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三百枚書けるようになるお得な「小説の書き方」コラム  作者: カイ.智水
基礎篇〜右も左もわからないときは、まずは基礎から
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2. :小説には主人公が不可欠である

 今日のコラムは「主人公」について述べてみました。

 小説には必ず「主人公」が出てくるけど、なぜかわかりますか。という内容です。

 そして小説に求められる「主人公」の扱い方についても言及しています。

小説には主人公が不可欠である


 人は書かれていることから「何かを得られる」と思うから文章を読みます。

 実用書であればノウハウであり、歴史書であれば史実です。

 読み手が小説に何を求めているのか。正確に把握していなければ読み手の期待を裏切ってしまいます。とくに読み手が初めて接する作品が読者の期待を裏切ったらその場で「クズ小説家」の台帳に載せられるのです。私のように。他の作品でよほどの大ヒットを生まないかぎり、読み手は二度とその書き手の著作を手にとることはないでしょう。


 小説に求められているものとはなにか。

 読み終えたとき、疑似体験を通して「心に痕跡が残る」。それによりその後の感じ方・考え方が影響を受けること。手短に言えば「感動する」ために小説を読むのです。

 感動するために必要なものがいくつかあります。

 今回はその中で最たるもの「主人公」について書きます。


 小説には必ず「主人公」が存在します。「主人公」の存在しない文章はそもそも小説とは呼べません。

 「主人公」の存在しない文章を想像してみればすぐにわかるでしょう。風景だけを淡々と書き連ねていっても読み手の頭の中には風景が浮かぶだけです。

 事物を書き込む順そのものが意志を持った視点操作であり、その風景を見た人が見た順に文章を書きつける。文章は語り手の見た順を定めただけです。写真に写っている風景を「その風景を見た人」の視点で見ていくのに似ています。つまり三人称視点の文章だと言えるのです。


「風景画」は写実派であれ抽象派であれ、絵を観ている人に画家が描いた風景を直接視覚で訴えることができます。しかし小説はしょせん文字の連なりにすぎません。ただ風景だけを書き連ねたところで、読み手に自然を感じさせることはとても難しいのです。


 どれだけ巧みに「主人公」を排した文章を書いたところで、出来あがるのは小説ではなく詩の類いです。たとえば五七五調なら俳句・川柳になり、五七五七七調なら短歌になります。「五月雨をあつめて早し最上川」という有名な一句には主人公はおらず、ただ風景だけが淡々と書かれています。これこそ「主人公」の存在しない風景だけの文章が小説になりえない証左です。

 小説には「主人公」が必要不可欠であり、「主人公」がいなければその文章は詩の類いとなるのは自明といえます。




主人公がいないとどうなるか

 ここまでは時間と空間が固定された状態を考えてきました。そこから進み、時間の流れを追って風景の移り変わりを描写するとどうなるでしょうか。

「古池や蛙飛び込む水の音」の一句も俳句であり当然風景を詠んでいますが、動物である蛙が登場しています。この蛙が古池に飛び込んで生ずる水の音により躍動感を表現しているのです。ややもするとこの蛙が「主人公」になりえてしまいます。俳句よりもやや小説寄りと呼べる一句でしょう。


 より長い時間の移ろいを描くとどうなるか見てみます。「朝から昼になったな」と読み手に感じさせることはできますが、それだけでは「心に痕跡を残せ」ません。そのような文章を続けていくと、風景だけの文章には明確な「終わり方」がありえないことに気づきます。風景はどこから書き始めても構いませんが、書き終えるための明確な終了点が存在しないのです。宇宙はすでに百億年以上の時間が絶え間なく流れています。そしてこれまで明確に「終わった」ことは一度としてありません。ゆえにどこで書き終えてもよいわけですが、それで読者の「心に痕跡を残す」ことなどできはしないでしょう。


 それなら巧みな比喩を用いて風景を「情景」にしてしまえばいいだろう。そう考えた時点で書き手は文章へ無意識に「主人公」を持ち込んでいます。「巧みな比喩」とは「誰かが感じたことを書く」ことだからです。私小説では「書き手が感じたことを書く」ことになります。そうなると一人称視点の小説として「書き手」が文章の「主人公」になっているではありませんか。

 視点を排した小説を書くことはできません。小説にはつねに視点が必要となるのは前回お話したとおりです。




主人公の人となりを早期に見せること

 前述したとおり「主人公」のいない文章は詩の類いです。

 小説を書くうえで、書き出しに情景描写を長々と書いてしまうと、読み手はすぐに飽きて読むのをやめます。

 読み手は「主人公」について知りたいのです。「どのような人物が主人公で、これからどんなことが起こるのだろう」「出来事(イベント)を受けて主人公はどうするのだろう」というとても単純なことを早く知りたい。

 なるべく早く「主人公」を登場させ、すぐに出来事(イベント)を起こしてそれをどう対処するのか。ここを読むだけで読み手は「主人公の人となり」を知り、共感できそうなら続きが気になって読み進めるかレジカウンターに書籍を持っていきます。共感できないと思われたらその場で書籍は書棚に戻される。現実はとても残酷かつ明確です。

 小説であれば、書き出しからなるべく早い段階で主人公を登場させ、出来事(イベント)を起こしてどう対処していくのかをすぐに見せる。「主人公の人となりを見せる」を早期に提示すること。このツカミさえしっかりしていれば、あなたの小説を最後まで読んでくれる人数を確実に増やしてくれます。

 逆に「この主人公では共感できそうにない」と早めに読まない決断をしてくれる人数も増やしてくれます。こちらは害しかもたらさないのではないか。そう思われるかもしれません。ただ「別の主人公の話ならまた試し読みしてみようかな」という気持ちを読み手は起こしてくれます。つまり将来に向けた潜在的な読み手の総数が高まります。

 もし、書き出しからいつまで経っても「主人公」が登場せず、「主人公」が出てきたとしても出来事が起こらないため「主人公の人となり」がわからない。そんな小説を読み手が読んでしまったら。ほとんどの読み手は本を閉じて書棚に書籍を戻します。そして二度と同じ書き手の小説を読もうとしなくなるのです。

 一作書くごとに読み手の総数が減っていく。書き手としてこれほど怖いことはありません。


 小説には「主人公」が必要であること。

 「主人公」を早めに登場させること。

 早めに出来事(イベント)を起こして「主人公はどう対処するか」を見せて「主人公の人となり」を早めに見せること。


 この三つが小説には不可欠です。

 将来的に読み手が増えていくのか離れていくのか。見切りをつける判断を留保する読み手をどれだけ確保できるのか。それをじゅうぶんに考えている書き手には、新たな「主人公の人となり」次第で確実に読み手が必要としてくれる時期はやってきます。

 考えなしに書いても読み手は離れていくだけです。




最後に

 今回は「小説には主人公が不可欠である」ことについて論じてきました。

 当たり前のことなのですが、改めて考えてみました。

「書き手」の評価を左右するのは説明力でも描写力でも会話力でもなく「主人公の人となり」なのです。これが読み手に受け入れられるか否か。読み手の心にがっちりとはまり込んだら、どんなに拙い文章であっても読み手は読み進めてくれます。

 小手先のテクニックよりもまず「主人公」ありき。

 それが小説なのです。




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