4. :対になる存在を登場させる
今日のコラムは「主人公と対になる存在」について述べてみました。
小説には主人公が必要ですが、主人公一人だけがいても物語として面白くありません。
そこで「対になる存在」を登場させましょうということに言及しています。
対になる存在を登場させる
小説には主人公が不可欠です。では主人公だけで物語を作るとどうなるか考えてみましょう。
その小説世界には一人しかいないので、誰とも関わりません。他に誰もいない村だったり引きこもりだったり。主人公は必然的に独り暮らしとなります。目覚まし時計で起こされて朝食を摂る。誰とも関わらないとなれば食べ物は自家栽培したものを食べているのかな。学校や会社に行く必要もないですよね。家の外に飛び出して流れ行く雲をぼんやりと眺めているだけで一日が過ぎていく。
この設定で読み手の「心に痕跡を残せ」るような出来事は起こるのでしょうか。ちょっと無理な気がしますね。
あるとすれば自然が主人公に関与してくること。雨が降りそうだけど傘を持ってきていないとか雷鳴が轟いて今にも撃たれそうだとか突如竜巻や地震に見舞われるとか。
こうやって例を挙げると、自然現象が相手ではなかなか話が盛り上がらないのがわかります。このまま書き進めていっても、読み手の「心に痕跡が残る」と思えますか。
のんびり朗らかとした作品も悪くないとは思いますが、やはり主人公の他に登場人物が欲しくなりますよね。
主人公と「対になる存在」がいれば、主人公の性格や資質などがその人と比べられて個性が際立ちます。対になる人がいて初めて主人公は読み手の共感を得られるのです。
勇者ものであれば倒すべき魔王やドラゴンであり、恋愛ものであれば結ばれたい意中の異性です。このような主人公の敵になるかパートナーになるかする存在が物語には必要となります。いわゆる「ラスボス」ですね。
変態な主人公に変態なパートナーを当てることもあります。この形式の物語は変態による内輪ネタに終始することになります。その結果ドタバタ劇が続いたまま終わったりなぜか恋人同士になってまともな人物に改心してしまったり。
自然現象が相手のときとは比べられないほど物語が広がります。これが「対になる存在」の必要性を感じるところです。
勇者ものなら
「対になる存在」がいれば物語は広がりを持ちます。
では具体的に、どのような存在を用意するか。それを考えていきましょう。
勇者ものなら倒すべき魔王やドラゴンが欲しいですよね。それらを倒してこそ、世界は彼を勇者と認めてくれます。
誰も倒さずに勇者と称されるなんてできはしません。「自称勇者」程度の扱いで終わってしまいます。
誰からも感謝され、後世に語り継がれるほどの存在となって初めて「勇者」なのです。であればこそ、勇者ものには倒すべき相手が不可欠なのです。
世の中の人物を善と悪の二つに分けたがる人がいます。でも最初から「悪事を働こう」として行動する人は稀です。現実にはそういう人もいることはいます。「犯罪者」です。
犯罪者は基本的に「悪事を働こう」と意識して悪に走ります。この手合いを登場させれば「善と悪との二面対立」という構図が成り立つのです。王女をさらう魔王は「悪事を働こう」と意図して行なっており、それは明確に「悪」です。
だから最初から「善と悪との二面対決」の構図が生じます。主人公は正義(善)で魔王は悪。魔王の残虐さを書き連ねるだけで読み手は魔王に憎み、主人公と同化して魔王討伐を目指すようになる。ファンタジー小説では王道の手法ですね。
しかし世にいるたいていの人はつねに「自分では善行だと思っている行動」をとっています。たとえそれが他人から見ると悪だと思われることであったとしても。つまり「善と善との二面対立」が物語の構図になります。
最近の物語ではこちらの手法が多く用いられています。そのほうが敵の魅力を最大限に引き出せるし、人物の深みも表現できるのです。読み手は相手役にも共感を覚えて愛着も湧き、さらに物語の世界に引き込まれていくことになります。
恋愛ものなら
恋愛ものなら「対になる存在」はやはり意中の異性ですよね。
主人公が男性なら基本的に女性の心を射止めたいという意志が物語の推進剤になります。主人公が女性なら意中の男性と結ばれたいはずです。LGBTの方もいるので、「対になる存在」は同性になることもありえるでしょう。そういった層に向けた小説というのも「あり」です。ただ人口に占める割合は低く、本人にその資質がなければ表面をなぞっただけで肝心のLGBTの方にさえ支持されない小説で終わってしまうことでしょう。であれば自分の嗜好に合った性別を「対になる存在」として書くのが無難です。もちろん資質があるのなら同性であってもまったく問題ありません。
主人公と想い人との紆余曲折が書かれているから、読み手は恋愛ものの小説をハラハラ・ドキドキしながら読み進めてくれます。想い人が登場せず、主人公だけが書かれた恋愛小説を読もうと思う人はいないと思ったほうがいいのです。
小説内の世界を広げる
主人公と「対になる存在」を書くことは、小説内の世界を大きく広げてくれます。
どの程度「対になる要素」を幅広くとるかが書き手のさじ加減です。
男性と女性の違いだけにしてノリは同じにするのか。おとなしい男性と活発な女性のように性格も反対にするか。美女と野獣のように外見がまったく異なるのか。
一般的に「対になる要素」が多ければ多いほど、小説内の世界は広がっていきます。「ここからここまでがこの小説の守備範囲です」と読み手に見せたときの範囲の広さが小説内の世界の広さですね。
冴えない男性と才色兼備で何でもこなせるスーパーウーマンの組み合わせ。これも小説とくにライトノベルではありがちです。主人公が「冴えない男性」であれば読み手自身が己を「冴えない」と認識しているほど、自分を主人公に投影して同化してくれます。
完全無欠な主人公は現実離れしていて興ざめしてしまう。でも現実離れしているという認識はあるから「ここまでの男性なら困難にどう対処するのかな」という覗き見精神は働きます。
いちばん同化しにくいのは「中途半端に能力が高い」タイプの主人公です。完全無欠は早期にあきらめがつきますし、冴えないのなら読み手が優越感を持って読み進めていくこともできます。中途半端に能力が高いと、読み手は意外と劣等感を抱くものなのです。その主人公がヒロインを射止めるなんてことをすると「どうせ俺にはできないよ」とさじを投げて小説を閉じて資源ごみに送られます。
「対になる存在」の人物設定を進めていく過程で、主人公の人物設定にも手を加えていく必要があるのです。それがわかる事例ではないかと思います。
最後に
今回は「対になる存在を登場させる」ことを論じました。
小説内で登場するのは主人公ただ一人。これではあまりにも牧歌的です。
小説は読み手の「心に痕跡を残す」ためのもの。終始のほほんとした小説ではなにも残りません。
「対になる存在」が必要であることを確認し、人物設定を進めていく。それだけで小説内の世界は大きく広がっていきます。
せっかく時間と手間をかけて書く小説です。広げないのはあまりにももったいない。
広げばこそサブストーリーを挟む余地が生まれます。単行本書き下ろしのつもりで三百枚の小説を書いても、人気が出ればサブストーリーで延々と物語を引き伸ばせるのです。前回指摘した「いつまで経っても終わらないマンガ」のパターンですね。それができるのも小説内の世界が広いことと無関係ではありません。