23. :あらすじの復習
ここまで二十二本のコラムを書いてきましたが、ほとんどが「あらすじ」にかかわるものでした。そこでいったん復習してみたいと思います。
いい小説はいい「あらすじ」から生まれます。「あらすじ」を丁寧に余さず書き記したものが文章となり小説となるのです。
あらすじの復習
いよいよあらすじを書いてみましょう。
まず主人公と「対になる存在」が存在していますか。彼ら(彼女ら)は「どうなりたい」のですか。彼らが存在するのはどんな世界観ですか。そして「主人公の結末」は明確ですか。佳境で主人公と「対になる存在」との最終決戦において、主人公は勇気ある一歩を踏み出していますか。「主人公の結末」に至るまで主人公側と「対になる存在」側に絡んでくる登場人物はどのくらいいてその重要度はわかりますか。
これをすべて満たせば、それを書き表したものが「あらすじ」となります。
キャラの性格設定は粗くていい
何度でも言います。主人公と「対になる存在」とすべての登場人物の性格は最初から細かく決めないでください。細かく決まってしまうと自分たちの意志で「キャラが勝手に動く」余地がありません。キャラに躍動感が生まれないのです。
だから主人公と「対になる存在」の性格は「どうなりたい」かを決めて後は出来事の処理の仕方を通じて読み手に伝えていくようにしてください。
他のキャラの性格は主要人物との関係性に必要な性格や特徴のみを規定するだけでかまいません。こちらもあまりにも性格や設定をガチガチに固めないようにしましょう。やはり「キャラが勝手に動く」ことを妨げるだけです。
あらすじ重視派(考えてから書く派)と筆走り重視派(書きながら考える派)の書き手がいます。そのどちらであっても、人物設定を細かく決めておくのは「キャラが勝手に動く」躍動感を奪うのです。結果小説の魅力は目減りします。
キャラが「どうなりたい」のか
主人公と「対になる存在」が「どうなりたい」と思っているのか。これは物語冒頭から述べられている必要があります。
悪の大魔王が「世界を征服して独裁者として君臨したい」と思っていて、善の勇者が「悪の大魔王の脅威を取り除くために大魔王を討たなければならない」と思っている。
このような勧善懲悪ものは低年齢層でも理解できます。あなたが愛読なさっている小説でも、物語冒頭から主人公と「対になる存在」が「こうなりたい」ということが提示されているはずです。
現代日本における物語の構図では、主人公も「対になる存在」もそれぞれに正義を行おうとしています。正義対正義の戦いの構図です。
海外の物語は基本的に勧善懲悪の構図で、子どもでもわかるようにしています。そのほうが低年齢層も取り込めて売上が見込めるからです。マーケティングを勘違いしているとも言えます。そのため海外のアニメは世界で苦戦し、日本アニメが世界を席巻するのです。
脇役たちも人間です。当然それぞれ「自分はこうなりたい」という動機を持っています。それをどこまで開示するかで物語の幅が広がるのです。しかしあまりに広げすぎるとすべてを終わらせるために原稿用紙の枚数が足りなくなります。脇役でも主要なキャラ以外はとくに「こうなりたい」と主張しないほうがいいでしょう。
世界観は「どうなりたい」と「どうなった」の根幹
世界観によって主人公が取りうる選択肢の重さも様々です。
人が死んでも簡単に生き返らせる魔法や道具がある世界観なら「死」はそれほど重要な意味合いを持ちません。いつでも蘇らせることができるのだから「死」なんて一時的なものであって命の重みなんてものは存在しないのです。マンガの鳥山明氏『DRAGON BALL』では七つ集めれば願い事がなんでも叶うマジックアイテム「ドラゴンボール」が出てきます。そのせいでド派手な戦闘の末にキャラが壮絶に死んだとしても、読者は「はいはい、ドラゴンボールで蘇生させるんでしょ」と白けてくるのです。とくに連載末期の読み手はこんな感じでした。
ゲーム内世界が舞台で、失敗したらリセットボタンを押して何度でもやり直せる世界観なら「選択肢」が占める重みも軽くなってしまいます。長月達平氏『Re:ゼロから始める異世界生活』などに代表されるタイプの世界観です。たとえどんなに惨たらしい殺され方をさせても、命の重さがどうしても軽くならざるをえません。
ゲーム内世界が舞台であっても命の重さに価値を置いた川原礫氏『ソードアート・オンライン』などの佳作もあります。このあたりはゲーム性を全面に出す小説と、世界観に取り入れるだけなもの(つまり舞台設定がゲーム内というだけで普通のファンタジーもの)との違いでしょう。
現実世界に少し不思議を混ぜた世界観(藤子・F・不二雄氏の「SF(少し不思議)」より)であれば、命や死、出来事に対する選択肢の重みは極めて現実に近しくなります。それでもその「少し不思議」がどのようなものでどの程度のものかにもよるのですが。
このように世界観によって命や死、出来事に対する選択肢の重みは変わってきます。だから世界観をある程度明確に定めておく必要があるのです。こちらもガチガチに固めるのではなく、設定しておかなければならない世界観のみを作り込めばいい。
もし世界観が曖昧なら「あれ、このピンチならあの魔法を使えばすぐ解決するじゃん」と読み手が感じてしまう状況が起こりえます。
そのような事態が起こると今まで耽溺していた読み手は小説内世界から一気に飛び起きてしまうでしょう。書き手より読み手のほうが予備知識がないぶん記憶力と想像力に優れています。
設定の矛盾とくに世界観の矛盾は絶対に避けなければなりません。そこで見限られてしまうと、読み手はもう二度と同じ書き手の小説を読もうとは思わなくなります。だって読み手よりも低レベルな「疑似体験」しかさせてもらえないのですから。
出来事を乗り越える
さまざまな出来事や試練に出遇って、あるときは勝ち、あるときは負け、あるときは逃げるなどして彼らはどう変化していくのでしょうか。なにを得てなにを失ったか。これが「あらすじ」では最もたいせつです。
この過程の積み重ねが物語の厚みであり、「主人公がどうなりたい」ところから出発して「主人公はどうなった」に至るまでを紡ぎます。この経過を経ずして主人公が変化することはありえません。
もし出来事が起こらずに主人公が変化してしまったとしたら、それはかなり薄っぺらな物語です。いえ物語と呼ぶことすらできないほど低レベルです。幼稚園児の作文と大差ない。そのくらいの酷評をされます。
出来事に出遇って解決したけどなにも得られなかったしなにも失わなかった、ということはありません。出来事の前後で変わっていないように見えますが、必ず「いったん手に入れたものを失った」か「いったん失ったものを取り戻した」かしたはずです。その過程も物語には必須なので残さず書き記しましょう。
ネーミングは必要最低限に
読み手は「名前が書かれた」人物の姓名や地名を片端から記憶しにかかってきます。その人物や土地がのちのち物語でなにがしかの働きをするだろうと先読みするからです。
小説にはムダな文章は必要ありません。「名前が書かれた」というひとつとっても例外ではないのです。
のちのち主人公側や「対になる存在」側の協力者であったり批判者であったりするような人物だから「名前が書かれた」と読み手は思います。そこで出来事が起こるから「名前が書かれた」とも思います。
物語の展開にさほど影響を与えないような人物や地名に名前を付ける必然性はないのです。
このように「名前が書かれた」ひとつをとっても小説にムダは必要ありません。それは性格や性向についても同じことが言えます。たいした影響も与えないような人物に、詳細な性格や性向・趣味や外見などは要らないのです。
そういった「名前を書かれない」「性格も書かれない」人は「その他大勢」にしてしまうとよいでしょう。「その他大勢」に詳しい設定など不要です。その場にいる「その他大勢」として記述はバッサリと省いてしまってかまいません。
佳境でありったけの勇気を振り絞る
主人公は「対になる存在」との最終的な対峙において勇気を振り絞って行動しているでしょうか。
ここで勇気を振り絞れないような主人公では、読み手が盛り上がれませんよね。だってここが物語の山場なのです。ここで盛り上がらなくていつ盛り上がるのでしょうか。
ゆえに私は皆様に「佳境から書く」ことをオススメしています。最も盛り上がるシーンなら、興に乗って筆がスラスラと進むものですよね。
それくらい最終局面を強く思い描けているから、この物語を小説にして読み手に読んでもらいたい。私だったらそう思います。
佳境なのにどう書けばいいのか思い浮かばないのなら「その程度の物語」でしかありません。わざわざ小説にするまでもないのです。
最後に
今回は「あらすじ」づくりの要点を復習してみました。
ここまできっちりと意識してあらすじ創りをしていれば、物語が破綻することはまずありません。人物設定や舞台設定のムダな開示もかなり削れます。
出来事はできるだけ多めに作っておいて、必要のなさそうな出来事はバッサリと削ってしまいましょう。
お気に入りな出来事ができたのだけど、今回の小説では役に立ちそうにないなと感じたら、この小説では思い切って削除してください。そして次回作でそれを活かせるような世界観と人物設定をすればいいのです。
人生で一本しか小説を書いてはいけない、などという制約はありません。
書きたい出来事があるのなら、それが活きるような小説を新たに書けばいいのです。今を惜しんで無理に今作に投入しても重要度が高くなければ効果は出ません。しかし次作でその出来事が佳境になるような小説を創れば、渾身の出来事も最大限に効果を発揮します。書き手にはこのくらいの潔さが不可欠です。