309.執筆篇:語り手視点は使いやすい
今回は「語り手視点」についてです。
「三人称視点」の一種なのですが、他の種類よりも扱いやすいのが特徴です。
語り手視点は使いやすい
視点は大きく分けて「一人称視点」と「三人称視点」に分けられます。
「三人称視点」のバリエーションで「神の視点」「三人称一元視点」「語り手視点」があるのです。
今回はそのうち「語り手視点」について述べてみたいと思います。
視点のおさらい
まずはおさらいになります。
小説を書くとき、読み手が主人公にいちばん感情移入しやすいのが「一人称視点」です。
それに対して「三人称視点」は「神の視点」以外では誰の心も読めないので、感情移入しづらくなります。
ただし誰に対しても同じ書き方ができるため、書き損ねにくいのです。
「一人称視点」は主人公と他のキャラでは書き方に差が生じます。
「三人称視点」なら主人公も他のキャラも同じ書き方ができるのです。
それが「三人称視点」の利点と言えます。
「神の視点」はいつ・どこで・誰の心の中も覗き放題な「三人称視点」です。
文章を書いているのは「神」ですから、あるシーンに登場している複数のキャラの心情が書けてしまいます。
それではあまりにも無節操なので、現在の小説界隈では禁止されているのです。
「三人称視点」で書いているとき、基本的に誰の心の中も読ませてはなりません。
読ませると説明がラクなのは確かですが、読み手としてはワクワク・ハラハラ・ドキドキしてこないのです。
「三人称一元視点」は登場人物のうちひとりのそばにセンサーを置いて物事を描いていきます。
つまり「一人称視点」で書けるものを、わざわざ「三人称視点」で書いているようなものです。
主人公の三人称「彼」「彼女」を一人称「俺」「僕」「私」「わたし」などに置き換えても文が通じれば「三人称一元視点」と言えます。
語り手視点
では本題の「語り手視点」に移ります。
物語に登場する人物の誰にもセンサーを付けません。
通常の「三人称視点」では人物の誰かにセンサーが付いています。
その人物は物語に参加しているのですが、発言することも行動することもしません。
登場人物が最低三人は必要で、うち一人はただ見聞きしているだけという状態です。
これではあまりにも不要なキャラになります。
対して「語り手視点」は人物にセンサーが付いていません。
空間にカメラやマイクやセンサーが存在するようなイメージです。
主人公がたったひとりしかいないシーンであっても、主人公のことを「三人称視点」で描写できます。
空間にセンサー類が付いていることで、人物が動いてもついていったりその場にとどまったりも自在です。
主人公にクローズアップしていたところから徐々に引いていって全体を俯瞰するなんていうこともできます。
「語り手視点」がわかりづらい人が結構いらっしゃるようで、私なりに近しいものを探していました。
そこで「タイムマシン」「講釈師」と「紙芝居屋」にたとえます。
「タイムマシン」は『ドラえもん』のひみつ道具として有名ですね。
のび太たちは「タイムマシン」に乗って目的の時間へ自由に行くことができます。
「タイムマシン」に乗ったままその時間の出来事を覗き込んでいるような印象が「語り手視点」です。
「タイムマシン」はちょっとわかりにくいかもしれませんね。
「講釈師」とは無声映画で映像を流しながら場面の説明を行なう人のことです。
「講釈師」は映像を撮った場面に立ち会ったわけでも、映像の中の世界のことを知っているわけでもないのに、「まるでその場にいたかのように」語ります。
太平洋戦争時に日本中で前線の無声映画に講釈師が「日本優勢」を喧伝していたため、玉音放送が流れるまで日本の優位を信じて疑わなかった人がいたほどです。
「紙芝居屋」は今でも少数残っていますね。
彼らは自転車に紙芝居の道具を入れて全国を旅しているのです。
子どもたちを前にして「紙芝居」をするのですが、こちらも「紙芝居」の世界に行ったわけでもないのに「まるでその場にいたかのように」語ります。
このようにそこにいたわけでもないのに「まるでその場にいたかのように」語るから「語り手視点」なのです。
「タイムマシン」は行為が起こった時間にはその場にいなくても「タイムマシン」を使って「その場を見た」ことが明確になっていますよね。
このあたりが「講釈師」「紙芝居屋」との違いですね。
そして現在「三人称視点」といえば一般的にはこの「語り手視点」を指していることが多くなりました。
本来の「三人称視点」は古代中国で王朝の歴史を記してきた史官が代表例です。
君主と部下・謁見者とのやりとりを文字に起こして将来のために保存していく人が史官と呼ばれていました。
「三人称視点」として君主と部下・謁見者とのやりとりは残しても史官は基本的に文章へ登場しません。
史官が登場するのは法家『管子』に出てくる斉の桓公が自分の記録が読みたいと無理難題をもちかけて管仲に諌められたときと、前漢までの正史『史記』の作者である司馬遷くらいなものです。
このような史官を用いない「三人称視点」として代用可能なのが、現在「語り手視点」が受け入れられている理由ではないでしょうか。
いつでも・どこでも
「語り手視点」は「いつでも」「どこでも」センサーが出現しますので、基本的に見られない・聞こえない・感じられないものはありません。
ただしそれに溺れていると、あるシーンで別の時間・別の空間のことを交ぜ書きしてしまうおそれがあります。
便利すぎるがゆえの弱点ですね。
別の時間・別の空間のことを書きたければ段落を改めて空行を入れて時間や空間が隔たったことを明示してください。
また「語り手視点」は「三人称視点」の代用ですので群像劇で群雄が相並ぶ場面では用いやすいのです。
しかし主人公へ感情移入しづらいという欠点もそのまま有しています。
シーンごとに主人公が明確なのであれば、そのシーンは「一人称視点」か「三人称一元視点」を用いましょう。
読み手を感情移入しやすくさせるひと工夫です。
「一人称視点」の小説、「三人称視点」の小説を書くというのではなく、「あるシーンではこの人物の一人称視点」、「このシーンではこの人物の三人称一元視点」、「皆が集まるこのシーンは三人称視点」というように使い分けてください。
この多重性こそが現在の小説界隈ではスタンダードな表現方法です。
最後に
今回は「語り手視点は使いやすい」ことについて述べてみました。
現在の「三人称視点」はほぼ「語り手視点」だといっていいでしょう。
「神の視点」は厳禁ですし、「三人称一元視点」はただ「一人称視点」を複雑化しただけです。
残された「語り手視点」が現在の「三人称視点」を代表しているのはそんなところからも明らかになっています。
ただし便利すぎるために多用され、主人公に感情移入しづらい小説か出来あがりやすいのが欠点です。
回避するには、できうるかぎり「一人称視点」か「三人称一元視点」で書けないかを模索してください。
たいていの場合、そのシーンの主人公が誰かは読めばわかります。
であれば、その人を主人公にした「一人称視点」「三人称一元視点」で書けばいいのです。