605.明察篇:術を磨く
今回は「術」についてです。
小説を書くには「技術」が必要です。そのうち「技」は何本も小説を書くことで磨かれます。
しかし「術」は数を書くだけでは身につきません。
いったい「術」とはどういうものなのでしょうか。
術を磨く
小説を書くには「技術」が必要です。
多くの書き手は何本も作品を書くことで「技」を磨きます。
堅実に上達するには「技」を磨くのが王道だからです。
しかし「技術」という言葉には「術」もあります。
術とは
「術」とは「目的を遂げるための手段。方法。手立て」のことです。
つまり小説を書くときの「術」は「小説を書きあげるための手段。方法。手立て」ということになります。前もって知っておいて「知識を生かして執筆する」ことです。
「技」となにが違うのか。これだとわかりづらいと思います。
「技」とは経験知のことです。何度も繰り返し行なって「経験したことで得た知識」だと言われると区別がつくのではないでしょうか。
私は本コラムで「短編小説から始める」こと、「長編小説を何本も書く」こと、そのあとで「連載小説に挑む」ことについて書いてきました。これは「技」です。何度も繰り返し行なって「経験したことで得た知識」が土台を築きます。
ですが先に「術」つまり知識を学んでおき、そのうえで「技」を積んだほうが確実に早く上達できるのです。
「じゃあなぜ先に『術』を教えてくれないんだ」とお叱りを受けるかもしれません。
ですが本コラムそのものが「術」の知識に当たります。
本コラムを先に読んで「術」が身につく。そのうえで数をこなす。「技」を磨けば超速の勢いで土台が築かれていくのです。
さしずめ城の設計図を作ってから土台を組み上げていくか、設計図を持たずにとりあえず土台を組み上げてから考えるかの違いだと言えます。どちらが速く無駄なく土台を築けるかは一目瞭然ではないでしょうか。
「技」だけで勝負する人が五年十年かけて成し遂げることを、あなたが「術」を持って臨めば一年いや半年で達成することもできます。人によっては一作目から会心作が書けるようになるのです。
術を磨く
上達が速い方は、総じてコツを見抜くのがうまい。ちょっとやらせてみたら、ものの数回でコツを見抜いてしまいます。こういう方は読書量が多くて「術」を持っているのです。あとは「技」を磨くだけで真理に触れるほどの逸材です。
逸材でない方はどのようにして「術」を磨けばよいのでしょうか。
どう書くのがよくて、どう書くのが悪いのか。この判別を徹底的に憶えてください。
本コラムや「小説読本」の類いを読み、効果的・効率的な書き方を身につけるのです。
「術」といえば古代中国・戦国時代の韓非氏が著した『韓非子』が挙げられます。『韓非子』で「術」は部下を思うがまま操るために君主が持つべき権限のひとつのことです。
小説の「術」も、読み手を思うがままに操るために書き手が持つべき権限のひとつだと言えます。
ただし「術」は正しく身につけなければなりません。もし誤った「術」を用いて小説を書いたら、何作書こうと一次選考すら通過できないでしょう。
正しい「術」を身につけるためには、多くの「小説の書き方」「小説読本」を読み、取捨選択して「正しい」と思われるものを見つける他ありません。
本コラムは私をフィルターとして「より正しいと思われる術」を紹介しています。
「右を向け」と言っておいて舌の根も乾かぬうちに「左を向け」ということもあったでしょう。それは各々の「小説読本」でそれが正解とされているからです。
読み手の興味を惹くような小説を書くには、読み手の裏をかかなければなりません。読み手が右に関心を移した瞬間、左に言及する。惹きつけて関心が向いたときに殺し文句を読ませるようなものです。
これができるようになれば、「術」はすぐさま体得できます。
「コツを見抜く力」は一種の「才能」です。ですが「なにか共通点があるはずだ」と考えながら学んでいれば、誰でも「コツを見抜く力」は培えるのです。
心理の壁
アメリカのカール・ルイス氏が陸上競技・百メートル走において、人類で初めて10秒の壁を破ったとき、それは衝撃的な出来事として世界中に広まりました。
しかしライバルたちはカール・ルイス氏がどのようにして10秒の壁を破ったのか。フォームやストライドなどを徹底的に研究して「術」を盗んでいきました。その結果、相次いで10秒の壁を突き破る選手が現れたのです。
日本人で初めて10秒の壁を破ったのは桐生祥秀氏でした。しかしそれ以来いまだに10秒の壁を破る日本人選手は現れていません。平成の間に次の9秒台が見られるのか。期待するだけでワクワクしてきます。
(平成では10秒の壁を破る他の選手は現れませんでした。しかし令和においてサニブラウン・アブデル・ハキーム氏が9秒97の日本記録を叩き出しました)。
これらは「心理の壁」です。
「できるはずがない」という心理があるから「できない」。
「できた人がいるから自分にもできるはずだ」という心理があるから「できる」ようになるのです。
小説の「術」
なぜそれが達成できたのか。それを分析してエッセンスを抽出し、目に見えるように映像化したものが「術」となります。
あいまいなイメージではなく、抽出した濃いエッセンスに裏打ちされた明確で強固なイメージを持つこと。そのイメージを読み手の目にも見えるように描くこと。それが小説でいう「術」なのです。
義務教育で「小説の書き方」は教わりません。
小説を書きたい人は自分で何本も書いて「技」を磨くことを第一と見なさせているからです。「技」を積み上げた先に「術」を身につけることが「正しい小説の書き方」だと文部科学省は考えているのでしょう。
たくさん書いて「技」を磨き、あやふやな「術」を形作っていく。
ですが、すぐれた彫刻師は完成像が脳裡で明確なイメージとなるまでノミを振るわないと言います。
恐ろしいことに、日本の義務教育・高等教育は「脳内イメージ」をまったく考慮していません。脳力はすべて文字情報を憶えることに使われます。
漢字の読み書き、算数・数学の公式、歴史の年表や出来事や人物、物理・化学の方程式、英語の単語と文法。すべて文字情報として記憶しなければなりません。「脳内イメージ」を必要としない試験が出されるのです。
しかし大学に入ると高校までで記憶してきた文字情報を関連づけて「脳内イメージ」を構築し、文字情報だけでは答えが出ない問題へ向き合うことになります。
すぐれた書き手は「脳内イメージ」を読み手へ正確に伝わるよう文章を紡ぎます。それが小説を書くときの「術」です。
すぐれた彫刻師のように完成像を明確なイメージとして捉えます。歴史的背景や場の空気感、人物たちの表情など。イメージをどうやって読み手に語って聞かせようか。それを考えるのです。
もちろん数多く小説を書いて「技」を磨くこともたいせつでしょう。小手先の「技」を鍛えるだけで「小説賞・新人賞」の一次選考くらいなら通過できますからね。
しかし二次選考の高い壁を「技」だけで越えようとしたら五年十年はかかると思います。
そういうときこそ「術」を知って磨きをかける必要が出てくるのです。
最後に
今回は「術を磨く」ことについて述べてみました。
「技術」という単語の「技」と「術」は微妙に意味合いが異なります。
「技」は「skill」であり、「術」は「Technic」です。
力押しでとにかく数を書いて身につけるのが「技」であり、知識を手に入れてそれを生かすのが「術」になります。
この差がわかれば、小説を書くときに「術」が必要であることが理解できるでしょう。五年十年の下積みなんてしなくてよいのです。
「術」の情報は「小説の書き方」「文章読本」などの書籍を読むことで得られます。
そのエッセンスを抽出したのが、本コラムです。
六百近い連載の端々に「術」を練り込んであります。
もし執筆に行き詰まったら、サブタイトルを見て該当しそうな投稿回を開いてお読みくださいませ。
きっとお役に立てると思います。




