20. :対になる存在もなるべく早く出す
アニメのサンライズ・富野由悠季氏『機動戦士ガンダム』はパイロットとしてのアムロとシャア、指揮官としてのブライトとシャアは、冒頭ですぐに提示されていますよね。だから観ている側はシャアが「対になる存在」だとすぐに理解してその対決を観ていられます。もしシャアの出番が第三話からだったらこうはならなかったはずです。
でもたまにあるんですよ、そういう物語が。たとえば恋愛もので主人公ははっきりしているけど「対になる存在」が誰なのかさっぱりわからない。でも始めのうちに出てきた人が「対になる存在」であればこれはこれでありだと思います。ところが途中参加してきた人が「対になる存在」になったりすることがよくあるのです。
アニメのサンライズ・富野由悠季氏『重戦機エルガイム』では初回から登場したファウでもアムでもなく、その次に出てきたレッシィでもなく、話が中盤を過ぎてから出てきたオリビーが恋愛面での「対になる存在」になりました。そのせいで話の唐突感が際立ってしまいました。
対になる存在もなるべく早く出す
主人公をなるべく冒頭で出す必然性はわかりました。
でもそれと同様に「対になる存在」もなるべく早く物語に登場させてください。実際に登場させてもいいし、主人公にわからない形で説明文に入れてもいいですし、主人公が情報として聞く程度でもかまいません。
物語の終わりで「主人公がどうなった」かを見せるのが小説ですが、主人公と「対になる存在」との関係がどう推移して結果どうなったのかを見せるのもまた小説の役割なのです。
主人公ひとりだけしか出てこない小説は退屈極まりない。主人公とやりとりする他人がいなければ主人公の性格や人となりを読み手にわからせる手段はありません。だからこそ「対になる存在」は小説に必要不可欠なのです。
対になる存在が物語を面白くさせる
英雄ものなら主人公とラスボスはどうなったのかが物語の最大の見せ場になります。恋愛ものなら主人公と想い人との関係がどうなったか気になる方が多い、というよりそれを見せるのが恋愛小説ですよね。
主人公は早めに登場させているのに、ラスボスも想い人も物語に出てくるのがずっと後では彼らの物語上の存在感が軽くなってしまいます。
恋愛ものでたとえれば、主人公と異性の幼馴染みが冒頭に出てきて、ずっと後になって主人公の想い人が出てくる。このような形にした場合、主人公は異性の幼馴染みとくっつくのが当然の帰結です。なぜなら物語で描かれた時間が長いのは幼馴染みのほうだからです。それなのにかなり後れて登場した想い人と結ばれてしまうのでは、読み手の期待を裏切り、小説を読んだ時間がムダに思えてしまいます。唐突感や場当たり感も強くなるのです。
こういうミスマッチは人物設定と舞台設定を綿密に行ったうえで場当たり的に小説を書き進めていくタイプの書き手の作品に多く見られます。「主人公の結末」を設定していないがために「対になる存在」との最終的な関係性すら決められていない。
このような小説は「過程を読む」ぶんには楽しいのですが、最終話を読んだ後に「これはいい小説だった」という感想を抱けません。展開が面白かっただけに残念感が強くなるのです。これではあまりにももったいない。
対になる存在をできるかぎり早めに登場させる
主人公は早め、できれば冒頭の一文に登場させるのが原則です。それと同等に「対になる存在」も噂話だけでもいいのでできるかぎり早めに登場させてあげましょう。それだけで二人の関係の必然性は高まります。
『桃太郎』では川から大きな桃がどんぶらこと流れてきてから長じるまでに「対になる存在」が出てきません。長じてからようやく「対になる存在」として鬼が話題に上り、桃太郎が「鬼退治」を決意して旅に出ます。正直に言って「唐突感」しか覚えません。
それに対して『シンデレラ』では主人公のシンデレラは継母や義姉らにこき使われていますが、彼女らから「対になる存在」である「王子様」の存在が冒頭で話題に上ります。きちんと前フリをしてあるので、シンデレラと王子様が結ばれるのは当然の帰結なのです。読後感も「よかったよかった、めでたしめでたし」で終われます。
日本の昔話は対になる存在が疎かになりがち
主人公と「対になる存在」との関係性を完全に放り出した物語もあります。『浦島太郎』です。
「対になる存在」がよくわからない。本来は助けた亀か乙姫かのはずなのです。でも「対になる存在」との関係性とその推移が明らかではありません。「主人公の結末」においてもせいぜい「乙姫からもらった玉手箱」というキーアイテムが出てくるだけ。乙姫との関係は何も書かれていません。
日本の昔話は基本的にストーリーとして完成していたものは『鶴の恩返し』などごく少数です。これは昔話が警句とすべき事象を物語化しただけなので致し方ありません。
海外の昔話は日本の昔話と同じく警句としての意味合いも持たせてありますが、それを読ませるためにストーリーとして「対になる存在」をはっきりと決めてあります。そして主人公と「対になる存在」とが最終的にどうなるのかを見せる形が多いのです。
この違いとして考えられるのは、日本文学が長年「候文」で書かれており明治時代に「言文一致体」が確立まで時間がかかった点も大きいでしょう。「候文」の頃にも昔話は存在していました。ですが日本では身分の高い者しか読み書きができず、昔話の多くは読み書きのできない人たちによる「口伝」でした。文章として残ってきたわけではないのです。
「候文」の頃から物語として確立していたのは歌舞伎や落語といった古典芸能が挙げられます。これらもともに「口伝」でしたが、お客様の前で演ずるために話のオチをしっかりと作り込んであったのです。だから歌舞伎も落語も、主人公と「対になる存在」との関係性とその推移、そして「主人公の結末」をしっかり描いたものが多いのです。
対になる存在の用いられ方を検討する
これから小説を書こうと思っている方は、小説がしっかりと物語として成立するために主人公と「対になる存在」との関係性とその推移、そして「主人公の結末」をつねに意識してください。
小説を読む際も「主人公はいつ登場しているか」「対になる存在はいつ登場しているか」「主人公とその対になる存在の関係性とその推移はどんなだ」「主人公の結末はどうなっているのか」をつねに意識して読んでみましょう。
これは書き手自身がとくに好きな小説で検討することをオススメします。どうしてその小説のことが好きになったのか。その謎を解き明かせば自分の作品にも活かせるからです。
主人公と「対になる存在」の関係性とその推移は、とくにあらすじ創りにおいて重要です。
あらすじの段階で主人公と「対になる存在」の関係性とその推移、そして「主人公の結末」を見据えるのです。
小説は文字の積み重ねであり、原稿用紙には枚数制限もあります。読み手には貴重な時間を割いて読んでもらっているのです。ムダをしていい道理がありません。
書くべきことをしっかりと書く。あまりにも基本ですが、人物設定と舞台設定に凝り、場当たり的に話を進める書き方をする書き手は往々にして見落としがちです。
最後に
今回は「対になる存在」を早めに登場させることについて述べました。
小説には「主人公」が不可欠ですが、主人公ひとりだけしか出てこない小説も退屈極まりないものです。人物がいっさい出てこない風景だけの文章は小説とは言えません。しかし主人公ひとりしか出てこない小説もまた小説としては成立させづらい。
他人との人間関係とそれによる主人公の性格や性向などの変化による成長を書いてこそ、読み手は小説から「疑似体験」を通じて経験知を高めることができます。
どうせ書くなら読み手の心にいつまでも残る作品にしたいものですよね。
そのためには読み手に物語を「疑似体験」させること、それを通じて経験知になることが重要です。
主人公が不可欠のように「対になる存在」もまた不可欠といえるでしょう。