198.再考篇:描写は修飾と出来事にあり
今回は「描写」について見ていきます。
「説明」との差はタイトルにあるように「修飾」「出来事」にあります。
描写は修飾と出来事にあり
小説を書くとき、最もたいせつにすべきなのは「描写」です。
なぜなら小説や随筆などの散文以外で「描写」を書くことはほとんどありません。
試しに新聞記事を読んでみてください。「事実の説明」は書いてあっても「状況の描写」はいっさい書かれていません。
これが写真週刊誌になると「状況の描写」が混じってきます。
新聞は「客観的な情報」だけを載せても契約さえとれれば自動的に売れますが、写真週刊誌は立ち読みした人が「面白そう」と感じなければ買ってくれないからです。
では小説はどうでしょうか。
小説も「面白そう」と感じなければ買われません。
しかも写真週刊誌と違い、表紙と口絵、数点の挿絵以外すべて文字で書かれています。
写真週刊誌はグラビアアイドルが好みなら買われていくこともあるでしょう。ライトノベルも絵師さんが描いた表紙が好みなら買われる可能性はあります。
しかし小説はあくまでも文章の良し悪しがすべてです。いくら人気のある絵師さんを起用しても、肝心の文章がつまらなければ二度と同じ書き手の小説を買おうとは思いません。
逆に表紙も口絵もないのに数十万部売れる大衆小説もあります。書き手の「筆力」だけで読み手を惹きつけているのです。
では書き手の「筆力」を左右するものはなんでしょうか。
会話と心の声は誰でも書ける
本コラムでは会話と心の声を合わせて「会話文」と呼んでいます。どちらも声を読み手に直接読ませるための文章だからです。それが表に出ているのか心の中でとどまっているかの差にすぎません。
だから日本語で会話ができる人なら「会話文」は書けて当たり前なのです。とくに日本語は声をかな書きだけで正確に書けます。
英語の場合は発音はできても単語の綴り(スペル)を間違えることがよくあるのです。昔アメリカのジョージ・ブッシュ氏が大統領時代に綴りを間違えて大騒ぎになったことがあります。
また、この同じ発音を利用して造語することもあるのです(たとえば甲虫の「Beetle」に拍子の「Beat」を掛けて「Beatles」とした例があります)。
しかし日本語のひらがな・カタカナは表音文字なので、声をそのままかな書きできない人はまずいません。だから「会話文」は誰でも書けるのです。
「会話文」のうち声の音が表に出ている会話は基本的にカギカッコ「 」で囲います。声の音が心のなかでとどまっている心の声なら一般的に丸カッコ( )で囲うことが多いです。書き手によっては心の声もカギカッコを用います。
とくに言文一致体が確立した明治後期から昭和中期までの作品はたいてい心の声もカギカッコを用いているのです。これはそれまでの文壇の歴史で心の声に丸カッコを用いる習慣がなかったことが一因でしょう。現在では心の声は丸カッコを使うのが当たり前となりましたので、皆様は丸カッコを用いるようにしましょう。
ちなみにテレビやラジオなどから聞こえてくる声や超能力などでやりとりする無言の声の音はカギカッコ・丸カッコとは別のカッコ記号を用いるのが一般的です。たとえば〈 〉や〔 〕などを用いることが多いので好きな小説を読んでみて確認してみましょう。
これら「会話文」は行頭にカッコ始め“「”や“(”を置いて「地の文」と区別します。その代わり「地の文」は行頭で全角一字空白を入れ、二文字目から書くのです。
説明
では「地の文」を見てみましょう。「地の文」は大きく説明と描写に分けられます。
説明とは読み手に「客観的な情報」を読ませるのが目的です。見え方や感じ方、憶測や推測や予測、比喩や修飾などは主観的なので描写に入ります。
説明は「5W1H」を揃えて「客観的な情報」が伝わるように書くものです。「5W1H」についてはコラムNo.170をご参照くださいませ。
新聞の記事は説明だけで書かれています。
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十九日未明、千代田区外神田二丁目にある山田太郎さんの住宅から火の手が上がり全焼した。出火当時家の中にいた山田太郎さんと妻の花子さんは炎に気づいて外へと避難し、二人とも無事が確認されている。駆けつけた周辺住民の迅速な初期消火と逸早い消防の到着により鎮火され、隣家への延焼は食い止められた。なお台所が激しく燃えていたことから、消防は鍋の空焚きが原因である可能性を視野に入れて出火元の特定を進めている。
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以上のようにすべて説明です。主観的な文章はひとつもありません。
小説でも「設定」を読ませるためには説明を書くことになります。
だからといって延々と説明が続くと「設定資料集」を読まされているようで、読み手はうんざりとしてしまうのです。
描写の定義
では本題である「描写」について見てみましょう。
まず「描写」とはどのような意味なのかを調べてみます。
「物の形や状態、心に感じたことなどを、言葉・絵画・音楽などによって写しあらわすこと。」(『大辞泉』より)
「えがきうつすこと。特に芸術的表現において、客観的形象・事態・感情などを絵画・言語・音楽などにより的確に描き出すこと。」(『大辞林』より)
「文章で性格や風景などを描き分けること。以前は神のような全知全能の視点からのものであったが、現在はある一視点からだけの描写に移行した。」(『角川類語新辞典』より)
「対象を観察して知覚・認識したことをありのまま文章などに描き表すこと」(『三省堂類語新辞典』より)
以上を小説に限定して整理すると次のようになります。
「対象を観察して物の形や状態や風景などを、感じたり認識したりしたことにしたがってありのまま文章に書き分けること」
「心に感じたことや感情や性格などを、感じたり認識したりしたことにしたがってありのまま文章に書き分けること」
この二つです。前者を「情景描写」「人物描写」、後者を「心理描写」呼ぶことが多いです。
ちなみに『角川類語新辞典』にある「以前は神のような全知全能の視点からのものであった」はいわゆる「神の視点」のことになります。そして「現在はある一視点からだけの描写に移行した」は一人称視点または一人称視点を併用した三人称視点のことです。
情景描写
話し手の外にあるものを描写することを総じて「情景描写」と呼びます。
たとえば「空に月が昇る」は情景の説明です。これは話し手の外にあるものの状態をありのまま述べています。これに対し「青い空に月が昇る」「空に月がゆっくりと昇る」は情景描写です。違いは「青い」という形容詞または「ゆっくりと」という副詞があるだけ。
また「競りが始まる前の場内」は情景の説明です。これに対して「競りが始まる前の静かな場内」は情景描写になります。こちらも違いは「静かな」という形容動詞があるだけです。
描写を決定づける要素のひとつは「形容詞」「形容動詞」「副詞」による体言や用言の「修飾」になります。「修飾」には主観による感性が交じるからです。同じ単語を「空が青い」「昇るのがゆっくりだ」と書けば説明文になるのです。こちらは「修飾」ではなく述語になっていますよね。
また「空がサファイアのように青い」「場内は通夜のように静かだ」のように比喩を入れるとこれもまた描写の要素になるのです。比喩も「修飾」のひとつになります。
人物描写
話し手の外にある他人を描写することを総じて「人物描写」と呼びます。
たとえば「目の前にいる男性警部補は髪がボサボサで、コートはヨレヨレ、つねに葉巻を手放さない」は描写に見えますが説明です。「ボサボサな髪に、ヨレヨレのコートを着て、つねに葉巻を手放さなさい男性警部補が目の前にいる」なら描写になります。
「亜紀は頬を赤らめた」なら説明、「亜紀は頬をぽっと赤らめた」なら描写です。「ぽっとした」ように受け取ったのは話し手の感性によりますよね。
こちらも情景描写と同じで「修飾」になっているかどうかが分かれ目です。「男性警部補」の例では使っている単語そのものはまったく同じなのに、文としては説明と描写に分かれてしまいます。話し手の感覚が反映されて表されている「修飾」が入れば描写と言っていいでしょう。
状態をありのまま説明するだけなのと、心に感じた印象を交えた「修飾」が入るという違いがあります。
たとえ単語が同じでも「修飾」にするかしないかで描写と説明に分かれていくのです。これが描写の難しいところでしょう。
心理描写
話し手の心身に起こるものを描写することを総じて「心理描写」と呼びます。
目に見えた形状や状態、耳に聞こえた音声、鼻ににおった香り、舌に感じた味、肌に感じた刺激といった五感と、心に生じた第六感を通して感じたことを書くのも描写です。
たとえば「時がゆったりと流れている」という文も「ゆったり」を感じているのは話し手の心になります。時は誰にも等しく同じ速さで流れているのがこの世界の大前提です。それを「ゆったり」と感じるのは話し手の主観が挟まります。だから「ゆったりと」の一語が入るだけで描写に化けるのです。
「ヘッドライトが眩しく照らす」「目が眩むような強い光」は視覚に訴えかける描写になります。
「耳をつんざく轟音」「わずかに聞こえるほど小さなささやき声」は聴覚に訴えかける描写です。
「肌を剣山で刺すような痛み」は触覚に訴えかける描写になります。
また「心理描写」を「心情を感じさせる行動」や「心理を象徴する風景」の描写で表すこともあります。
とくに「心情を感じさせる行動」は小説が説明だらけにならないためになくてはならないものです。
「その言葉に私の心臓は早鐘を打った」はドキドキした心情を表し、「あまりの怖さに腰を抜かしてしまった」は恐怖を感じさせる行動ですよね。
「熱い思いがこみ上げてきた」なら感動した意ですし、「次から次へと暗い影が襲いかかってくる」なら不安を感じさせますよね。
これらを「その言葉にドキドキした」「とても怖かった」「とても感動した」「次々と不安が募る」と書くとすべて説明になってしまうのです。
注意したいのは「心理を象徴する風景描写」です。これを書きすぎると文章がキザったらしく感じられます。
「心理を象徴する風景描写」を書くことで本人は「うまく書けた」「してやったり」と満足してしまうものです。
でも読み手は「はいはい、そうですか」と聞き捨てます。
確かにマンガやアニメ、ドラマや映画などでもこの手の演出をすることはあるのです。でもそれらは効果的なポイントにのみ用いています。
全編この「心理を象徴する風景描写」で書かれてしまうとあまりにもうわべだけでキザったらしいのです。
だからマンガやアニメ、ドラマや映画などに数多く触れてきた現在の読み手はそんなキザったらしい表現に飽き飽きしています。
それでも効果的なポイントに絞れば今でもじゅうぶん通用する描写です。
「冷たい雨に打たれた」は悲嘆に暮れる心理を、「寒い風が吹き抜けた」は寂しい心理を象徴する風景描写になります。
でも気象や天候が心理とリンクするというのは、一種の「超常の力(超能力)」のような力を感じませんか。
具体的な出来事を読ませる
説明と描写でいちばん大きな違いは、説明は「ある物事を5W1Hに基いて書いた」文であるのに対し、描写は「ある物事の出来事を書いた」文だということです。
「時計を見たら八時の五分前だった。私は急いで学校へ出かけた。」と書けば説明です。
「時計を見たら八時の五分前だった。今すぐ走れば学校に間に合う。お腹は空いているが高校三年間で無遅刻無欠席を続けてきた意地がまさった。迷っていられない。私は食卓を通り過ぎて玄関を飛び出し、学校へ続く道をひたすら駆け抜けていった。」と書けば描写になります。
「今すぐ走れば学校に間に合う。」「お腹は空いているが高校三年間で無遅刻無欠席を続けてきた意地がまさった。」「迷っていられない。」はいずれも心の声だといえます。心の声をカッコ()で区切らず地の文に混ぜ込んでしまうことで、文章の視点が誰にあるのかがすぐにわかるのです。
一人称視点では当たり前ですが、一人称視点を併用した三人称視点の場合もそのシーンの主人公が明確になります。
完全な三人称視点の場合は「地の文」はもちろん「会話文」にも心の声は書けません。だから最近の小説では完全な三人称視点の小説がほとんど姿を消しています。
また誰の心の中も覗ける「神の視点」は「地の文」に書かれた心の声が誰のものであるのかがわかりづらくなるのです。そして誰の心の中も覗けるという作風のため、一人の主人公に感情移入するのが難しくなります。
群像劇であっても「神の視点」ではなくシーンごとに主人公が異なる「一人称視点を併用した三人称視点」で書くようにしましょう。
描写が「修飾」を多く用いるのも「出来事を書く」ために欠かせないからです。
ただ単に「5W1Hに基づいた情報伝達文」つまり説明を書くのではなく、「5W1Hよりもそこで起こっている出来事」をそのまま書きましょう。それが描写なのです。
最後に
今回は「描写は修飾と出来事にあり」ということを述べてみました。
同じ単語を用いても説明になる文と描写になる文に分かれるのです。その差は「修飾」をしているかしていないか。
描写は「修飾」によってもたらされます。ちなみに比喩も「修飾」に含まれるのです。
また感情をただ「楽しい」「悲しい」と書かずに「笑い声が弾け合う」「何もかもが虚しく聞こえる」のように行動にすることで、説明の陳腐さが消えて表現が多彩になります。
一方で「心理を象徴する風景描写」は書きすぎるとキザったらしくなるのです。「楽しい」ときはつねに太陽が照っていてポカポカと暖かかったり、「悲しい」ときはつねに涙雨が降っていたりするのでは、あまりにも紋切型な表現になります。
主人公の気分次第で天候が変わるのでは、巫女の雨乞いのような「超常の力(超能力)」を感じさせるのです。
あくまでもポイントを絞って効果的に用いるようにしましょう。
そして「5W1H」で説明するだけでなく、できるだけ「出来事」を読ませて描写することを心がけてください。
小説は新聞記事やテレビのニュースではありません。主人公に感情移入して物語を疑似体験するものです。
主人公が体験する「出来事」を読ませることで感情移入をさらに深めさせましょう。