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三百枚書けるようになるお得な「小説の書き方」コラム  作者: カイ.智水
回帰篇〜あきらめないで書きましょう
757/1500

757.回帰篇:これからはライトノベルを書け

 今回は「ライトノベルを書こう」ということについてです。

「純文学」に代表される「文学小説」は芥川龍之介賞、直木三十五賞という魅力があります。

 しかし必ず受賞できるわけでもなく、仮に受賞できても小説だけで生計を立てるのには時間がかかるのです。

 その点ライトノベルは連載されることが多く、10巻も連載したら累計300万部も夢ではありません。

 小説を書いて生計を立てたいなら、なおのことライトノベルが有利なのです。

これからはライトノベルを書け


鬱な小説を読みたいですか

 小説で主人公ただひとりしか登場しない小説というものはまずありません。

「異世界転生」や「異世界転移」をするにしても、なんらかの要因があって異世界へ飛ばされます。そこに他人がいっさい介在しないなんてまずありえません。

 もしあるのだとしたら、主人公は自罰的な被害妄想に囚われて「この世の中が生きづらいのは自分のせいだ」と心が病んでいるときくらいでしょうか。俗に言う「鬱」状態ですね。


 ここで質問です。

 あなたは主人公が「鬱」状態におかれる小説を読みたいですか。

 私なら御免こうむりたい。

 だって小説は「娯楽」なんですよ。読んでいて楽しくなければ到底「娯楽」とは呼べません。

 しかし世の中には「主人公が鬱」という小説をたびたび見かけます。

 私が嫌いで「文学小説」と呼んでいる「純文学」作品に多く見られるのです。

 累計300万部超を誇る芥川龍之介賞受賞作・お笑い芸人ピースの又吉直樹氏『火花』も「主人公が鬱」という作品に属します。

 その後の芥川龍之介賞受賞作でこれに匹敵するほどの出荷部数を誇る作品はありません。なぜでしょうか。それは300万部超の『火花』が「主人公が鬱」で読んでいて楽しくなかったから。そう考えると納得できるのです。

『火花』のような作品は人生で一作読めばいい。何作読んでも興味を失わない人は、それこそ心が病んでいる可能性があります。

 思えば芥川龍之介氏も太宰治氏も三島由紀夫氏も。全員心が病んでいました。ある者は締め切りに追われて、ある者は前作より売れる作品を求められて、ある者は自分の理想(妄想)を読み手に示したくて。

 そんな「文豪」の書いた小説たちにどっぷりと浸かって「鬱」感覚を楽しめるほど、人間の魂は頑丈に出来ていません。

 そのくせ「文学小説」は今でも文壇の最高位の座を占めていると思い込んでいる節があります。




実売はライトノベルが上

 今最も売れている小説ジャンルは「ライトノベル」です。

「文学小説」は1巻出して10万部も売れれば大ヒットと言われています。

 しかし「ライトノベル」は10巻出して累計300万部も売れる作品がざらにあるのです。

 どちらが大衆に求められているかは、火を見るよりも明らか。

 私が「文学小説」を嫌う理由は「時代に求められてもいないのに、我が物顔で文壇の最高位に居座っている」からです。

 だからといって「ライトノベル」だけを推すわけではありません。

「エンターテインメント小説(大衆娯楽小説)」もじゅうぶん読み手に求められています。とくに「推理小説」「SF小説」「ファンタジー小説」は手堅いファン層に支えられていて、「文学小説」よりも格段に販売部数が多いのです。

 こんなことを書いていると「お前は販売部数ばかりを気にして、芸術性をまったく無視している」と言われますね。

 小説は読み手がいなければ成立しない産業だということに気づいていますか。

 10万人にしか響かない小説と30万人に響く小説のどちらが産業として成立しているのでしょうか。

 そして「ライトノベル」にも「エンターテインメント小説」にも芸術性の高い作品は存在します。ただ楽しいから面白いから売れるほど単純ではありません。

 芸術性もあるからこそ「ライトノベル」「エンターテインメント小説」には需要があるのです。

 現代日本の文化史を紐解くと、長らくマンガやアニメは子どものもの。小説(ここではとくに文学小説)や実写映画やTVドラマこそが成熟した文化だとされてきました。

 とくにマンガの神様である手塚治虫氏が子ども向けのマンガやアニメを数多く手がけていたことから、その影響が表れていると考えられます。

 映画なら小津安二郎氏、黒澤明氏などの洗練され成熟した演出こそが日本の文化を象徴しているとされてきたのです。

 しかし現在はどうでしょうか。

 ハリウッドに影響を与えるほどの日本人監督といえば宮崎駿氏や押井守氏、細田守氏、新海誠氏などアニメ監督だらけではないですか。北野武氏がヴェネツィアでひじょうに好評を博してはいます。直近ではカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した是枝裕和氏にも注目が集まっているのです。

 もはや世界中で日本文化といえば「実写映画」ではなく「マンガ」「アニメ」を指しています。「ジャパニメーション」という言葉があるくらいです。

 宮崎駿氏といえばファンタジー作品ですし、押井守氏といえばSF作品です。細田守氏と新海誠氏もどちらかといえばファンタジー寄りでしょう。

 日本の「純文学」「文学小説」が世界に評価されたのは、ノーベル文学賞を受賞した川端康成氏<大江健三郎氏で最後だと言い切れます。

 世界が日本に期待しているのは「マンガ」「アニメ」であり、その原作となる「SF小説」「推理小説」「ファンタジー小説」そして「ライトノベル」なのです。

 そう考えれば、世界中に熱狂的なファン「ハルキスト」を抱える村上春樹氏がいつまで経ってもノーベル文学賞を獲得できない理由がわかるのではないでしょうか。

 日本人作家に求められているのは「SF小説」「推理小説」「ファンタジー小説」「ライトノベル」であって「村上春樹文学」ではない。そう、すでに村上春樹氏がノーベル文学賞として評価される時代ではないのです。毎年最有力と言われながら村上春樹氏はまったく受賞できず、村上氏と親交のあるカズオ・イシグロ氏が受賞したさまなどはその典型と言えます。あまりにも滑稽すぎて、ノーベル賞審議会の悪意すら感じられるのです。



すでにライトノベルの時代

 これから小説で食べていきたいのなら、日本人独特のメンタリティーにしか伝わらない「文学小説」を書いてはなりません。世界中でヒットする映像作品の原作となる「エンターテインメント小説」「ライトノベル」をこそ書くべきです。

「マンガ」を例に引きますが、大場つぐみ氏&小畑健氏『DEATH NOTE』は世界中でブレイクしました。国立大首席の殺人鬼と世界的名探偵による天才同士の息詰まる神経戦が「SFサスペンス作品」として世界中の読み手を魅了したのです。小畑健氏といえばほったゆみ氏とタッグを組んだ『ヒカルの碁』でも囲碁ブームを巻き起こすなどインフルエンサーとしての才能があるマンガ家といえます。

 世界で累計4億部以上売れている尾田栄一郎氏『ONE PIECE』や、その源流である鳥山明氏『DRAGON BALL』はいずれも「ファンタジー」世界が舞台です。

「文学小説」を書いてもまず「アニメ」にも「マンガ」にもなりません。

「エンターテインメント小説」であれば「TVドラマ」や「映画」になることはあります。しかし「アニメ」や「マンガ」になることはあまりないでしょう。「エンターテインメント小説」に分類される「SF小説」の田中芳樹氏『銀河英雄伝説』が「アニメ化」された例はあります。これは数百人にも及ぶ登場人物をすべて配役することが物理的に不可能だからこそできたことです。『小説家になろう』発の住野よる氏『君の膵臓をたべたい』は実写映画化されましたね。

 しかし「ライトノベル」なら売上次第ですぐに「アニメ化」「マンガ化」が視野に入ります。

 現在「ライトノベル」を支えているのは「中高生」から「中高年」までの年代です。

「中高年」は面白そうな作品を大人買いして吟味し、実際に面白かったと感じた作品のみをフォローし続けるのです。そうして人気の出た「ライトノベル」が「アニメ化」され「中高生」はアニメを観て「面白そう」と思って原作を買います。

 こうして「ライトノベル」は販売部数を伸ばしていくのです。

 この仕組みが「文学小説」にはありません。


 大学の国文科を卒業したからといって、必ず「小説賞・新人賞」を授かるというものでもないのです。

 そんなことは不可能であることに気づいてください。毎年何万人何十万人と卒業してくる国文科の大学生すべてが埋められるほど小説賞の数はないのです。

 それより中卒高卒であっても若い時期から小説を書き続け、小説賞に応募し続けた人が受賞する確率のほうがはるかに高い。

 大学の国文科で学ぶのは主に「文豪」の作品です。今を切り出した小説を書く能力が鍛えられていないのです。にもかかわらず「自分は大学の国文科卒だから、小説を書けば受賞して当たり前」などと勘違いします。

 国文科卒で「ライトノベル」作家になったという人がいるのでしょうか。残念ながら私は知りません。私の頭の中に膨大なデータベースがあるわけではありません。ですが純粋培養されて「小説賞・新人賞」を受賞するなんていうことがいかに非現実的であるかは漠然とわかります。

 だからこそ皆様には「文学小説」ではなく「ライトノベル」「エンターテインメント小説」を書いていただきたいのです。

 確かに「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」の肩書きは魅惑的ではあります。しかしその肩書きを持ちながら、以後ヒット作を一冊も出せずに消えていった書き手が存外多いのです。

 商業面から言っても「文学小説」は二、三年に一冊出版できれば良いほうですが、「ライトノベル」は一年に三、四冊出版することもできます。つまり産業としての環境が整備されているのです。三年も継続して出版できていれば、累計部数100万部なんてあっという間に突破します。

「文学小説」の書き手は生活がカツカツで執筆を本業にするわけにはいきません。彼らはなにがしかの定職に就いています。仮に「小説賞・新人賞」を授かっても、当面は原稿料・印税だけで食べていけないからです。だから小説講座を開いたり、講演を行なったりして収入を得ています。

 しかし「ライトノベル」の書き手は毎年三、四冊書いて出版できるので、執筆を本業にできるのです。講師になって小説講座や講演を行なう必要もありません。

 その点でも「ライトノベル」の書き手は有利なのです。



ジャンル替えはいつでもできる

 ここまで長々と書いてきました。

 それでもあなたが「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」を狙いに行くことを止めることはできません。しかし警鐘は鳴らしました。

 虚栄に満ちた「文学小説」を書いて文筆を本業にできない期間が長く続くことを選んでも、それはあなたの自由です。

 私なら最初から「ライトノベル」に照準を定めます。

 楽に登れる道があることを知っているのに、あえてつらい登山道を選ぶ必要なんてあるのでしょうか。

「ライトノベル」出身の書き手が「エンターテインメント小説」へ進出していった前例はいくらでもあります。とくに冲方丁氏の活躍は眼を見張ることでしょう。『天地明察』で直木三十五賞の最終候補にも残りましたからね。

 ですから「ライトノベルの書き手」は、生涯「ライトノベル」しか書けないわけではないのです。

 ジャンル替えはいつでもできます。

 結果として「小説家になる」のなら、楽に登ってみませんか。





最後に

 今回は「これからはライトノベルを書け」について述べてみました。

 おそらく小説の執筆だけで生計を立てられるようになるのは、「ライトノベル」の書き手が最も早いでしょう。

 今や「ライトノベル」のビジネスモデルは確立されています。

「文学小説」で芥川龍之介賞・直木三十五賞を授かれば、テレビのコメンテーターにはなれるでしょうし、講演依頼が舞い込むでしょうが、肝心の小説で生計を立てることは当面できません。

「ライトノベル」の優位性を正しく理解してください。




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