332.執筆篇:読み手を結末へと導いていく
今回は「結末へ至る過程を読ませる」ことについてです。
映画や論文などでは冒頭でいきなり「結末」を持ってきてから本文を読ませることがあります。
しかし小説でいきなり「結末」を持ってくることはまずありません。
読み手を結末へと導いていく
小説は読み手へ単に「結末」を示すだけでは成立しません。
「結末」へとたどり着くまでの道のりを示すのが小説なのです。
結末だけを書いても面白くない
もし私が「結末」しか書いていない作品を小説投稿サイトに投稿したとします。
もちろんそんな状況は実際にありえます。
連載小説の第四部「起承転結」の「結」ですね。
連載小説の四部構成である「主謎解惹」の「惹」、「起問答変」の「変」はそれぞれ次の連載につながりますから、今回のお題である「結末」とは意味合いが異なります。
今回は連載も終了しようとしているまさにそんな物語の「結末」だけを書いてしまったらということです。
もし短編小説として「結末」しか書いていない作品が投稿されていたらどうでしょうか。
それを読んでワクワク・ハラハラ・ドキドキしてきますか。
投稿者である私はそれだけでも満足した気分になっているかもしれません。
でも読み手としては「読んだ時間を返せ」と言いたくなるでしょう。
「結末」に至るまでの過程が丸々抜けている物語は面白くもなんともありません。
たとえば本コラムで何度も出てくる寓話『シンデレラ』で見てみましょう。
あるところにシンデレラという女性がいました。
シンデレラは王子様と結婚しました。めでたしめでたし。
はい、書かれているのはこれだけです。
これが「結末」だけしか書いていない小説の極端な例と言えます。
皆様の感想としては「だからどうした」ではないでしょうか。
当初のシンデレラの境遇も書かず、どのようにして王子様と巡り会ったのかも書かず、どうして王子様と結婚することができたのかも書かない。
物語が始まったと思ったら、すぐに主人公が「対になる存在」と決着するだけ。
この「結末」だけの物語を面白いと感じる人はほとんどいないはずです。
結末へ至る過程を読ませるのが小説
では「結末」を読んでもらいたいとして、どのようにすれば読み手が「結末」を読んで納得してくれるのでしょうか。
まず読み手を主人公へ感情移入させます。
そしてなにか境遇が変わる出来事が起こるか起こすかするのです。
それによって主人公や「対になる存在」にはどのような影響があるのでしょうか。
その後にようやく「主人公がどうなった」つまり「結末」を書きます。
「結末」に至るまでの過程をきちんと書いていますから、読み手は「主人公の変化」をすんなりと受け入れてくれるのです。
『シンデレラ』の場合は、まず下女のように扱われる女性シンデレラの哀れな境遇を書き、読み手をシンデレラに感情移入させます。
そして境遇が変わる出来事が起こる。魔女の登場ですね。
魔女によってシンデレラは淑女に変身し、王子様が訪れる舞踏会へと出発します。
しかし舞踏会に来たことのないシンデレラはなにをしていいのかわからない。
そんなシンデレラに興味を持った王子様が彼女をダンスへと誘います。
夢のような時間を過ごしていますが、そこに午前0時を告げる鐘の音が響いてくるのです。
そこで魔女に言われた「午前0時の鐘の音が鳴り終わると魔法が解ける」ことを思い出します。
慌てて舞踏会場から離れようとするシンデレラですが、途中でガラスの靴が脱げてしまうのです。
でも時間の猶予がありません。
全力で舞踏会場を離れることしかできないのです。
その後王子様は舞踏会で出会った淑女のことに特別な感情を抱きます。
そして淑女が残した「ガラスの靴」を持って街中の女性に履かせようとするのです。
「ガラスの靴」とぴったり合った女性こそが「舞踏会の淑女」だと気づきました。
当然のように王子様の使者はシンデレラの住む館までやってきます。
継母や義姉妹たちは「我こそは」と靴を履こうとしますが合いません。
シンデレラは「一夜の夢」を経験できただけで幸せだったので、王子様の使者と「ガラスの靴」のことは放っておいて家事に励みます。
その様子を見ていた王子様の使者は、シンデレラにも「ガラスの靴」を履かせようとするのです。
当のシンデレラは断りますし、継母や義姉妹たちも反対しますが、使者は頑としてシンデレラに「ガラスの靴」を履くように迫ります。
観念したシンデレラが「ガラスの靴」を履くとぴったりと合ったのです。
これで「舞踏会の淑女」が灰かぶりの娘シンデレラだったことが判明します。
その知らせを受けた王子様がシンデレラの元へとやってきて求婚するのです。
これでわかるように「シンデレラが王子様と結婚する」という「結末」に至るまでの過程は読み手に漏れることなく伝えられていることがわかります。
だから『シンデレラ』は作品としての完成度がきわめて高いのです。
気づいてもらうと感情移入しやすくなる
小説では読み手が主人公に感情移入しています。
主人公が「わかった」こと「理解した」こと以外を一人称視点では書くことができません。
「結末」へ至る過程が読み手に正しく伝わらないからです。
主人公が「問題の解き方(解法)」をわかっているのなら迷うことなく「結末(解)」まで書けます。
ただ波乱万丈という物語のダイナミズムを感じさせませんが。
もし現時点で主人公が「問題の解き方(解法)」を知らないのだとすれば、物語のどこかで主人公に気づいてもらう必要があります。
その「気づき」によって読み手と主人公の共通理解が生まれるのです。
「気づき」は読み手が主人公に感情移入しやすくする「装置」として機能します。
主人公の「気づき」によって読み手も「気づき」を得るのです。
この共通理解が「共感」へとつながって「もっと主人公に感情移入できる」ようになります。
最後に
今回は「読み手を結末へと導いていく」ことについて述べてみました。
小説は冒頭でいきなり「結末」が書かれることはまずありません。
読み手がワクワク・ハラハラ・ドキドキできないからです。
ただし歴史小説の場合は、読み手がその歴史的な事件を学校で習っていれば「どんな結末になるのか」はわかったうえで読むことになります。吉川英治氏『三国志』だって、世界史を習っていれば結末はわかりますからね。
またノンフィクション小説の場合も、その事件のことを報道で知っていれば同様です。
そうでない小説の場合は、冒頭で「結末」を書いて興を削いではなりません。