647.文体篇:リアリティーのあるフィクション
今回は「リアリティーのあるフィクション」についてです。
小説に現実味は不可欠です。まったくの絵空事を楽しめるのは幼子のうちだけ。
大きくなるにつれ、現実を知っていき、物語にも現実味を求めるようになります。
リアリティーのあるフィクション
たとえ事実であろうとも、現実味がなければ誰も真実だと思ってくれません。
対してフィクションであろうとも、現実味があれば「実際に見てきたような文章」が書けます。
小説を書くうえで目指したいのは「現実味のある虚構」です。
冒頭で断言する
「見てきたようなウソ」を書きたいときは、「冒頭で断言する」ことです。
たとえば夏目漱石氏『吾輩は猫である』は「吾輩は猫である。名前はまだない。」と「定義」「状態」を断言しています。
芥川龍之介氏『羅生門』は「ある日の暮方の事である。」とこれも断言です。
太宰治氏『走れメロス』は「メロスは激怒した。」とこちらも断言。
宮沢賢治氏『銀河鉄道の夜』は会話文の後に「先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問をかけました。」と断言。
川端康成氏『雪国』も「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。」と断言。
田中芳樹氏『銀河英雄伝説』は「……西暦二八〇一年、太陽系第三惑星地球からアルデバラン系第二惑星テオリアに政治的統一の中枢を遷し、銀河連邦の成立を宣言した人類は、同年を宇宙暦一年と改元し、銀河系の深奥部と辺境部にむかってあくなき膨張を開始した。」と断言。
水野良氏『ロードス島戦記』は「マーファ神殿の白い大理石の壁が、ようやく訪れた春の日差しに明るく輝いていた。」と断言。
賀東招二氏『フルメタル・パニック!』は会話文の後に「職員室の扉の前。のんびりした放課後の喧騒とは裏腹に、千鳥かなめは深刻な声で言った。」と断言。
渡航氏『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は「国語教師の平塚静は額に青筋を立てながら、俺の作文を大声で読み上げた。」と断言。
およそ冒頭で「あれはいつのことでしょうか。」などと疑問形や言い訳がましいことを書いてヒットした小説などないのです。
冒頭では必ず「断言」しましょう。
「断言」された文を読んだだけで、人はそこに現実味を感じてしまうものなのです。
「断言」にはまさに魔法のような効果があります。
それなのに冒頭で「断言」できない理由はなんでしょうか。
「自分には文才がないと思うから、一言断りを入れたほうが皆大目に見てくれるかな」と考えてでしょうか。「この小説が面白いと断言できないから、とりあえず読み手の反応を確かめてから書き足していこうか」と考えてでしょうか。
文才があるかないかは、読み手に伝わっているかどうかでわかります。冒頭で「断言」することで、一文目は必ず読み手に伝わるのです。
であれば、文才がない人ほど、冒頭で「断言」したほうがよい。
面白いと断言できないとき、あなたのあやふやな執筆姿勢のせいで、本来面白いはずの小説がつまらなくなってしまうことがあるのです。そんなときこそ冒頭で「断言」すること。「この小説は確信を持って書かれている」と評価され、先へ読み進めようという意欲も湧いてきます。
いずれにせよ、冒頭において「断言」することで現実味が増し、物語がより面白くなるのです。
副詞で情景を描く
「断言」するだけで現実味は確実に増します。
しかしどんな動作をしたのか、どんな状態であるのかということを書かなければ、いまいち情景が思い描きにくくなるのです。
たとえば夏目漱石氏『吾輩は猫である』の書き出しは前出したとおり「吾輩は猫である。名前はまだない。」ですよね。なぜ「名前はまだない。」と書いているかわかりますか。
それは冒頭の一文には「どんな状態である」のかという情報がないからです。だから「どんな状態」かをすぐに差し挟んだのだと解釈できます。
もしこれを冒頭の一文に入れ込んだ場合は「吾輩は名前がまだない猫である。」になるのです。歯切れはよくないのですが、二文の情報を一文にしてもそれほど違和感は覚えないのではないでしょうか。
冒頭で「断言」することに注力すると、最小単位は「主語プラス述語」の形になります。そうなると「どんな動作をした」のか「どんな状態である」のかがわからないのです。情報不足で、そのまま放っておくとせっかく「断言」したのに現実味が今ひとつ物足りなく感じます。
だから「吾輩は猫である。」のすぐ後に「名前はまだない。」という一文が続くのです。しかしまだ主人公「吾輩」のことが今ひとつぼやけています。ここで改行します。
次に「どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」と設定を「断言」しながら続けて書くのです。「何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。」
ここまで読むと「吾輩は猫である。」という題のとおり「猫」を主人公にした小説だろうことが伝わります。「断言」を続けることでここまで一気に読めてしまうのです。
三文目、四文目には「副詞」が登場しています。「とんと」「何でも」が副詞です。「じめじめした」は状態を表す熟語なので「副詞」のように利用できます。「ニャーニャー」は擬声語(擬音語)で、現在ではあまり利用すべきではない品詞です。ですがここであえて「ニャーニャー」と書くことで主人公「吾輩」が「猫」であることを読み手へ端的に示しています。もし「吾輩」が「犬」であったのなら「ワンワン泣いていた事だけは記憶している。」と書くだけで簡単に「犬」へ書き分けられるのです。「ニャーニャー」も「ワンワン」も書いていなければ「吾輩」は「猫」であるのか「犬」であるのかはたまた「人間」であるのか、読み手はイメージできないまま冒頭を読み進めていかざるをえなくなります。
このように『吾輩は猫である。』はひじょうに計算され尽くした書き出しなのです。
ただ「断言」を連打するだけでなく、副詞を用いて「どんな動作をした」のか「どんな状態である」のかを書き添えることで、イメージがどんどん膨らんでいきます。
色を書く
現実味を感じさせるには、とくに視覚情報を豊かにする必要があります。脳が処理する感覚の八十パーセントが視覚からの情報です。
つまりどんな見た目をしているのか、どのように見えるのかを丹念に書くことで、現実味の八十パーセントが確保できます。
視覚情報で重要なのは「形」と「色」です。
では「形」と「色」を丁寧に書けばいいんだな。そう思うかもしれませんね。
どちらかといえばインパクトが強いのは「色」です。
「形」があやふやでも「色」が書かれているだけで、五十パーセントほどの現実味を出すことができます。
世の中には『色の事典』と呼ばれる書籍が販売されていますので、買って手元に置いておきましょう。小説を書いていて「これにふさわしい色はなんて言う名前だろう」と疑問を抱いたときに役立つのでオススメです。「苔色」「モスグリーン」は似た色ですが『色の事典』では別の色味とされています。「赤」と「朱」と「紅」はすべて色味が異なりますし、「茜色」も微妙に「赤」と異なるのです。
小説には「色味」がたいせつですが、ただ「赤い」「青い」「黄色い」「緑色」「白い」「黒い」「明るい」「暗い」「くすむ」などと書くよりも、「茜色」や「ガーネット色」と書いたほうが具体性が増して色味が明確になり、現実味が増します。
数字を書く
現実味を出すもうひとつの要素が「数字」です。
たとえば「高い確率で盗塁を阻止するほど肩が強い。」と書くよりも「八割の確率で盗塁を阻止するほど肩が強い」と書いたほうが現実味がありますよね。
さらにいえば「八十五パーセントの確率で盗塁を阻止するほど肩が強い」と桁が増えるほど現実味が増すのです。
田中芳樹氏『銀河英雄伝説』はなぜSF小説なのに現実味があるのだろうか、と考えたことはありませんか。
この作品、実は細かな数字がたくさん使われているのです。何年の何月何日、何時、何人、何隻というような数字が一桁単位まできっちり書かれています。戦役に参加した将兵の人数や撃沈された艦船数、死者数も一桁単位まで書かれているのです。パーセント表記もたいていは小数点以下一桁まで書かれています。
田中芳樹氏のこだわりのひとつが「数字に細かい」ことです。本来なら百万人以上で戦っていると、一桁までの戦死者数を書く必要なんてほとんど意味がありません。百万人の中のひとりだと百万分の一の割合でしかないからです(0.00001%は誤差の範囲内です)。なのに田中芳樹氏は一人まで参加者、戦死者を書いています。そこに現実味を追求するSF小説の妙味があると思いませんか。
最後に
今回は「リアリティーのあるフィクション」について述べました。
冒頭は必ず「断言」すること。「断言」するだけで読み手を小説世界に没入させることができます。
そして「副詞」を交えて「どんな動作」「どんな状態」かを補足していくのです。
物体について書くとき、「形」の説明にばかり勤しんではなりません。
人間が視覚から得る情報で最も強いのが「色」つまり色彩です。しかも細かな色の名前を使い分けることで、読み手に現実味を与えられます。
最後に「数字」を書くことです。細かな「数字」を書くことで現実味は増します。たとえば「ジャンボ宝くじ」は「一等前後賞合わせて十億円」とテレビで煽りを入れているのです。しかし「一等の当選確率は四千万分の一です。」とは一言も語られていません。不都合な「数字」を出さないことで売上を高めようとしているからです。つまり「ジャンボ宝くじ」は「現実味のないノンフィクション」だと言えます。




