に着いてしまった。スマホで見ると、時刻は六時十分だった。もしかしたら、夕飯の時間かも知れない、それは失礼だから、一旦出直そう。そんなことを考えるくらい、私は弱気になっていた。別に夕飯だから何だ。ちょっとの時間くらい、良いじゃないか! こっちは約束してんだから! 強気な私が弱気な私に言った。


 四〇三号室。大垣と書かれた石の表札ひょうさつが黒光りしている。小さい時は、何度も何度も押したインターフォンが、まるで爆弾のスイッチを目の前にしているかのように、手が固まってしまって押せそうにない。今日の学校でもそうだった。何が、こんなに私を緊張させるんだろう。わからない。相手は翔太なのに。久しぶりだから……? それだけの理由で……?


 ピーンポーン。覚悟を決めて押した割には、インターフォンの音はとても間抜けな音だった。


「…………よぅ」


 がち。私の家と同じ音を立てて、ゆっくりと玄関が開いた。その開いた隙間から、茶髪の少年が現れて、軽い挨拶をしてきた。当然、インターフォンに誰かが出るものだと思っていたから、私は大いに驚いてしまって、


「…………よぅ」


 オウムのように同じ言葉を返すことしかできなかった。


「で、何の用?」


「あの……ね、話があって」


「ふぅん。ここじゃなくて、空き地でも行くか」


「あ、空き地って……あそこ?」


 空き地と言ったら、この辺りには、あそこしかない。マンションのすぐ近くの、小さいころ翔太が放課後にサッカーの練習場所として使っていた空き地だ。私も帰りにぶらりと立ち寄って、翔太と一緒にサッカーをやったり、色々な話をした。私たちの思い出の場所だ。でも、いつの日からか翔太は練習場所を移してしまって、そこで会うことはなくなったんだっけ。


「そうだよ。近くのちっこい空き地」


「うん……いいね」


「じゃ、降りるか」


 二人でエレベーターに乗り込み、翔太が一階のボタンを押してくれた。エレベーターが下っている間、二人の間には沈黙が流れていた。用があるって言ったのは私の方なのに、どうにも口が開かない。バクバク、心臓の音が聞こえるみたいだ。


 マンションのエントランスを通って、歩道に出ると、すぐ近くに、ぽつんと一つドリンクの自動販売機があった。それを見つけると翔太は近寄って、


「陽菜、何がいい?」


 ポケットから財布を出しながら、そう言って私に振り向いた。私はおごってもらうのは申し訳がない気がして反射的に首を横に振った。


「え、いいよ、そんな」


 言いつつ、久しぶりの「陽菜」って声に――声変わりで声が低くなっているけれど――なんだか懐かしくなって感動した。そして感動ともう一つ、何か、胸がふわっとするような奇妙な感覚におそわれた。顔が少し熱くなった。


「ははは、遠慮すんなよ。せっかく久々に会話すんのに、祝福の一杯もなけりゃあ味気ないだろ」


「えー? じゃあ……」


「いや、待て。俺が陽菜の好みを当ててやろう」


 私が横に並んで、欲しい飲み物の名前――グレープソーダ――を言いかけると、にやりと笑った翔太が私の言葉をあえぎった。


「んー、そうだな……これか?」


 翔太が指差したのは缶のブラックコーヒーだった。【あったか~い】という文字の上にある缶は真っ黒で見るからに苦そうな感を出している。私は苦いのは大嫌いだ。そして、翔太はそれを知っているはずだ……。


「ブラックなんて飲めないよ! 意地悪してるでしょ!」


「はははは! 相変わらず、お子ちゃまじただなぁ!」


「うぅ……」


 翔太も相変わらずだ。翔太は小学校の頃、よく、こういう風に私をからかってきた。よし……私も負けていられない。からかい返してやろう、と思った。昔の調子でからかわれたことで、緊張が少し解けたみたいだ。


「そんなこと言う翔太は? どうせ飲めないんでしょ!」


「飲めるさ。余裕だぜ」


 ふふん、と自慢げに鼻を鳴らして、翔太は素早くお金を自動販売機に流し込み、ためらうことなくブラックコーヒーのボタンを押した。ガタン、という音が鳴って、悪魔の飲み物が降ってくる。そして、翔太はそれを取り出すと、フタを開けて一口した。あぁ、とんでもない。とてもマネできない。


「うん、美味いな」


「ウソ……」


 化け物だ。あんぐりと口を開ける私を横目に、翔太は二口目を口にして、「香りがたまらねぇぜ」と何やら慣れた口を叩く。


「ほら、陽菜も一口どうよ」


 そして、あろうことか私に缶を差し出してきた。翔太がよく見せる、自慢げな、にやにや笑いを口に浮かべている。む、ムカつく。本当なら、拒否するのだが、強がりの私が登場して、心の中で声高に叫んだ。「負けられない!!」と。缶を受け取って、宣言する。


「お、おう。私も余裕だし!」

 

 嘘つきです。そして、缶を口にやる途中で、ある重大な事に気付いてしまった。これは、いわゆる、間接キスだ。でも、勢いのついた私の手は止まらなかった。


 うわっ! 苦い! と思うより強く、翔太と間接キスをしてしまった、と思った。そして、脳に伝わってくる信号は苦みよりも、顔の熱さの方が大きかった。何なんだろう、この感覚は。翔太を男の子として意識したことは、今までなかったのに。


「ほら、苦かったろ?」


 いつの間に買ったのか、私の目の前に差し出された翔太の手にはグレープソーダが握られていた。あっ、私の飲みたかったやつだ。翔太、分かったんだ。コーヒーとソーダを交換して、私は礼を言った。


「ありがとう」


「ブラック飲めたな。すげぇじゃねぇか、陽菜。大人になったな」


 翔太は笑って、私の頭を撫でてくれた。ますます熱くなる私の顔。なんだ……翔太は全然変わってないじゃないか。クラスの不良の翔太は偽物なのだろうかと思うくらい、目の前の翔太は昔と同じの優しい翔太だ。


 二人並んで空き地のベンチに座ると、日はすでに落ちてしまっていて、薄暗くなっていた。


「で、話ってなんだ? いやぁ、しかし、こうやって陽菜と話すのは何年ぶりだろな」


「そうだね……なんか、小学生の高学年になったら、全然遊ばなくなっちゃったもんね」


「まぁな。なんか、うわさとかされんの、面倒だったからな。仕方ねぇよ」


「あのさ……なんで、翔太は遅刻とかするの? 授業離脱とかするの?」


 いよいよ、本題に入る。私の思いを伝える時が来た。目の前の優しい翔太からは想像できない悪い翔太、そんな翔太は嫌いだと告白する時が。翔太の目が見られない。なんだか、責めるようになってしまうと感じたからだ。


「なんだよ……説教か」


 少し怒ったような、うざったそうな口調だ。私は少し驚いて、声が上ずってしまった。


「ち、違うよ!」


「違くねぇだろ。……別に、なんとなく、やる気が出ないだけだよ。大したことじゃねぇだろ。もう、この話はめだ」


 こんな風な、少し怒気の混じった翔太の声は聞いたことがなかった。少し、ひるみそうになる。翔太と喧嘩けんかになってしまうかもしれない。でも……それでも、伝えたい。言わなきゃいけない。勇気を振り絞って、私も口調を強くする。


「ダメ! 止めない! なんとなくって何!? みんな迷惑してるし、ちゃんとしなきゃダメだよ!」


「うるせぇよ、その、ちゃんとするのが面倒だって言ってんだよ!」


「昔は……そんなこと言わなかったのに」


「人間は変わるもんなんだよ」


 その言葉を聞いた途端とたんに目頭が熱くなった。やっぱり、翔太は変わってしまったのかと、悲しくなった。そんなの、嫌だ。私は、翔太が好きだ。今気づいた。私は、昔の、優しく真面目でサッカーが大好きな大垣翔太という男の子が好きだったんだ。そんな翔太がいなくなってしまうのが、何よりも嫌なんだ…………!


 ――――パシィン!!


 気が付けば、私は目に涙を浮かべながら、翔太の頬を叩いていた。目を丸くする翔太。ゆっくりと手が上がり、今打たれた右の頬を手で押さえた。


「戻ってよ……優しくて真面目な、私の大好きな翔太に戻ってよ!! 今の翔太は……大嫌いだよ!!」


 思い切り叫んでから、私は逃げるようにして、その場を駆け出した。




  ***




「ええええ!? 殴った!?」


 朝のホームルームの前、彩香に昨日のことを打ち明けると、彩香は悲鳴を上げた。


「だから、駄目って言ったじゃん!」


「う、うん……そうだよね。ごめん」


 翔太にも、ちゃんと謝らないとなぁ。やっぱり、怒ってるよね。そんなことを思っていたら、急に教室がざわざわし始めた。何事かと思って振り向いたその瞬間、飛び込んできた光景に、私は息を呑んだ。


 大垣翔太が、髪を黒く染めて、制服をしっかり着て、そしてホームルームの前に自分の席に着席している。今までとは明らかに違う翔太の姿が、私の目に飛び込んできたのだ。


「ね、ねぇ陽菜ちゃん。大垣くん。髪の毛が……」


 彩香も驚きを隠せない様子だった。私は嬉しくて心の底から震えが止まらなかった。翔太に、私の気持ちが届いたのだ。私は笑って頷いた。


「うん! 良かった……」


 チャイムが鳴って、先生が入ってくると、翔太は先生の元へと歩き始めた。先生は目を丸くして、何も口にすることが出来ずにいた。無理もないことだ。毎日遅刻する翔太が定刻に教室にいて、しかも髪が黒く染まっているのだから。翔太は先生の元へと辿り着くと、深々と頭を下げた。


「先生。今まで、ご迷惑かけて、すみませんでした。これからは校則を守って、健全な学生生活を送りたいと思います!」


 大きな声で、はきはきと宣言する翔太の声には覚悟と強い意志を感じることが出来た。先生もそれを感じ取ったのか、驚いた表情から嬉しそうな顔に変わって、「おう、頑張れよ!」と、お辞儀じぎをする翔太の肩を強く叩いて、それ以降は何も言わなかった。すると、翔太が、今度は生徒側を向いて頭を下げる。


「みんな、今まで迷惑かけて、ごめん! これからは、みんなと協力して毎日全力で頑張りたいと思う! だから、宜しくお願いします!」


 翔太の言葉の後、一瞬、教室中がしんと静まったが、すぐに、どこからともなく拍手が巻き起こった。それは歓迎と、許しの拍手と言って良いと思う。私は誰にも負けないくらい大きく拍手をした。


 ――――私の大好きな翔太が帰ってきた…………!!


「翔太!」


 吹奏楽部の練習が終わって、帰ろうとしたとき、校門に翔太の姿を見掛けたから、私は走って近づいた。噂になるとか、冷やかされるとか、どうでも良かった。とにかく翔太と話したかった。だって、教室ではクラスの皆に囲まれちゃって、話が出来なかったから。


「よう、怪人顔叩き女」


「うぅ……」


 翔太はにやりと笑って、私を怪人呼ばわりした。そういえば、そうだった。昨日の夜のこと、謝らないと。


「それは……ごめんね。痛かった?」


「あぁ、痛かったぞ。でも、俺はそのビンタを待ってたのかもな」


「どういうこと?」


 翔太の言っている意味がよく分からなかった。だから訊き返したのに、翔太は「別にぃ」と、嫌味ったらしく、はぐらかしてきた。


 中学校から私たちのマンションは近い。もうマンションの最上階の私の部屋が見えてきた。私はなるべく翔太と長く歩いていたくて、少しペースを遅らせた。すると翔太もそれに合わせてくれた。この優しさがすごく嬉しかった。


「俺さ、サッカー部入ったんだ」


「へぇ! だから、この時間でジャージ着てるわけね」


 そうなのか。翔太サッカー部入ったんだ。きっと、顧問の先生に、今朝の様に頭を下げて、お願いしたんだろうなぁ。その情景を想像すると、なんだか嬉しくなった。


「そういうこと。なぁ、陽菜、吹奏楽部だろ? 俺、絶対、サッカー部でエースになって全国大会行くからよ、応援席で演奏してくれよ」


「それ……素敵!」


 私が食い付くと、翔太は照れたように鼻の頭をこすって、「だろ?」と言った。想像しただけでもワクワクする。全国大会の応援席で、翔太の活躍するのを、私が演奏で応援するなんて、夢みたいだ。でも、きっと叶う。そんな気がした。


「……二人の、夢にしようぜ。陽菜と俺の、二人の夢に」


「うん! いいね! 絶対叶えようね!」

 

 私はすっかり興奮して、ぶんぶん首を縦に振って頷いた。思えば夢というものを持ったのは初めてかもしれない。私の初めての夢は、翔太との二人の夢か……! そう思うと、なんだか世界が希望に満ち溢れたように感じた。


「……でも、なんで私が吹奏楽部だって知ってたの?」


 少し疑問に思って、翔太に訊くと、翔太は少し迷ったような顔をしてから、ちょっとを置いて、口を開いた。


「ずっと、見てたから」


「え?」


 ずっと見てた? 私を? それってどういうことだろう。


「俺、なんで不良辞めたと思う? お前の気持ちが伝わって、嬉しかったってのもあるんだけどさ、一番は……」


「一番は?」


「陽菜、不良の俺は嫌いなんだろ? 俺、陽菜に嫌われるの絶対嫌だから」


 それって……? 少し考えて、翔太の方を見ると、すごく真剣な表情をしていた。私は、翔太の言葉の意味が何となく分かり、すると急に胸の鼓動こどうが早くなった気がした。つまり……それって……翔太は、私のことを……?


 マンションのエントランスを通って、エレベーターに乗り込む。私たちは、どちらも口を開かなかった。そして、私は翔太の顔を見ることが出来なかった。


 エレベーターが四階に着く。翔太の部屋の階だ。このまま、別れて良いのかと思いつつも、何も行動に出ることが出来ない。まぁ、明日、翔太の言葉の意味を聞けばいいか。


 そう思って、「ばいばい」と言おうとしたら、突然に背中から翔太に抱き締められた。決して強くない優しい抱きしめ方。素早く動いていた心臓が、一瞬動きを止めた。


 ――――ありがとう、大好きだ。


 翔太は耳元で小さくささやいた。

読了、ありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 『さくらんぼの入った小さなタッパーを開けつつ、』や『私は前髪をいじりながら少し考えた。』など、女子中学生らしいリアルな、なにげない描写が素敵でした。 地の文をこんなに流れるように書ける薬師…
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