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三百枚書けるようになるお得な「小説の書き方」コラム  作者: カイ.智水
創作篇〜創作の手順を再確認しよう
834/1500

834.創作篇:人類は物語で生き延びた

 今回から「創作篇」がスタートします。

 まず概論から入って、これまで述べてきた創作の仕方を振り返って、手順を見ていきます。

 今回は概論です。

人類は物語で生き延びた


 人類は「物語」で生き延びてきました。

 その一文の意図するところはなんでしょうか。




弱い人類が地上の覇者となりえた理由

 人間は他の動物と比べても弱い生物です。狼のような牙もなければ、虎のような爪もない。熊のような体格も持っていません。

 それでも人間は弱肉強食の自然界の頂点に君臨しています。なぜでしょうか。

 それは、さまざまな兆候から危険を察知して、集団の力で乗り越えてきたからです。

 さまざまな兆候とは、たとえば森の中で「ガサガサッ」と小さな物音がした。森から鳥が一斉に羽ばたいていった。山から煙が漂ってきた。山からあらゆる動物が逃げ出るように飛び出してきたといったものです。

 この兆候から「なにものかが待ち構えているのではないか」「熊が現れたのではないか」「山火事が起きたのではないか」「噴火でもするのではないか」という推測を立てます。

 人間はこういった兆候から推測を導き出す能力に長けています。

 だからこそ「ひとりで森に入ってはいけない」とか「動物が飛び出てくるのだからなにかあるに違いない」とかいう教訓を得てきたのです。

 以上は危機管理としての側面を述べました。


 食糧を確保するために森や山へ分け入って、野菜や果物を収穫してくることは生きているためにはたいせつなことです。

 背の高い木の上にはバナナが生っている。トゲトゲのある黒い物体の中には甘い栗が入っている。鹿肉を食べるために投げ槍や弓矢を作る。ふぐを食べたら死んでしまった。

 失敗を経験をして次の教訓として活かすことで、食肉文化や農耕文化が育まれたのです。そして食糧を安定確保できるようになったことで、人口が爆発的に増えていきました。

 数が増えればより強敵とも戦えるようになり、結果として「地上の覇者」となりえたのです。




物語とは教訓を語り継ぐこと

 ここまで読んできて「サブタイトルの話はどうした」と言われるのでしょう。

 実は、この兆候から推測を経て教訓を得る過程、失敗を経験して次の教訓として活かす過程そのものが「物語」なのです。

「ある日槍を持ってひとり森の中に入ると、奥からガサガサッと小さな物音がした。なにかが待ち構えているのかもしれない。用心して進もうか。怖いから逃げようか。でももし猛獣なら逃げても追いつかれそうだ。反撃の準備をして用心して進むことにしよう。音が鳴ったあたりを見てみたら一羽のウサギが佇んでいた。逃げられる前に槍を投げて見事に命中する。これで今晩の食事は決まった。森から出よう」

 兆候から推測を経て教訓を得る過程からその先へと話を進めるだけで、「物語」になりました。

 そして「物語」はお話として多くの聞き手に伝わり、教訓が語り継がれることとなるのです。

 つまり「物語」が語り継がれることで、人類はさまざまな対処法を学び、大勢で行動することの利点を知りました。武装した大勢が森や山に入って、熊や鹿を捕らえて食事にすることで、小さな村がどんどん大きくなっていったのです。

 弱いはずの人類が「物語」から教訓を得て、「地上の覇者」にまで昇りつめたのです。




誰もが一片の長編小説を書ける

 私はなんのために生きているのだろうか。なぜあのときあんな選択をしたのだろうか。

 人間であれば誰もが一度は考えたことがあるのではないでしょうか。

 生きる意味や選択の仮定は、知らないうちにあなたの中で「物語」となります。

「人は誰もが一片の長編小説を書ける」とよく言われます。

 それは、あなたの中で無意識に「物語」になっている生きる意味や選択の仮定があるからです。

「なぜ自分は生きているのだろうか」という問いに答えられるのは、内なるあなた自身でしかありません。その問いと答えはじゅうぶん「物語」になりえます。

 その「物語」のあなたに主人公という皮をかぶらせて、あなたが見つけた「答え」を提示させるのです。

 たったそれだけで一片の長編小説が書けます。

 しかしこの方法では、本当に「一片の長編小説」しか書けません。

 では、どうすれば二作目以降が書けるのでしょうか。




選択の仮定が多作の鍵

「あのときあの選択をしていたら、今どうなっているだろうか」

 選択の仮定を行なうことで、さまざまな可能性を見出だすことができます。

 この「if」「もしも」つまりフィクションが小説を多作するうえでの鍵となるのです。

 時代考証のしっかりした歴史小説よりも、ある時代を舞台にした時代小説のほうがウケます。それは史実に忠実な歴史小説よりも、史実にない展開を見せる時代小説のほうがフィクションの割合が多くて予測不能だからです。


 歴史書の陳寿氏『三国志』と、時代小説の羅漢中氏『三国志演義』のどちらが人気かは言わずもがな。吉川英治氏『三国志』も『三国志演義』をもとにした時代小説です。

 陳寿氏『三国志』と羅漢中氏『三国志演義』の最大の違いは「赤壁の戦い」にあらわれています。

『三国志』では単に魏水軍が、呉と劉備軍の連合水軍の火矢によって敗れたと書かれたのみです。しかし『三国志演義』では陸戦に慣れた魏兵のために船を鎖でつないで板を渡し揺れを少なくする工夫をしました。そして蜀の軍師・諸葛亮孔明が「東南の風」を吹かせて連合水軍の火矢などによる火攻めで魏軍を壊滅させる内容となっています。『三国志演義』で諸葛亮孔明は「妖術使い」のような扱いをされており、「東南の風」も祭壇を組み妖術の類いで吹かせたかのような演出をしているのです。

 また孔明の北伐の際に登場する孔明考案の輸送手段「木牛流馬」も「まるで生きているかのように物資を輸送する」ような記述をされています。ですが史実によると本来は兵員の力を補助する機具(パワードスーツやアシスト自転車のようなもの)であったらしいのです。こういった史実との違いを味わうのが、時代小説の見どころになります。

 どのあたりまでフィクションを盛り込むか。それが「物語」を多作する際に最も必要とされるのです。





最後に

 今回は「人類は物語で生き延びた」ことについて述べました。

 人類は「兆候から推測を経て教訓を得る」「失敗を経験して次の教訓として活かす」能力に長けています。

 そのため自然界では弱いはずの人類が、弱肉強食の頂点を極めたのです。

 この能力は、出来事を「物語」の形に変換して憶えることに利用されます。つまり「物語」は人類が共通して持っている機能を文字の形に変換したものなのです。

 世界中にある言語の中でも、日本語はとても多様性があります。英語で「I am a cat.」と書いたとして「私は猫です」以外の意味はありません。しかし日本語なら『吾輩は猫である』とも訳せます。

 ノーベル文学賞を授かった川端康成氏、大江健三郎氏は、そんな日本語の多様性によって世界に認められたのです。

 村上春樹氏の小説は、翻訳家としての一面もあることから英語の文法に近い書き方をしていると思われます。やたらと文末が「〜た。」で終わるのも、英訳したときを考えれば許容の範囲ということでしょう。反面、日本語の多様性が見られません。だから村上春樹氏がノーベル文学賞を授かれないのではないでしょうか。

 あなたが日本語で小説を書く限り、多様性が世界で認められるときが来るかもしれません。実際ライトノベルの一部は海外でもヒットを飛ばしているそうです。




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