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三百枚書けるようになるお得な「小説の書き方」コラム  作者: カイ.智水
執筆篇〜わかりやすく書くための心得
313/1500

313.執筆篇:優先順位でキャラを立てる

 今回は「優先順位」についてです。

 キャラの行動は「優先順位」に基いて行なわれます。

 そして判断を迫られたときにも「優先順位」が足かせとなるのです。

 主人公は自ら「優先順位」を変更しなければなりません。

優先順位でキャラを立てる


 ライトノベルは「キャラクター小説」とも呼ばれます。

 それほど「キャラを立てる」ことが重要なのです。

 どうすれば「キャラを立てる」ことができるのでしょうか。




それぞれに優先順位がある

 たとえば「命より金が大事だ」という人と「金より命が大事だ」という人がいます。

 では客観的に見て、命と金のどちらが大事なのでしょうか。

 少し考えてみてください。

 実は今あなたに「客観的に見てどちらが大事なのか」を考えてもらったのは、あなた自身が持つ「命と金の優先順位」を意識してもらいたかったからなのです。

 人にはそれぞれ判断基準があります。

 「命を賭けるリスク」をとるのか「金を賭けるリスク」をとるのか。

 ある人は「命を賭けるなんてことはできっこない」と思います。

 ある人は「生活が苦しいのに金を賭ける余裕なんてない」と思うのです。

 登場人物にはすべからく「判断基準」があり、どの価値を優先するのかの「優先順位」があります。

「主人公がまったくリスクをとらない小説」というものはあるのでしょうか。

 まずないと思います。

「リスクをとらない」ということは、不確実なことには手を出さないことです。

 小説は「主人公が出来事にどう対処するのか」を読ませます。

 それなのに「主人公がまったくリスクをとらない」となれば物語がいっこうに進まないのです。

 脇役なら「まったくリスクをとらない」こともあります。

 そうやって運命に流されて結果にたどり着くのです。

 でも主人公がただ運命に流されているだけの小説は「無常観」もいいところです。

 今どき「純文学」私が言う「文学小説」でも、主人公が運命に翻弄されているだけの作品なんてありません。

 運命に流されているだけの小説を仮に「観念小説」と呼ぶことにします。

 芥川龍之介賞を受賞したお笑い芸人ピースの又吉直樹氏『火花』の主人公は、ただ運命に流されていただけでしょうか。

『火花』は「観念小説」だったでしょうか。

 時代にウケた作品から学ぶことは多いのです。




観念小説の限界

 明治後期から(おこ)った「言文一致体」の確立期において「観念小説」は文壇の主流のスタイルでした。

 今は廃れた「私小説」という分野も「観念小説」として書かれています。

 書き手の身に起きたことをありのままに書く「私小説」。

 どうしてそんなことがわが身に起こったのか、因果関係など考えず「これもまた運命である」と割り切って「観念小説」として書いたのです。

 いわゆる「文豪」が活躍していた時代にはインターネットはありませんでした。

 当たり前ですが重要なことです。

 もし今「私小説」を書いたとすると、即刻インターネットで広まります。

「この人、相当痛い人だな」という認識が世間に知れわたるのです。

 だから現在では「私小説」を書く人はいなくなりました。

 なぜわざわざ書き手の「プライベート」なことを切り売りして小説に書く必要があるのでしょうか。

 たとえその小説が売れたとしても、世間からは当然白眼視されます。

 だからよく「自伝的小説」という呼び方をするのです。

 もし「自伝」と明確にしてしまうと、小説の内容イコール書き手の人間性ということになります。

 そうなると困るので、たとえ本当に自分が体験したことであっても「自伝的小説」と呼称するのです。


「観念小説」にも似たような部分があります。

 主人公が現状を変更しようとすることなく、運命に流されるだけの小説は、読んでいて痛快さがありません。

 わざわざ小説を書いているのに、書かれた作品に起伏がまったくない。

 あっても一山だけということもあります。

 運命に流されるだけの「観念小説」は読み手の共感を得にくい。

 つまり主人公への感情移入がしづらいのです。

 読んでいて「ここで動かなきゃ状況はよくならないよ」と読み手が気づいています。

 それなのに主人公はなにもしないのです。

 その状態がいつまでも続きます。

 読み手として、あなたはどこまでこの状態に堪えられるでしょうか。

 私は最初にその状態が発生した段階で見切りをつけます。




ジリジリが恋愛小説のキモ

「私ならこうするのに」というじれったさは、よい意味でとらえればジリジリとしたじれったい気持ちを読み手に与えます。

 でも私は小説においてワクワク・ハラハラ・ドキドキを掲げていますので、ジリジリを過小評価していたところがあるのです。

 ジリジリとしたじれったさは、「恋愛小説」なら抜群の相性を誇ります。

 主人公と想い人とのすれ違いが発生するたびに「もう、なんでここでこうしないのよ」と焦がれてくるのです。

 くっつきそうで離れそうでという間を揺れ動くもどかしい状況を楽しむのが「恋愛小説」というジャンルになります。


 大人気ライトノベルの渡航氏『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』略して『俺ガイル』が人気なのも、ジリジリとしたじれったさ、くっつきそうで離れそうでのもどかしさがあるからではないでしょうか。

 主人公・比企谷八幡はどんな優先順位を持っているのでしょうか。ヒロインの雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣はそれぞれどんな優先順位をもっているのでしょうか。

 それぞれの抱える優先順位が変わらない限り、人間関係が動き出すことはないのです。

 ここでもしヒロインの側が優先順位を変えてしまったらどうでしょうか。

 主人公は運命に流されるだけの「観念小説」そのものになってしまいます。

 ライトノベルの旗手である『俺ガイル』が「観念小説」で終わってしまうと、今まで楽しく読んできた人たちをすべて置き去りにすることでしょう。

 だからこそ「主人公が能動的に優先順位を変更する」必要があるのです。

 八幡が自らの意志で優先順位を変えてこそ『俺ガイル』は傑作として連載を終えることができます。

 もしヒロインの側が優先順位を変えてしまったら「書き手のご都合主義」と受け取られかねません。

 マンガの桂正和氏『I"s(アイズ)』は主人公の瀬戸一貴が想い人である葦月伊織への優先順位が揺れていたのがポイントです。

 もし最初から一貫して伊織だけを追いかけていたら読み手がじれったさを感じなかったでしょう。

 恋愛マンガとしては落第もいいところです。

 しかし一貴が伊織を最優先にしようと決めたいタイミングで、幼馴染みの秋葉いつき、後輩の磯崎泉、お隣さんの麻生藍子か次々と現れてきます。

 当然一貴の心は揺れ動き、それぞれに気を惹かれながらも「やっぱり自分は伊織一筋で」と意思を固める過程が繰り返されるのです。

 最終的に一貴の気持ちは伊織に通じたのでしょうか。それは本編をお読みになることをオススメします。


「恋愛小説」は当初発生するじれったさやもどかしさが、主人公の意志によって解消するから面白いのです。

 現状を他力本願で解決させるのはやめましょう。

 それまでどれほど盛り上げてきても、他力本願で解決する場面を見せられたら、読み手はいっせいに引いてしまいます。

「ドン引き」もいいところです。





最後に

 今回は「優先順位でキャラを立てる」ことについて述べてみました。

 主人公は能動的でなければなりません。

 受動的で運命に流されるだけの「観念小説」はまったく面白くないのです。

「観念小説」で面白いのは「ギャグ小説」だけだと思ってください。

「ギャグ小説」であれば、周囲がいくら変わろうとも騒ごうとも主人公は不動で、周りを嘲っているだけで話が回ります。

 でも「ギャグ小説」もなかなか難しい。

 今なら暁なつめ氏『この素晴らしい世界に祝福を!』がギャグ小説の有望作ですね。

「ギャグ小説」でない一般のライトノベルであれば「観念小説」にはしないほうがよいでしょう。

 主人公が自らの意志で優先順位を変えて現状を打破するからこそ、小説はより面白くなります。




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