423.深化篇:新たな人生を生きる
今回は「主人公になりきる」ことについてです。
自分が主人公だったら、こんな「出来事」が起きればこう行動するだろう。
その流れが自然に提示されるには、「主人公になりきる」ことがたいせつです。
また「欠けたものを補う」ことが物語の根幹となることが多い。
それはなぜでしょうか。
新たな人生を生きる
小説を書くというのは、さまざまなことを発想し着想して雛形を作り、構想して形を整えて、それを文字で描写していく作業を指します。
発想し着想したときは、多くの可能性が広がっているのです。
それを構想して可能性の枝を落としていって、一本の木が成り立つようにします。
発想着想には手順がある
まず発想と着想についてですが、これは後日「発想篇」としてまとめる予定なので、ここでは省きます。
頭の中に意外性のあるアイデアを加えて撹拌する。
撹拌を続けていれば着想するだろうと思うかもしれません。
実際には撹拌後に寝かせるなり漉すなりしなければ、着想はアイデアの泉から分離できません。
「発想篇」ではそういったことを書きたいと思います。
新たな人生を生きる
小説のアイデアが発想・着想できたら、そこからが書き手の腕の見せどころです。
書き手は主人公になりきって「新たな人生を生きる」ことになります。
演技力が必要なわけではありません。
自分が主人公だった場合、「出来事」が起きたらどう対処しようか。
それを考えます。
主人公の設定が書き手と乖離している場合であっても、書き手は主人公になりきって「出来事」に対処しなければなりません。
その程度の演技力があれば、小説のストーリーを破綻せずにずんずんと先へ進めていくことができるようになります。
「新たな人生を生きる」ことを苦痛ととらえるか快楽ととらえるか。
これが小説に限らずマンガやアニメ、ドラマや映画の脚本を書けるかどうかの分水嶺です。
これから小説を書こうとしている人は「新たな人生を生きる」ことが快楽なのでしょう。
逆に言えば、「今の人生に満足できない」から小説を書こうとするのです。
ときどき「人生の成功者」が思いつきで「小説を書いて」失敗します。
たとえば「宝くじで一等が当たった」人が書いた小説は、「宝くじで一等が当たるのが当たり前」な主人公であることが多い。
「ラスベガスのスロットマシンで数十億円が当たった」人が小説を書けば、「スロットマシンで数十億円が当たるのが当たり前」な主人公になるのです。
こんな主人公に、多くの読み手は共感できるでしょうか。
「年末ジャンボ宝くじ」の一等の当選確率は二千万分の一です。
「年末ジャンボ宝くじで一等が当たった主人公」の気持ちを理解できるのは、日本では毎年六人しか生まれません。
つまり、そんな小説を書いたところで読んでくれる人は百数十人いればいいほうなのです。
そんな小説が「紙の書籍」化して売れるものでしょうか。
数十部は売れるかもしれませんが、しょせんその程度。
金持ちが暇を持て余して書いた小説には「切迫感」がありません。
とある男性俳優がとある小説賞に応募して大賞を受賞した。
だけどその作品を読んでみたら、あまりにもひどくて幻滅してしまった。
「なんでこんな内容で大賞が獲れるんだよ」と出来レースだったのではないかと疑念を抱きかねません。
実際にそんな出来事が起こりました。
「主人公になりきる」ことが得意なはずの男性俳優ですら、小説を書かせたらひじょうに拙い小説しか書けないのです。
だから「主人公になりきる」能力は最小限あればいい。
主人公にぶつける「出来事」がどれだけ面白いか。
その「出来事」が起こる「エピソード」をどれだけ思いつけるのか。
小説を書くときは「エピソード」の着想を第一にし、「主人公になりきる」のは第二としましょう。
「主人公になりきる」のは、男性俳優の例にあるように、それだけバランス感覚が必要なのです。
男性俳優であれば良い小説が書けるというものでもありません。
そのくらいのレベルでいいのなら、あなたの私小説を書いたほうがよほど「主人公になりきった」作品が書けます。
欠けたものを補う物語
多くの小説は「なにかが欠けている」主人公が「それを補おう」とする物語が素になっています。
最初から満ち足りている主人公では「欠けている」要素がありません。
「切迫感」が伝わってきませんから、読み手ウケしないのです。
「金持ちの暇つぶし」が「小説賞・新人賞」を獲ることはまずありえない。
そういう物語ではハラハラ・ドキドキしません。
小説は「書き出し」から第一章が終わるまでに「なにかが欠けている」状態になることが望まれます。
読み手はそれを読んで自らも「擬似的にそれが欠けている」状態になるのです。
そして「それを補おう」とするために小説を読み進めます。
たとえば「なにげない日常なのに、突如として恋人が死んでしまった」としたら、主人公の喪失感はいかばかりかと想像できますよね。
読み手は「この喪失感を主人公はどうやって補おうとするのか」を知りたくて、ハラハラ・ドキドキしながらページをめくるのです。
これを逆手にとった作品もあります。
たとえば「平凡な日常を過ごしていたら、突然机の引き出しから大きなタヌキのようなロボットが現れた」という物語です。
言わずと知れたマンガの藤子・F・不二雄氏『ドラえもん』ですね。
「突然なにかを与えられて、主人公はどうするのだろうか」という好奇心が湧いてきますよね。
持て余すかもしれませんし、有効活用するかもしれません。
なにかワクワクしてきますよね。
『ドラえもん』では主人公の野比のび太が級友のジャイアンやスネ夫を見返したくてドラえもんに未来のひみつ道具をおねだりします。
つまり「なにかが欠けたときに補ってくれる存在がすでにいる」から、あとはそれをどう活用するのかを読ませるわけです。
ライトノベルでも主人公を超える存在が身近に現れて、主人公が窮地に陥ると助けてくれるパターンのストーリーが散見されます。
鎌池和馬氏『とある魔術の禁書目録』の主人公・上条当麻の前に現れたインデックスや御坂美琴などは「突然与えられた」存在です。
彼女たちを有効活用して困難な状況を切り開いていく強さを当麻は見せてくれます。
暁なつめ氏『この素晴らしい世界に祝福を!』の主人公・佐藤和真は勘違いのショック死で女神アクアと出会います。
「転生先にはなにか一つ持っていける」と持ちかけられた和真はアクアそのものを指定し、異世界へと転生していきます。
これも「突然与えられた」存在ですよね。
物語の基本構造は「なにかが欠けている」状態からどうやって「それを補おう」とするのかまでをハラハラ・ドキドキに主眼を置いて描きます。
これはほとんどの作品に見られる鉄板の展開です。
その「テンプレート」のカウンターとして、「突然与えられた」状態から「それをどうしよう」とするのかまでをワクワクに主眼を置いて描く物語もあります。
この二つのことはマイナスとプラスに作用することで物語に起伏を作ろうとするものです。
必ず一方だけというのでは了見が狭い。
「欠けている」ものを「補おう」としている中で、「突然与えられた」ものをどうしようかと考えてみる。
そういう柔軟性を持ってストーリーが展開するように「あらすじ」で「エピソード」を構築していきましょう。
最後に
今回は「新たな人生を生きる」ことについて述べてみました。
現実になにか物足りなさを感じている人が小説を読みます。
満ち足りている人は小説を読まなくても幸せな心境なので、あえて小説を読む必要性を感じないのです。
仮に読んだとしても「だからなに?」という印象しか覚えないでしょう。
そして「なにかが欠けている」状態を描くから、読み手も「それが欠けている」ような気持ちになります。
主人公がどうやって「それを補おう」とするのか気になるのです。
「欠けたなにかを補おう」とする物語には「切迫感」があります。
ハラハラ・ドキドキですね。
そのカウンターが「突然与えられた」物語で、こちらはワクワクしてきます。
現実に満ち足りない人が小説を読むのは、そこに自分の疑問への答えが書いてあるかもしれないから、ということも多いのです。
そして「なにかが欠けている」状態が自分と同じであれば、「この作品を読もう」と能動的になります。




